HCLI社に私が就職を希望したのは、非常に回りくどい安定志向の結果だった。
海外への転勤が多かった父について、わたしも多くのところを回った。二年以上留まった都市がいくつあっただろう。そのせいで私は大人になっても同じ場所に留まる自分が想像出来ないのだ。だから海か空か、どちらでも良いが様々なところを回れる職につきたいと思っていた。
そして早々に潰れそうにない会社が良いと思った。人間の本質に結びついて、そこから利益を上げてる会社が良いと思い、狙っていた。
HCLIが武器を商品に莫大な利益を上げていたことはもちろん知っていた。知った上で、私はHCLIを就職先の第一志望に上げた。
でも別に死の商人になりたいわけではなかったので、武器の値段に比べれば小遣い稼ぎのような、些細な商品を扱う部署を希望した。
各国の軍事費から上がる利益の影に隠れて自己実現を果たしたいという考えは罪だったのだろうか。HCLI社のトップ、フロイド・ヘクマティアルに会ってしまったのは当時の上司のイタズラみたいなもので、しかしそれが私の運の尽きだったのだろう。恐怖の印象だけ残して既にろくに顔も思い出せないあいつのたった一言の命令で、私は優雅なパナマの部署から本社へ取り立てられた。
それからはあっと言う間だった。私はHCLIの本丸、武器商の片棒を担ぐ軍事関連の部署に転属が決まったのだった。
「こういうのって、この部署のために育成された人材しか入れないんじゃ無かったんですか……?」
明るく爽やかな軍事部門におかれたマイデスク。膝を震わせながら事実確認を行った私に、新しい上司がシニカルな笑顔で言った。
「そのはずなんだけどね。ようこそ、叩き上げのお嬢さん」
叩き上げと言われるほど私は下から這い上がってきたわけじゃない。しかしHCLIの本体と言える軍事に関われるほどのエリートでもない。そんな中途半端な私だがかくして武器の売り上げを数え一喜一憂する日々は始まった。
私の程々の学歴と程々の語学力が、戦争を食い物にした商売に費やされるなんて。何という海運の神のいたずら。いやあのおっさん、いたずらとかする柄じゃないけど。
さらば中央アメリカ。パナマ共和国が我が故郷には勝てないとしても、嗚呼私は、貴方が意外に気に入っていた。
あー、ウマい。激務でも毎日最高クラスのコーヒーを飲めるのだから大手企業っていうのはたまらない。HCLIがこういう嗜好品に対してみみっちい会社じゃなくて本当に良かった。うちの会社万歳。
今の部門に違和感が無いわけじゃない。けれど私は自分でも思ったより早くこの隔離したオフィスに馴染んでしまった。
ここで働くのが嫌いじゃない理由。毎日自由に飲んで良いコーヒーが美味しかったから。それはバカバカしい理由じゃない。たとえ売っているものが殺戮の道具でも、入って慣れてしまえばなかなか心地の良い居場所であった。
でもしばらくこのコーヒーも飲めなくなる。1時間後には長期の出張が入り、オフィスにいられない。
本社に帰る時間を作ってくれない営業達の監査に、生身の人間を派遣するなんて、今時アナログが過ぎると思う。けれどそれが私の重要な任務のひとつだった。
各地へ散らばっている会社付きの武器商に会いに行ってはチェックを入れる。ちゃんと仕事してるか、金を中抜きしていないか、現場での取引において会社から確認出来ない不透明な方法を行っていないか。隠し口座も含めた金回りをチェックする側と、抜き打ちで商人を訪ねては羽振りの程をチェックする側がいて、私は苦労の多い抜き打ちを行う側であった。
明日、私が捕まえなければいけないのはフロイドさんの二人いる実子の内、その長男、キャスパー・ヘクマティアルである。
フロイドさんの顔は今も思い出せない。しわの多さ、瞳の印象、そういった漠然としたものなら刻みつけられている。しかしその顔は霞がかったように白く塗りつぶされてしまう。私の人生を狂わせた人間だと言うのに、だ。
でも、顔を思い出せないくせして、キャスパーさんとの初対面時にはああフロイドさんに意外に似てるじゃないかと思ったものだ。
キャスパーさんに連絡を入れるのは向こうの空港についてからだ。あの人、私が来るとすぐ郊外に逃げるから。しかも私が自力でたどり着ける程度の僻地に。
数時間のフライトを終えてたどり着いたタイはスーツを脱ぎ捨てたくなるくらい素晴らしい晴れだった。抜き打ちテストだから事前に連絡するなんて本当はあり得ないのだけど、残念なことに私にはキャスパーさんの人柄が分かってしまっている。私はさっさと当人に電話をかけた。
「キャスパーさんキャスパーさん。どうもです」
「やあ! ! ちょうどキミを思い出してたところなんだがすばらしい偶然です! そうか、キミが来る暗示だったのか!」
携帯がらガンガン響くキャスパーさんの声。何も聞かなくともお元気そうで、何よりだ。
「お時間よろしいですか?」
「もちろん!」
「今どこにいるんです?」
「バンコクの外れだ。良い天気ですよ」
「それは良かった。今から伺います」
「残念ですが僕らはちょうど移動するところなんです。そうだな、どこか遠いところへ」
受話器からちょっと声が離れて「が来るぞ! さあ荷物を畳め!」という楽しげな声、そしてエドガー・アラン・ポーの笑い混じりの返事が聞こえてきた。
「あの~……、こうやってご連絡差し上げたわけですしそこから動かないでもらえません? 私、昔一月ほどですけどバンコクで研修してたことがあって。美味しいお店知っているんです。バンコクで落ち合いましょ? ねっ?」
「フフーフ。それはだめだ。ちょうど車に乗り込む、いや乗り込んだところなんです」
「だったら即刻降りていただきたいのですが」
「まぁタイからは出ないでおきますよ。一日くらいは車中泊しないと旅らしさが味わえない」
「私のは旅じゃなく出張です!」
強く声を張ってもキャスパーさんのご機嫌な声が軽口をたたくだけ。がさごそと電話口が騒がしくなり出てきたのは母性を感じる優しい声だった。
「ハーイ、」
「チェキータさん!」
「とんぼがえりなんて味気ないからこっち来ちゃいなさい。あとスーツは脱いでシャツとパンツなんかに着替えたら良いんじゃない」
チェキータさんは村の名前と方角をかなりアバウトに伝えると、
「待ってるからゆっくりおいで」
そう残し通話を切ってしまった。
キャスパーさんの興奮して高くなった声が耳に残っている。あの人は本社の人間を振り回すのが好きに違いない。絶対。
一つ息を吐き私はタクシー乗り場へ向かう。バンコク郊外まで車を出してくれるドライバーを探して。