※特にスケオタでも無いので、その辺りの矛盾があった場合はそっと優しく教えてくださるか、そっとスルーかでお願いします……。
※5話放映後に構想しているお話なのでその後のアニメの展開と矛盾を起こすかもしれません
※思いついたら書いている方式なので特に連載しているとかじゃありません
青暗く暮れた夜に、手元で青白いライトがバイブレーションとともに点滅した。ああまた帰宅と同時にスマホを握りしめたまま寝てしまった。もったりとした後悔が頭をもたげるなか、眩しさに抵抗しながら画面を見る。映し出される名が、一瞬理解できなかった。
「ヤコフさん……?」
ヤコフ・フェルツマン。ロシアのスケート界で手腕を振るう名コーチからのコールだ。確かに私と彼は電話番号を交換した。ヤコフさんの方から、何かあったときのためにと声をかけられたのだ。でもこうして電話がかかってくるのは非常に珍しい。
たぶん、ヴィクトルのことだ。咳払いして声が出ることを確かめてから電話に出る。
「おはようございます」
「朝にすまないな。頼みがある」
「どうしたんですか」
電話越しのヤコフさんはかなり焦った口調で告げた。
「はあ、ヴィクトルが。はあ、ネットの動画見て雷のようなインスピレーションを受けた? 来シーズン休むんですか? その期間は日本の選手のコーチ? んで日本に……。そうですか……」
そっかぁ。進退についてはちょっと浮かない顔していたし、ここ最近の彼は少し悩んだ風だった。だからといって日本に行く、というのには驚いたけれど、私は「そうですか」と言うしかない。
日本に行く選択についてもそれ以外のことも、ヴィクトルについて私が言えることはあまりない。と思ったらスマホが急に怒鳴り上げる。
「え、今離れたら現役には戻れないって言われても、いや、私その辺素人ですし。ヴィクトルの決めたことなら……。え、今から空港!? 私がですか……?」
「そうだ!」
「なんで……」
「なんでもだ! 今すぐ来い!! 奴を止めろ!!」
とにかく来い! 今すぐだ! そう言って電話は切れてしまった。
「え、ええ〜……」
寝起きだから髪もぐしゃぐしゃだし仕事終わりで帰ってきたところだというのにこれから空港に来いと言われても……。とりあえずコーヒーだ頭が回らない。
コーヒーマシーンでコーヒーをいれる。うん、このマシンをくれたのヴィクトルだった。たいそうおモテになる彼はとにかく物をもらう機会が多く、わたしも色んなものが回ってくる。
マグに口をつけてると、その香りとともにゆっくりと頭が起きてくる。空港、空港か。ヤコフさんはどこの空港なんて言わなかったけど、日本に行くんだからここから一番近い国際空港だ。彼のディープなファンには到底及ばないけれど、私も二回くらいは海外まで彼の応援に行ったことがある。応援なんてたいそうなものじゃない、ただ観客席から彼を見守っていただけ。いや見守るなんて言葉も厚かましい、ただ見ていただけだ。
「はぁ……」
フライトは何時なんだろう。今から行って間に合うのだろうか。シャトルバス、よりはやっぱり自分で運転した方が早いんだろうなぁ。
「……、はぁ……」
もう一度大きなため息をつき、私はコーヒーをそのままタンブラーに移しかえた。鞄、コート、車のキー、コーヒー。人に会える最低限の格好に身を包んで、歯をぎりぎりと噛みしめながら家の鍵を閉めた。こういう時、結局行ってしまう自分を哀れに思いながら。
『! コーヒーマシン送るからね! これから預けるんだけど今週中には着くと思う!』
信号待ちの時によみがえった彼の声。我が家にはインスタントコーヒーの瓶しか無かった頃の話だ。ヴィクトルは急に電話をかけてきた。
『えっコーヒーマシンって……。急になんで?』
『もらったんだ。でももう僕の家にはあるからね。君にあげるよ』
『ねえ、それってヴィクトル宛の贈り物でしょ。贈り主はヴィクトルに使って欲しいんじゃない……?』
『もう、は堅いなぁ。贈り主には家族にあげてもいいかいって言ってある』
『で、でも新品なんでしょ?』
『使用済みだったら良いのかい? じゃあ今から僕が開封してマシンにキスをする。それで良いだろう?』
家族という言葉が出たあたりで、私はすでに動揺していたのだ。そこに急にキスと言われて、はあ? と言いながら電話越しに赤面してしまった。
新品であることに文句をつけたら、どうして「マシンにキスする」という発想になるのか全く理解できないのだけれどあろうことかヴィクトルは、電話越しにコーヒーマシンにキスをする実況中継を始めたのだ。
ほら、今開けたよ。うん、無難な黒いボディに赤いラインだ。艶やかで美しい。じゃあキスするよ。頭の、そうだな前髪の部分だと思って。……はい、これで新品じゃない、じゃあ送るから!
