※特にスケオタでも無いので、その辺りの矛盾があった場合はそっと優しく教えてくださるか、そっとスルーかでお願いします……。

※5話放映後に書いたおはなし。
※ヴィクトル夢だけどヴィクトル出てこないですごめんなさい!




 ロシアの冬は冷たい。寒いという意味では無く、冷徹という意味で、冷たく情を持たない。湖には厚い氷が張り、夏は水遊びをしていた鳥たちは見離したように南に飛び去った。動物が見えなくなった湖の景色、私は嫌いでは無かった。冬の湖上には思い出が宿るから。
 秋に鳥たちが群を成して飛び去るのを見ると、私は初恋が生まれた、思い出の季節が到来することに気づかされるのだ。

 少し暗くなりかけている空に、私はひとつため息を吐いた。買い物に出かけるのが思ったより遅くなってしまった。これからまた寒くなる。帰ってくるときにはブーツの中まで凍えるのだろう。そう思うと億劫で仕方が無いのだけど、ここでまた戸惑えば、ヴィクトルの中継に間に合わなくなる。
 ショートプログラムは当然の1位通過。だからヴィクトルの滑走順も最後。それを見越しても、必ずや彼の演技までには買い物を済ませ、ウォッカにチーズも間に合わせてテレビの前に座りたかった。完全防備で車のキーをポケットに忍ばせ、私は家を飛び出した。

 家からマーケットまでの道のり、私は湖の横を通り過ぎる。夕暮れにさしかかる氷の張った湖は天然のリンク。子供たちがアイスホッケーやスケートをしている。スケートをしているのはきっと兄と妹だ。湖のへりで母親がふたりを見守っている。
 きちんと氷の上に立てる兄に、両手ですがっている妹の姿は、私とヴィクトルを思い出させた。近所のお兄ちゃん、ヴィクトルは私にアイススケートを教えてくれたひとだった。

『ヴィクトル、手を離さないで』

 本当に幼い、初等学校に入る前の話だ。

『なんで? 君はひとりで滑れるよ、ほら』
『やだ!』

 氷の上で転ぶのが怖かった。だから離れていこうとする彼の手を、あの時は追いかけられた。
 立ち方、体重の乗せ方、それから重心を反対側の足へ移す方法。ヴィクトルは幼い頃からとても感覚的な話をたくさんする男の子だったけれど、彼の教えはすんなりと私に染み渡り、私はスピードをつけてそのあとくるりと2、3回くらいのスピンもどきが出来るくらいに上達した。あの頃は何せ体が軽かった。
 まあでも、あっと言う間に、ゴツゴツして転びやすい天然のリンクじゃなく、磨かれ整備された屋内のスケート場で滑る、期待のホープになってしまったのだけど。

「………」

 やっぱりロシアの冬は好きとは言い難い。イタリア人に生まれていたらきっと、毎冬鬱々と過去を思い出すことも無いのだろうから。

 こんな寒い時期になるべく外出しなくて済むように、まとめ買いは基本だ。マーケットでひとり黙々とカートを押しては、商品をどれも多めに積んでいく私の肩を叩いたのは意外な人物に会った。

名前!」
「え、ミラ? どうしてこんなところに」
「それはこっちの台詞よ!」
「いやいや私の台詞だわ」

 ミラことミラ・バビチェヴァ。彼女を表現する言葉はたくさんある。18才という年齢を謳歌するような色づいてくセクシーな体つき。情熱的なまなざしやどる顔立ちに、赤みがかった髪色が似合っている。
 だけど一番は、彼女が女性で世界ランク3位のスケート選手だということだ。どうしてこんなところに、というのは明らかに私が言うにふさわしい台詞である。

「いいの? こんなところにいて」
「こんなところって。マーケットで買い込むのは大事でしょ。気分転換にもなるし」
「それもそうね……」
名前にも会えたし」
「可愛いこと言うんだから」
「一緒に歩いても?」

