騒ぎに紛れた「遅れてすみません」の声。遠くのテーブルに、遅れてきた彼が座ったのを見た時、それだけでもうこの同窓会に来た理由が果たされた気がした。グラスに口をつけつつ、横目で武田くんを見やる。
卒業式後も伸びなかったらしい背丈。式の後で寒空の下でひっそり見送ったつむじが変わっていない。めがねだけは、さすがに少し今風だ。
にしても、久しぶりに会うとしても昔の同級生に「すみません」なんて言い方をするなんて。彼のまじめさは健在のようだ。ふふと、笑った息が、空のグラスの中で氷の匂いを舞い上げた。
「、なんか頼む?」
「うん」
空いたグラスを引き上げていった、元クラスメイトの薬指にはプラチナの結婚指輪が光っていた。
あまり驚きは無い。私たちはもう、“そういうこと”が当たり前に起きる年になった。
小学校から大学まで通った中で、高校生活の楽しさは下から二番目である。とにかく無邪気だった小学校、バカ極まってた大学生、そして高校、中学の順番だ。今なら思春期だったなと言える、複雑な心境。それがいつまでたっても晴れない気だるさと、追いつめられた受験期が、どうしても高校の思い出した時に舌先に苦みを連れてくる。だけど最低でも無いのは、そこにわたしの中で永遠に輝きそうな恋の記憶があるからだ。
高校生活の三年間、誰にも打ち明けないで抱き続けた武田一鉄への恋は今も、思い出すことがある。
さすがにこの歳になっても、引きずるとは思っていなかったけれど。
「おーい」
「……うん?」
「ってばもしかしてもう出来上がってる?」
「うん、さっきから全然しゃべってないよ」
「あー、うん、いや……いろいろ思い出してた」
今目の前に座るのは、当時はグループが一緒にならず、一緒に出かけた覚えもない子だった。大した言葉も交わしたことの無かったクラスメイトとも、今は自然と話が弾んでいる。
あの時のしがらみは、時が流れた今では随分小さくくださないものに見える。良い大人の年齢になって、あの時の友情は、少しずつ変質していた。
私は今一度、離れたテーブルの集団に埋もれているつむじを見た。なぜ、あれが良かったんだろう。でも、今夜は武田くんに会えるんじゃないかとかすかに期待していた。あの頃のような派手なときめきは無いけれど、初恋は頑なに変質していないのを私は確認した。
「ー」
「また黙った」
「うーん、昨日遅くて今朝は早かったから」
「え、寝るの?」
「寝ない、寝ない。まだ二杯目だし」
「いや顔が眠そう」
眠くはない。ただお酒も入って、元気そうな武田くんの姿も確かめられて、気が緩んでいるのは確かだった。ほどほどに盛り上がっている周りのガヤつきに取り残される感覚。と同時にわたしの意識はどんどん思い出の波に沈んでいく。
武田一鉄は、クラスでは目立たない方の男の子だった。体は大きくない、運動神経もそう良くない。むしろクラスの中ではよく本を読んでいる男の子だった。そうそう、難読漢字もさらりと読める人だった。
おとなしい方の人だった。でも明るくも落ち着いた雰囲気の持ち主で、同年代の中では少し大人びた精神の持ち主だった。女子を変にからかったりしないし、私が女だからって態度がおかしくなることも無いし、そういうところが、好きだった。
わたしも初めは、彼の存在を気にもかけない女の子のひとりだった。女子高生らしく恋への憧れがあったけれど、地味な武田くんは“対象外”だった。
だけど好きになってしまった。
考えごとをしていると、いやにお酒の減りが早い。それに友達は「何か頼む?」と丁寧に気を回してくれる。
おかげで、幹事が「そろそろ」と良い始める頃には、私は予定していたより多くのアルコールを飲み下していた。
ちょっぴり怪しい足取りで立ち上がる。みんなが立つ中では、あのつむじは紛れて見えなかった。
同級生だった集団が、どっと道に溢れる。わたしもへらへらしながら、そこに紛れる。
「二次会に行く人は、幹事についてきてくださーい」
「どうする?」
「二次会かぁ……。みんなは行くの?」
「私は、両親に子供お願いしてきちゃったから」
「私も」
「そっかぁ……」
見ればそれぞれの事情で半数くらいは引き上げるらしい。
正直、お腹は満たされていた。お酒はむしろ飲みすぎていた。同窓会に期待するものも、概ね得ることができていた。
