両親にピアノをやりたいと言ったことなんて一度も無かった。けれど「音楽ができると良いでしょ」なんていう軽い理由をつけられて、わたしは3歳の頃からピアノを習い始めた。
 始めた時期が早かったからか、それなりの音感は身に付いた。けれど才能も、ピアノに向かい続ける忍耐強さもわたしにはなくって。音を奏でることがほんのりと楽しく、けれどつい我慢してしまう程度には苦しみながらピアノを続けてきた。結局、親の言いつけ以上の努力は決してしなかった。
 自分から頑張ることの無かった、その程度の努力が生むものは、やっぱりその程度の腕。だから大してうまくならなかったけど、高校一年生の、春。ピアノはわたしと西木野真姫ちゃんを繋いでくれた。
 今は、もう、秋だけど。



 放課後の空はすっきり晴れているのにスカートの中を吹き抜けた風が冷たい。太股をさするとひんやり冷えていた。
 補習を食らった友達をひとりで待って、今わたしは大変暇な時間を過ごしてる。廊下にやんわりと満ちる吹奏楽部の練習音。それは音楽室ではなくて、校庭や中庭の方、それに吹奏楽部専用のホールから聞こえてくる。
 わたしがいるグランドピアノの部屋に満ちるのは静けさだった。今ある部活では使われないこの部屋は、何気に空いていることの多い穴場だ。

 入学したて、一年生の春。この、グランドピアノが開放されている部屋で、わたしは真姫ちゃんを見つけたのだ。
 隣のクラスの西木野真姫ちゃんは、お行儀の良いクラシックを弾いていた。

『何よ、盗み聞き?』

 覗き見していたわたしに気づいた真姫ちゃんは演奏を止めて、きつい目つきでわたしをにらんできた。その時わたしは怯みながらも、今しがた聞いた曲への感動が勝っていた。じんわりと腕がふるえる、そんな興奮がわたしを支配していた。

『ごめんなさい。そんなつもりじゃ無かったんだけど、盗み聞き、しちゃった……』

 素直に謝ると、真姫ちゃんは驚いたような顔を見せる。けれどすぐに顔を背けて『あっそ』と突っぱねられてしまった。

『あの、西木野さん』
『ちょっと。なんで名前知ってるのよ?』
『え、だって。西木野さん、可愛いから……うちのクラスでも目立ってるよ?』
『かっ……!』
『うん』

 実際に西木野さんの名前を教えてくれたのは、別の子、クラスメイトだ。
 隣のクラスのあの子、可愛いけどちょっと怖いよね、ああ西木野さん? 病院の子でしょ、たしかにお嬢様っぽい。
 そう、友達と遠くから西木野さんの話をしたことがあったのだ。

『で、何よ?』
『あ、えっと今の曲さ、わ、わたしも弾けるんだ。今ちょうど、課題になってて』

 そう、真姫ちゃんが弾いていたのはわたしが丁度練習し、完成へ近づけていた曲だった。

『だから、何?』
『わたしはまだまだ練習中だけど、西木野さんが弾くと全然違うなって……!』

 そうわたしの未完成な演奏に比べて、真姫ちゃんのそれはすでに完成済みの、完全に“モノ”になっている演奏だった。それも、どのCDでも聞いたことのない、真姫ちゃんだけの音楽。

『すごくのびのびしてて……。こういう解釈もあるんだなーって。後半のたららららたらたらー……ってところも、テンポ速いのにダイナミックだった! それに全体的にすごくまとまってた。ちゃんと一連の曲になってて、すごい!』
『べっ、別に、そんなに大したことじゃないわよ』
『ううん、すごいよ。わたし、この曲がどうしても掴めなくて。CD聞いて、それをまねして弾いてみるんだけどなんだか違うの。テクニックだけ追いかけてると、どんどん曲全体がちぐはぐになってく感じもして……だから、何度も聞いてるうちに嫌いになってきちゃった。
 でも西木野さんの演奏聴いたら、良い曲だなぁって思えたんだ』

 あの時のわたしはとにかく感動したということを真姫ちゃんに伝えることで精一杯だった。だから真姫ちゃんの反応や表情をあまり覚えていない。けれど今、真姫ちゃんのことが少し分かっているわたしなら、なんとなく彼女の表情が予想出来る。
 あんなに優等生なのに、褒められると素直になれない彼女は多分耳まで赤くしていたような気がする。

 心から好きだと思える演奏。けれど、同時に絶対まねできないなとも思った。西木野さんのまねしてみても、わたしは西木野さんにはなれない。わたしがやったのでは、きっと嘘っぱちの演奏になりそう、とその時のわたしは思ったのだ。
 終わった花火を見送るような気持ちで良いものを聞いたな、ため息をつく。と、不意に真姫ちゃんは立ち上がってわたしを強いまなざしで見つめていた。