 そう首を傾げる姿に、ああまだ少女の面影が残ると思いながら答えた。

「もちろん」



 ヴィクトルが門を開いてくれた私のスケートは、人よりは上手い、という程度の話で終わったしまった。そんな私とミラが顔見知りなのもやはり、ヴィクトルのおかげだった。ミラだけじゃない。ヤコフ・フェルツマン、ヤコフ・フェルツマンの元でスケートの技術を磨く選手たちに、なんとなく顔が知れているのも全てヴィクトルが何かの折りには私の前に顔を出したり、呼び出されたりしてきた結果だった。

「見たよ、インスタグラム。ミラ、最近お気に入りだよね。ユーリのこと。二人の写真、本当に微笑ましくて大好き」
「見てたのね、気づかなかった」

 予想外にミラが驚いている。ビーツを一束掴んでカートに入れる。真っ赤で果汁で手まで赤く染まる野菜。

「一応ハートは贈ってるんだけど……。ま、あの数じゃ分からないよね」
「それもあるけど、ヴィクトルが言ってたから。名前はインスタやってないって」
「ああ。ヴィクトルにはアカウント教えてないからね」
「どうして?」
「んー……」

 またもミラの食いつきが良い。私は肩をすくめる。

「必要無いから、かな」

 ヴィクトルが滑るところ、即ちヴィクトルが世界を驚かせているのを確認するのは、以前の私にとってはもっと、必要不可欠なものだった。投資家が毎朝為替レートを確認するように、私はヴィクトルの同行をなんとなく知ることでこの世界が無事回っていることを確認し、そこでやっと自分の日常生活を始めることが出来た。彼が生きていることを、世界の歯車のひとつにしていた、そういう時期も、あった。
 彼を少しずつ知ることをやめていったことにきっかけは無かったと思う。ずっとやめよう、やめようと思っていたことが徐々に叶っていったと言うのが一番近い感覚だった。

「それこそ何万と反応があるなかで、私の反応なんて気にしてないどころか気づかないと思うし、ヴィクトルのあれって、誰かに伝えたいわけじゃなくって……。なんていうのかな、自分のオフショットを見せるのがスターとしての義務って思ってる部分あるし」
「当たってるわ……」
「でしょ。ミラの上げてる写真は単純に好き。ミラもすごく良い表情をしてるし、見てて元気もらえるから」
「そっちばかり見てるのはずるいわよ。名前のアカウントも教えて」
「はいはい」

 ミラがカットフルーツのカップを手にしている。

「お姉さんに払わせなさい」

 私は25才。こんなに気安く話してるけど、彼女は7才も年下だ。強引に私のカートの中に入れさせて、会計をした。
 荷物を全て車に詰め込む。ミラはどうやらバスで来たらしい。大事な体だというのに、なんだか私と離れがたいようで車のそばに所在なさげに立っている。

「ミラ」
「………」
「家に来ても良いけど、どこかお店に入っても良い。ただし、テレビのあるところね。さ、車に乗って」

 やれやれ。願いが叶うとぱっと笑顔を輝かせるところはやっぱり、十代の女の子だ。笑ってしまうのを押さえきれないまま、私も運転席に乗った。

 ミラを連れて向かったのは、なじみのお店。テレビはあるし、お願いすればテレビのチャンネルをスケートに合わせてくれるからだ。
 本来の予定なら暖炉に火を入れ、酒を煽りながらグランプリファイナルを見守るつもりだったのに。車で来てしまった、その上に助手席にはミラがいるのだから、私は素面でヴィクトルの演技を見ることになった。
 曲目は『離れずにそばにいて』。SPも同じ曲だったくせに、タイトルを聞いた瞬間に胸が跳ねてしまった。

『ヴィクトル、手を離さないで』

 幼い私の必死な声が一瞬蘇り消える。その次には、笑いが。

「……名前、なんで笑ってるの」
「だって。離れずにそばにいて、ってヴィクトルが一生言わない台詞じゃない。似合ってない」
「そう? ヴィクトルだって言うかもしれないわ」
「"離れずにそばにいて"?」

