※主人公はトロイメアの姫ではありません
※主人公が人外→人間のルートを辿るお話





 私がこの世界で目覚めたのはいつになるのでしょうか。スノウフィリアの国に舞い散る雪であった私は、ずっと前から存在していたとも言えますし、生まれては溶け落ちる、みじかな命を持っているとも言えるでしょう。ただ、初めて感情を宿したのは、貴方の手のひらです。フロスト様、貴方の手のひらを滑り、熱さと秘められた力強さに私の芯を揺さぶったのです。そのとき、雪だというのに熱くなり痛さを訴えたその芯を、私は今、心と呼んでいます。


 スノウフィリアの国に舞い散る雪であった私が、初めて雪かぶりの木に手を添え、そっと貴方から隠れることができたのは、貴方が雪を、つまり私を踏みしめたからです。
 貴方はご兄弟と城の外を歩いていました。まだ無邪気なシュニー様を見守り、グレイシア様を従え、その美しいお顔には優しい笑みがありました。なんでもできる強さを持つがゆえに、何ものも寄せ付けない冷たいように思われがちですが、実際のフロスト様はとても色彩豊かに愛情をにじませるのです。シュニー様も、グレイシア様も、この国を統べる立派な王子です。けれど私は、私の芯はやはりフロスト様のために震えるのです。

 芯が私を揺らすと、不思議なことが起こります。スノウフィリアに舞っていた私に、身体が生まれるのです。体全てではありませんが、手を伸ばしたいと思えば視界に白い手が映りますし、木の後ろに隠れたいと思うと雪に埋まる足で前を踏みしめなければなりません。
 雪でしか無かった頃には、隠れるなんて思いつきもしませんでした。なのにフロスト様の瞳は赤いと知ってしまってから、私は景色の中に貴方を見つけると「隠れなくては」と思うのです。その瞳から、姿を隠さなければ。フロスト様に見られるということが私の芯を締め付けるのです。

 身体を得るということは、風に抵抗できるようになること。雪原に跡をつけられるということ。私はここにいると思えるようになること。それはほとんど、苦しい出来事でした。
 私は人間になりたいと思ったことなどありませんでした。いつだって、スノウフィリアの雪でいたかった。大地に重なっていたい、誰よりもフロスト様、貴方の歩みを受け入れたい。貴方の肩を撫でる雪でありたい。微かなわがままとして、肩に小さく私を残してみたい。けれどどうしようもなく鼓動は生まれます。一定のリズムを刻む芯を抱きしめながら私は白い雪原にまた、己を重ねるのです。


 フロスト様から逃れるために、雪の中に隠れ続けるうちに、私はゆっくりと雪ではなくなっていきました。私はスノウフィリアの雪です。まだ、空を飛んで、屋根に降ることもできます。けれど、人間にも近づいていったのです。前よりも確かに。
 恐れていたことは、起こりました。フロスト様が私を見つけたのです。
 恐れと同時に、私はずっと願っていました。フロスト様が私を見つけてしまった時は、雪として散ってしまおう。だからもしもの時は粉雪になれますようにと願いを重ねてきました。
 けれど、それは叶いませんでした。

「お前は……」

 フロスト様の目が、声が、私を捕らえたのです。今までで一番痛く、芯が震えました。雪に、何もかも知らない雪になってしまいたいと願うのに、そこから伝わる苦しみが、人間としての姿へ私を押し固めていくのです、熱が体を巡っていくのです。





「それでもあの時は、まだ雪に戻れると思ったのですが……」

 気恥ずかしさから私は、自分の髪をしきりに触ってしまう。あの頃、温度が宿らなかった指先は今、フロスト様のお部屋に備え付けられた暖炉にすっかり暖められている。
 私は今はもう、すっかり人間になってしまっていた。髪がさらりと流れて、ドレスをまとった身は柔らかなソファに沈み、それから良い香りもする。ここまで手入れされているのは全て、フロスト様の侍女にされたことだった。フロスト様にふさわしいお姫様にすると言われ、湯の張ったバスタブに落とされた時は心の中は叫びでいっぱいだった。ふたつの意味で、私はただのスノウフィリアの雪なのに、と。

 フロスト様にふさわしいお姫様。その言葉を思い出すと、頬が熱くなる。スノウフィリアの雪がお姫様になれるわけが無いと分かっているが、「ご覧なさい」と促されて見た鏡の中の自分に、自分でも驚かされた。

「魔法は、あるんですね……」
「ああ。ここは夢世界だからな」
「え?」
「夢を見ることが、力になる。だからお前のようなことも起こり得る」

 私は侍女の方たちにかけてもらった、まるでお姫様のようにしてくれた魔法のことを言っていたのだが、フロスト様は別の意味で捕らえたようだ。

「夢を見ることが力になるなら、こんな夢、誰が見たんでしょうか」

 私に力を与えた夢は一体どこから来たのか、不思議で仕方が無い。
 ただの雪が人間の体を得て、ずっと憧れていた王子様と暖かい時間を過ごす。私の真実を告げられたら、誰もが夢物語と言う。そんな現実の中、私は今、怖いくらいに幸せだ。

「夢を見たひとがいるのなら、そのひとはいつ、目を覚ますのでしょうか……」
「勘違いをするな。お前は誰かの夢の中に生きているのでは無い」

 幸せ過ぎて、いつぱちんと弾けてもしまっても不思議では無い。そんな私の気持ちを見透かしたように、フロスト様は強い口調で言った。

「これは消えて無くなる夢では無い」

 自分の手に目を落とす。私には自信が無い。これは夢では無い、消えやしないとフロスト様の声が何度告げようとも。
 それに、何よりも現実感を奪っていくのはフロスト様自身だ。