『……弾いてみなさいよ』
『え?』

 そう。真姫ちゃんがそう言い出したんだった。

『聞いてあげるって言ってるの』
『え、え……。でも、わたしのはまだ練習途中……』
『そんなの知ってるわよ。第三者が聞いたら、気づくことがあるかもしれないでしょ』

 真姫ちゃんが強い視線でわたしを射抜きながら、ピアノの前から立つ。イスのすぐ横で、じっと待たれて、わたしは折れるようにしてイスに座った。
 腕を組んで立つ彼女の細い肩、でもちゃんと女の子らしいふともも、気の強そうな瞳。近くで見た真姫ちゃんは、ほんとうにお姫さまみたいに綺麗な女の子だった。頭の上にティアラが乗っていてもおかしくないくらい。

『……下手くそだけど、笑わないでね』
『笑うわけないでしょ』

 その言葉に背中を押されて、わたしは真姫ちゃんの前で同じ曲を弾いたのだった。未完成の、それを。

 さすがグランドピアノ。家のアップライトピアノとはぜんぜん違う。しっかりと部屋中の空気という空気を震わせて、気づけば最後の音の余韻がびいんと鼓膜をしびれさせていた。
 間違いもあった。つまづきもあった。けれどわたしは真姫ちゃんに見られながら夢中で課題曲を弾ききった。

『貴女のは確かに正確で、楽譜通りって感じね』
『!』

 真姫ちゃんの声でわたしははっと我に返り、自分の指を膝の上にしまった。

『でも、基礎がしっかりしてるのは分かるわ。速い部分も安定してる。だけど少し複雑になるとテンポを落とすというか、思いっきり弾けなくなってるわね』
『テンポ、落ちてた?』
『少しだけね。でも怖がって弾いてるのが分かるから、ものすごくゆっくりに聞こえる。
 ねぇ。もっと心に余裕を持った方が良いんじゃない? 貴女の演奏は全体的に心配し過ぎって感じがする』
『余裕? それ、結構難しいよ』
『難しくないわよ。自分の実力をちゃんと知ったら? そしたら、練習しなくちゃいけない場所も、楽しむ余裕もできるわよ。確かに完璧じゃないけど、ちゃんとしてる部分あるんだから。ねぇ、何歳からピアノ始めたの?』

 綺麗で、勉強も出来て、家はお金持ちで。だけど、誰かと仲良くしてるところを見たことが無い。誰もが気になるけど、積極的になれない。そんな西木野さんが、わたしの隣で真剣に話している。わたしの弾いた音楽について。

 わたし、15才。ピアノを始めて12年。
 真姫ちゃんと出会ったその日初めて、わたしは音楽ができて良かった、って思ったのだ。







「っへっくしょ! ……、うあー……」

 やっぱり寒くなってきた。陽が暮れてくると、寒さが足を伝ってくる。明日はマフラーを持ってこようと思った。
 心なしか、グランドピアノの光も冷たい。
 春はやわい光を反射していたピアノ。このピアノの前にわたしと真姫ちゃんは集まり、課題を聞いてもらったり、備品の楽譜を引っ張り出して遊んだりしていた。夏はこの鍵盤の冷たさが心地よかった。真姫ちゃんの前で、ピアノに頬をくっつけて癒されていたら、真姫ちゃんに呆れた顔をされたのを覚えている。

 よく分からないけれど練習するピアノ。親の言葉で始まっていたピアノ。正直めんどうな毎日の練習。けれど真姫ちゃんは、ピアノの周りにたのしい思い出をプラスしてくれた。

「あ……」

 譜面台の奥に置かれた忘れ物のような紙の束。タイトルで気づいた。これ、μ'sの曲の楽譜だ。

 音楽室で、ピアノでつながった隣のクラスの真姫ちゃんは気づけばスクールアイドル活動に参加していた。
 μ'sの作曲は真姫ちゃんが担当しているということは噂程度に聞いていた。
 真姫ちゃんは放課後はいつもここにいた。けれど、今彼女はスクールアイドル部で放課後を過ごしているみたいで、わたしと彼女はほとんど会わなくなっていた。なので未だに本当かどうか確かめられていない。

 一枚一枚譜面台に並べてみた。音符を読みながら、一番気になってしまうのは真姫ちゃんの筆跡。本当に真姫ちゃんが作ったんだ……。
 何度か、……ううん、何度も聞いていた。パソコンで何度もμ'sの動画を再生していた。二年生、三年生と混じって楽しそうに歌って踊って笑う真姫ちゃんを、何度もループしていた。

 弾けるかな。何度か譜読みをして、ひとつ息を吐いてから、
 一応の音感で、音は分かっていた。けれど実際の楽譜を見て、作曲者の書き込みのままに弾いてみると、何度も聞いた曲が全く違った表情を見せる。真姫ちゃんの試行錯誤のあと、楽しんで曲を作ったこと、たくさんが伝わってくる。