 ミラが強気で頷く。私はますます笑ってしまう。

「ねえ、名前?」
「ああ、ほらテレビ見ようよ。最初のジャンプだよ」

 彼の演技に見入りながらも私は、過去を思い出していた。
 世界を魅了するのが仕事のヴィクトルは、たくさんの恋をした。相手にも出会いにも困ることは無かったのだろう。
 テレビで、ラジオで、ネットでヴィクトルのことを確認すると、時たまそれが伺えた。特に私は、彼の演技の中に彼の恋模様を見ていた。恋愛は様々な経験をもたらし、彼の演技に深みを与えていった。ヴィクトルが何かの折りに顔を出したり、呼び出されたりするのだから、答え合わせも簡単だった。

 ヴィクトルの演技がフィニッシュを迎え、採点に流れていく。素晴らしいわね、そうねなんて会話を交わしているうちに、予定調和のようなヴィクトルの世界選手権五連覇が決まった。

「……名前と別れるときも言わなかったの」

 スケートも上手じゃない、学校の成績も目を見張るほどじゃない。ただのご近所さんなのに今も縁が切れない原因は、やはりヴィクトルにあった。だからどこかで期待はあったように思う。彼と私には、ふたりだけの絆があるように感じていた。
 2年前、ヴィクトルが恋人と破局した。また私に会いに来て、一緒にお酒を飲んだ。彼が、言った。僕らは関係を進めることが出来るんじゃないか?

「別れるって言っても、二週間で私が"なんか違う"って言っただけの話だから、付き合ったかと呼べるかどうか怪しいし」
「……そもそもなんで違うなんて思ったの」
「だって、ヴィクトルは幼なじみで、私たちはそれを20年以上続けてきたわけだし、それにあいつの演技の肥やしになるのはやだなって思ったの」
「肥やし?」
「ヴィクトルは、恋をすることでちゃんと変わっていったから。出会いも別れも経て、より、魅力的に」
「……ヴィクトルは、演技のために恋をしてたわけじゃないわ」

 そんなこと分かってる。だけど今私が放ったのは、そう取られてもおかしくない発言だった。罰が悪い。ミラから目を反らしたかったけれど、18才のまなざしが、臆病な25才に突き刺さっていた。

「そう、そうだけど。私じゃきっと、ヴィクトルを変えられない。彼を良い方向に導けないと思う……」

 隣のミラが急に肺いっぱいに空気を詰めるよう息を吸って、それから吐いた。

「なるほどね」
「………」
「そういう気後れも、あるのね」
「選手生命って、長くは無いもの」

 テーブルの上、手がグラスをまさぐった。アルコールが欲しかった。のどがカッとかゆさを訴えていた。でも私は車で帰らなくてはならない。ミラがいるから、飲むわけにはいかなかった。

「今までの恋人たちがヴィクトルに様々なものを与えたのは、そうだと思う。影響を与えたのは恋愛だけじゃ無いと思うけれど、でもヴィクトルは変化を続けて、世界を驚かせてきた」
「ええ」
「だけど、ヴィクトルの成長を、ヴィクトルの時を止めてしまったのは貴女だけ」

 ミラが何を言っているのかその時は分からなかった。私が、ヴィクトルの時を止めた?
 彼女は至ってシリアスに言うが、テレビの中、ヴィクトルは華麗に金メダルを掲げ、白い歯を輝かせている。

 理解できない。けれどミラの言葉が私を責め、心臓がどくどくと痛いくらいに跳ねていた。
 ヴィクトルは私をリンクサイドに連れてく時、私を紹介する台詞はいつも決まっていた。

『幼なじみの名前だよ! それでもって僕が一番最初にスケートのコーチをした子だ』

 それを聞く度に、ああヴィクトルもまだ氷上でのこと覚えているのだなと苦笑いしたものだった。思い出が繰り返し再生されている。テレビはまた、ヴィクトルの演技をリプレイする。『離れずにそばにいて』。



 それから、半年後だった。現役を続行するものだと思っていたヴィクトルがロシアを離れていった。日本の選手ユーリ・カツキのコーチになると言って、全て振り切るようにして、彼、ヴィクトル・ニキフォロフは行ってしまったのだった。