そうしてキッチンを圧迫しそうなほど大きく豪華で、ヴィクトルのキス付きコーヒーマシンが我が家に届いたのだった。
「………」
眉間にしわが寄ってしまう。コーヒーをもうひとくちと思ったけれど、あいにくとタンブラーの中身はもう空だ。
今から私は空港に行く。間に合えば、これから日本に発とうとするヴィクトルと対面する。ヤコフさんは私に空港に来いと言ったけれど、私に何が出来るわけでもない。
そもそも日本に行くことに反対していない。賛成するための要素を知らなければ、反対するための理由も持っていないから。じゃあなんて言う? よく考えてって? ヴィクトルほどによく考えている男を私は知らない。スケートのこと、自分自身のこと、それから世界を驚かせること。
「……、だからあの年で薄毛の気配がするんだよね……」
なんてつぶやけば、私の内側に住み続ける美しいくせして子供っぽい彼が、あからさまに拗ねた顔をした。
結局、私はヴィクトルのフライトには間に合わなかった。本当にぴったり間に合わなかった。私が空港の駐車場で見上げたジャンボ機が、どうやら日本行きのものだったらしい。
空港内で怒り心頭ながらも意気消沈したヤコフさんを見かけた。きっとヴィクトル相手に怒鳴り散らしたのだろう、興奮状態の彼をなだめ、空港内のカフェに入る。夜ご飯を食べる気になれず、寝起き二杯目のコーヒー。
「行ったよ、アイツは」
「そう、みたいですね」
「……チッ」
ヤコフさんは顔つきも悪人のようだし、柄も悪い。しかも黒がメインの服装がまた彼を不吉に見せている。そんな男に相づちを打っただけで舌打ちされてしまった。彼の機嫌は最悪だ。これから何を言ってもまた舌打ちされてしまうのだろう、と分かっているのに私の口は滑りだしていた。
「……何があっても、ヴィクトルは行ってしまったと思います。日本の、なんて名前の選手か忘れちゃいましたけど、日本の選手がヴィクトルの心を動かしたのなら、もうしょうがないです。ヴィクトルは心の動くままに生きた方が良いから」
「チッ」
「す、すみません……」
「その言葉、本人に直接言ってやれ!」
「え、しょうがないね、って……? すみませんごめんなさいそれ以上怒らないで」
彼が少し落ち着くのを待ち、無事帰れそうになったところを見送って、私も車に戻る。シートに体を預け思う。私は何をしに来たんだろう。なんで空港まで来てしまったんだろうか、と。ヴィクトルに会ったとして、私に言えることは何もない。じゃあ、言いたいことは?