「はい」
「もう自分の存在を疑うな。雪に戻られては困る。こうして手をとることもできないからな」

 ソファの横に座ったフロスト様が、私の左手を手にとった。ずっと鳴りっぱなしだった心が、音を大きくする。
 私を私にしてくれた芯、私のありかを示す芯を、私は今、心と呼んでいる。フロスト様の中にも確かにある心と、私の中にあるそれが同じものなのか分からない。けれど、好きな人のために動くこれは心なのだ、そう呼べと強く命じてくれたのはフロスト様だった。


「は、はい」

 私もものすごく熱くなっているはずなのに、フロスト様のものはさらに強く感じられる。フロスト様の熱、フロスト様の温度。緊張で硬くなった指先に、そっと冷たいものが走った。

「……、…」

 見れば私の薬指を通っていく、光りの輪。たくさん驚いているはずなのに、輪の天頂についたみっつの石が、私の頭の中をきらきらに染めていく。

「これは俺からのプレゼントだ」
「……、ど、どうしてでしょうか」
「お前には俺の恋人という自覚が足りなさすぎるからな。こうして部屋に招き、共に時間を過ごし、指輪を贈る……。この意味が分からない、とは言わせない」

 自分の指を目の前にかざす。そっと手を添えてくれたフロスト様の温度が残る指には、輝く指輪がある。

「……っ」

 なんて綺麗なんだろう。ただただ心が震える。フロスト様が今日という日を私とふたりきりで過ごしてくれる理由、こうして指輪を贈ってくれた理由は、頭ではわかりつつあった。
 信じがたい、彼が私を愛してくれているなんて。だけど、私は雪であった頃から知っていた。彼はスノウフィリアの三兄弟の王子で、最も気高く、最も愛情深いひとだ。
 苦しい。なんて苦しいんだろう。胸の鼓動でいっぱいになる。指のわっかが私の全てを締め付ける。そのうちに視界が潤んで、指輪が上手に見えなくなる。代わりに指越しに、私を真剣に見つめるフロスト様がいた。

「フロスト様……」

 薬指の指輪を抱きしめる。それを痛む胸へと抱える。

「私、雪に戻りたい……」

 雪に戻りたい、だけど同じくらいフロスト様の胸に飛び込みたい。苦しくて息もできないでいるとフロスト様の腕が私とすっぽりと包み込んだ。
 何も見えない胸の中で、私は想像していた。フロスト様は気高い笑みのまま、私を包んでくれているのだと。けれど彼の胸を震わせた声は正反対の、ちぎれそうに切ない声色だった。

「戻るな。戻りたいなんて言うな。いつまでも俺は、願うしかできないのか?」
「フロスト様……?」
「願うことしかできないのだろうな……」

 自嘲めいた笑みが降ってくるのを私はかたまって聞いているしかできない。

「二度と雪に戻らなくても良いというくらい幸せにしてやる。俺がを選んだこと、誰にも何も言わせない。その自信はある。だが、雪に戻りたいというのはお前の願いだからな。愛するひとの願いを潰すことは俺にはできない……」

 フロスト様。フロスト様。彼の背中に手を伸ばそうとすると、薬指がきらりと光る。
 ああ。私が今やらなくてはならないのは、痛みにおびえることじゃない、白雪の中に逃げ込みたいと願うことじゃない。
 今私がどれだけ幸せか、フロスト様に伝えなければいけないのだ。

「フロスト様、貴方にこんな思いをさせてごめんなさい」
「謝るな、俺こそ……」
「いいえ。聞いて、ください」
「ああ」
「……顔を見て、話したいんです」

 そう願うと、強い拘束が緩まっていく。重なりあっていた体を離し、彼を見上げると、ぎゅっと胸が締め付けられる。辛そうな顔。私がフロスト様にこんな表情をさせている。

「ごめんなさい……」

 その言葉は本当なのに、一方で私の胸に広がるのは暖かさだった。このひとは、本当に私を愛してくれている。

「フロスト様。私、ずっと、雪に戻りたいとは思っているんです」
「……っ」
「でも、できないんです」

 私はスノウフィリアの雪だった。
 だけど心を宿した。貴方の手のひらに触れたから。フロスト様の手のひらを滑り、熱さと秘められた力強さに私の芯を揺さぶった。

 それでも私はスノウフィリアの雪だった。
 けれど体を得てしまった。貴方の目を知ってしまったから、それから隠れたいと願って、けれど見つけられることももうひとつの願いだったのだろう。

「私は、フロスト様に恋をしたから生まれたんです。フロスト様にたくさんどきどきしたから心臓が生まれて、人間になりました」

 だから見つめられて胸を跳ねさせた私が、雪になど戻れるはずが無いのだ。恋をすることで生まれて、恋が私を人間にしてゆくのだから。

「私にかかってる魔法が何か、分かりましたか。全て、この心がフロスト様を想っているからです。この恋が永遠に解けないように、私も溶けることなんてできないんです」

 彼の目元に指を寄せた。あの時隠れたかった瞳にこんなにも近づいて、生まれるのは幸福感だ。痛い、苦しいばかりで知らなかった。人間の体にこんな幸せがあるなんて。
 私が目を細めたのは笑みでもあったし、切なさでもあった。

……」
「大丈夫です、私はもう戻れないんです……」

 唇が触れる。どきどきと脈打つ全身がソファに預けられる。
 閉じようとして潤む視界に入りこむのは、やはりあの指輪の輝きだった。





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