「上手いじゃない」
「まき、ちゃん……」

 はっとして、指を膝の上にしまう。

「ごめん。勝手に」
「良いのよ。……久しぶり」
「うん」

 まるで出会った日みたいに、久しぶりの真姫ちゃんはイスの横に立つ。わたしもまるで出会った日みたいに、真姫ちゃんを見れないでいた。

「ほんと、久しぶり。元々クラス違うから、あんまり会わないね」

 彼女と、グランドピアノの前で会う。それがなくなってしまえば、わたしたちは別クラスの女子だった。

「私はここに結構来てたけど、貴女がここに来るのは久しぶりなんじゃない?」
「そうでもないよ。たまに覗いてたよ」
「本当?」
「うん。本当だけど、真姫ちゃんいるときは、星空さんとか先輩たちと一緒にいるから何も言わないで帰ったりとかして」
「ふうん」
「まさか真姫ちゃんがスクールアイドルになるなんて思わなかった」
「私も思わなかったわよ。まさか自分が、なんてね」

 そう言って髪をかきあげる真姫ちゃんは、前よりも輝いて見える。美少女という言葉がふさわしかったけれど、今はそれ以上に目が離せなくなってしまう何かを真姫ちゃんは放っていた。

「でも真姫ちゃんいつも楽しそうだから、良かったなって」

 そうだ。わたしが知っていた、お友達になれた真姫ちゃんは、一人でのびのびとピアノを弾いていた。
 けれどいつしかその周りには、同じクラスの子も先輩も増えていて。その中にいる真姫ちゃんは本当にいろんな表情を見せていた。照れたり、怒ったり、クールに澄ましたり、だけどちゃんと笑っていた。楽しそうだった。

 動画の中の輝く真姫ちゃん。そして、音楽室の扉の中で、リラックスしたような真姫ちゃん。両方を引き出しているμ'sのメンバーを見て、だからわたしは自分に言い聞かせていた。

「真姫ちゃん、μ'sに入って良かったんだよ、って……」

 冷たい秋の風を吸い込んだ鼻が、つんと痛いな。そう思っていたら、スカートに染みが出来ていた。驚いているうちに目がどんどん熱くなって、目から落ちた水はぽたぽたと音を立てる。

「ばかね」

 ため息混じりの声が聞こえて、横から引っ張られる。気づけばまつげの先に、音ノ木坂学園の制服があった。
 頭に乗る細い指。真姫ちゃんから良い匂いがして、わたしはわたしを抱きしめるその腕を抱きついてしまった。

「確かにμ'sに入って良かったと思ってる。だけど、どうしてが遠慮しなくちゃいけないの?」
「まき、ちゃん……」
「貴女もいつも楽しそうにしてるけど。クラスの友達だけじゃなくて私との時間も作りなさいよね」

 真姫ちゃんはもうわたしを見ていない。μ'sのみんなたちを見て、そこが彼女の一番の居場所なんだ。そう思っていた。だから“いつも楽しそうにしてる”なんて言葉にびっくりした。それはまるで、真姫ちゃんが学校内のわたしを見ていたみたいだ。

「あと、もうちょっと声かけなさいよ」
「え?」
「校舎で全く会わないわけじゃないでしょ? 挨拶くらい、しましょうよ」
「それは……」

 真姫ちゃんはつんつんしているけれど、実はかなりの恥ずかしがり屋だ。
 かなり前、中庭の真姫ちゃんに声をかけて手を振ったことがある。その時の真姫ちゃんが顔を真っ赤にして怒った様子だったのだ。それからはアイコンタクトはして、そっと通り過ぎることにしていた。

「挨拶、して良いの?」
「とっ……ともだちでしょ……」

 消え入りそうな声でそう言った。抱きしめられているわたしから、真姫ちゃんの表情は見えないけれど、だいたいの表情は分かる。ただ、どれだけ真っ赤なのかは気になるところだ。

 しばらくして、おそらく真姫ちゃんの顔の赤みが収まったところで、真姫ちゃんはわたしを離してくれた。それから久しぶりに、ふたりでピアノを弾いた。ひとつのイスにふたりで座って。

 同じ柄のスカートが重なりあって、二組の太股が、並んでいる。

「ねぇ、もう一回最初から弾いて」
「え?」
「良いアレンジが思い浮かんだの。やってみるから、通しで弾いてみて」
「う、うん」

 弾きながらアレンジが思いつくなんて。ピアノを小さい頃から弾いてきたけれど、天才には全然追いつかない。

 でも、わたしはピアノをやってきて良かった。音楽が少し分かる自分で、音ノ木坂学園に入学して、真姫ちゃんに出会えて良かった。
 今までのことが、これで良かったと思える。西木野真姫ちゃんがくれたのは、そんな強くて優しい魔法だ。



(かしわさん、いつもありがとう。大好き。お誕生日、おめでとう)