「……あ、やば」
スマホを見ると会社から電話が幾度もかかってきている。なんで連絡に出なかったのか何度もコールしたぞと問いつめられて、私は素直に打ち明けた。
ヴィクトルが来シーズン休むらしいこと、ヴィクトルの選手としての進退についてヤコフさんから協力を求められたのだと訳を説明したら、あっさりと許してもらえたから、私はまた変なところで実感してしまった。ヴィクトル・ニキフォロフはやはり、ロシアの国民にとってスターなのだ。
「あ゛」
仕事終わりになんともなしにスマホを見ていたら気づいてしまった。またヴィクトルから私のインスタグラムへハートが送られている。友達の家に遊びに行ったとき、そこの美人猫ちゃんとじゃれた時の写真だ。
ヴィクトルにインスタグラムのアカウントは教えていなかったのだけれど、彼が世界選手権5連覇を成し遂げた日、ミラにアカウントを教えたらいつの間にかヴィクトルに見つかっていた。
「なんであいつ山ほどフォロワーいるアカウントで堂々こういうことするかな……!」
こっちは一般人で友人たちに細々とフォローされているだけのアカウントだというのに。勝手な気まずさを覚えながらヴィクトルのアカウントを見に行くと、つい数時間前に更新があったようだ。
「何これ……。ハセツ・キャッスル?」
日本のお城を背景にヴィクトルと、彼の愛犬マッカチンが写っている。
「ヴィクトル、マッカチンもちゃんと連れていったんだね……」
マッカチンも日本へ連れていったことに、ヴィクトルの本気を感じてしまった。本腰を入れてユーリ・カツキのコーチをする気だし、本気でシーズンに出ず自分を休めるつもりでもあるのだ。
テレビのスポーツニュースはまだまだヴィクトルの休養を熱く、時にシリアスに報じている。そんな本国の様子を知ってか知らずか、写真の中の笑顔は明るく朗らかで、私もつい苦笑した。
「?」
「はい」
「にやにやしてるところ悪いけど、お客さんよ」
「えっ、あ、はい」
急に指摘されて自分の顔を手で覆う。私が見ていたのはただのヴィクトルのインスタグラムだけど、そんなにやにやしてただろうか。動揺が収まる前に、オフィスに声が響く。ドスの効いた、けれどまだ少年の声が。
「おい!」
「ユーリ?」
オフィスの入り口に立っていたのは顔が美しいくせして柄の悪い、ユーリ・プリセツキーだ。
「ボケッとすんな、行くぞ!」
「行くってどこに。っていうかここオフィスだからもうちょっと声を……」
「ヴィクトルの居場所が分かった。日本の、ハセツだ」
「な、なんで……」
「なんでもだ! 今すぐ来い!! 奴を連れ戻すぞ!!」
とにかく来い! 今すぐだ! そう言ってロシアの妖精はグルルルと猛犬がごとく唸っている。
「オラ! 行くぞ!」
「もう空港に行くの?」
「違ぇよ! お前んち行く。パスポートを、出せ」
「え、ええ〜……」
このヤンキーは本気だ。私の家でパスポートをきちんとせしめて、空港に連れ去る予定らしい。目の前の妖精は私を逃がす気がないし、職場の人間も当然ヴィクトル・ニキフォロフを連れ戻しに行くだろ? という目でこちらを見ている。
「ユーリ、何でここまで来たの?」
「地下鉄」
「空港まで何で行くつもり……」
「の車」
やっぱりね! そうだと思った!! いつも仕事から帰ると家で少し寝てしまうのに、これからユーリを乗せて帰って荷造りをして、またユーリを乗せて空港まで運転するのかと思うだけで疲労が増す。
「行くだろ?」
「……事故らないよう気をつけないとね」
歩き出すと着いてくるユーリは怖いくせに可愛い。ド派手なカートを引いているけれど、その中身は日本行きの準備がきっちりとなされているのだろう。
くたくたな体で飛行機のシートに身を沈める。窓の外は暗く、滑走路のランプが点滅している。ヴィクトルを見送ったのも、夜だった。雪は降っていたけれど吹雪はロシアにしては優しく、ヴィクトルの出港を拒んではくれなかった。
ヤコフさんもきっと必死に彼を説得しようとしたのだろう。
「……、ねえユーリ」
「あ?」
ヤコフさんを思いだし、そしてはたと気づく。
「今気づいたんだけど、日本行くのってヤコフさんの許可……」
「ンなの貰ってるわけねーだろ」
「………」
私、25歳。ユーリは15歳。
「どうした? 顔青白いぞ。働きすぎじゃね」
若き、いや若すぎるユーリくん。これは働きすぎじゃなく、事の重大さに血の気が引いているのです。