武田くんとは結局一言も話さなかったけれど、私は最初からそのつもりでいた。武田くんがどんな男性になったのかは見てみたい。だけど会ったところで高校の時と同じように上手には話せないだろうし、何より武田くんの“今”を知るのが怖かった。
今も続いている僅かな交友関係で、武田くんは結婚したのだと聞いた。奥さんがいるらしい、子供もいるらしい。「やっぱりね、武田ってそういうところすごくよく思い浮かぶ。そつなく結婚してなんだかんだ幸せになるタイプに見える」。そう友達に返したのを覚えている。
その後離婚したという話も聞かないし、私の勘通り、そつなく幸せに過ごしているんだろう。
だから武田くんとは話すつもりは無かった。今の武田くんは誰か素敵な奥様の物でも、あの頃の、同じ高校生だった武田くんの思い出はそのままであって欲しいから。武田くんの今を知らなければ、まだ気持ちは保たれる気がした。彼を好きになってしまったという、私の高校生活に光を射すような、恋した気持ちは。
姿は見たかった。幸せそうな顔を見たかった。だけど、本当のところを知る勇気は無い。だから武田くんが「すみません」と言いながら遠くのテーブルに着席した時点でもう、私は同窓会の目的を果たしたのだ。
二次会なら行っても行かなくても良いけれど、わざわざ二次会まで行く理由も見つからない。そっと、幹事に連れ立つ集団を見やった時だった。
「二次会行かないんですか」
「ほわア!」
後ろから突然聞こえた声に、今日一番の声が出た。
もう何年も話していない。だけど、声の持ち主が誰かというのは、心臓がばくばく高鳴りながら教えてくれる。
「ご、ごめん」
「僕も。驚かしてすみません」
「いやいや……。えっと、二次会?」
武田くんは小さくうなずく。武田くんからそれを聞かれるとは思っていなかった。
「武田くんは、行くの?」
行くのかどうかを聞いたのに、返ってきたのは武田くんの笑顔だった。それもすごい笑顔だ。わたしに、武田くんと笑顔を向け合った記憶なんて無いけれど、懐かしい、変わってないと感じた。
「え、何……?」
「名前、忘れられてなかったんだなって」
「……覚えてたよ。武田一鉄。その、良い名前だから」
「ありがとうございます。僕も覚えてたよ、さん」
「……、……ドウモ」
高校三年間の片思いの経験は、まだ体に蓄積されている。久しぶりの武田くんと、何気なく話せていると思ったのに、名前を呼ばれてしまってはだめだった。目が熱い。忘れられていなかった。
「僕は行きますよ。二次会」
「そう、なんだ。遅くなっても大丈夫なの?」
「え、どうして?」
「それは、あれだよ。奥さんとか。心配しない? 子供は? いるんだっけ?」
触れたく無かった話題に自分から触れるのか。気になっていたとは言え、私のバカやろう。
そうですね、心配するかも、知っていたんですね、そう続くであろう武田くんの言葉を、私はへらへら顔で受け止める覚悟を決めた。
「え? 僕は結婚してないよ」
「だよねー! ……って、え?」
「まだ未婚だけど」
「ほ、ほんと!?」
「誰が言ってたの?」
「それは……」
いや確かに私はあの時、「武田が結婚した」と聞いた。絶対に聞き間違いなんかではない。
「……え、ほんと? 子供とか、いそうに見えた」
「まあ、毎日高校生と一緒にいるので、その辺は慣れているかもしれないけど」
「高校生?」
「僕、今は高校で教師をしてるんです」
「そうなん、だ。そっか。そっか」
武田くん大学行って教員免許取ったんだということも驚きだ。いやうん、難しい漢字とか普通に読めてたもんね。活用とか聞いたら教えてくれたことあったもんね。だけどそうじゃなくて、それよりも。
結婚、してないんだ。子供もいないんだ。その言葉もまた聞きたくなかったと思う。たった一言で、全てがガラリと変わるから。諦めきれなかった自分が、起きあがってあがこうとするから。
「……結婚してた、気がした」
「してないですよ」
「奥さんいそう」
「いないですって」
「マイホーム新築でローン組んだばかりとか」
「結婚資金貯め初めて何年経ったんでしょうってくらいです」
「子供は女の子っぽいなーと」
「僕は男の子でも女の子でも良いんですけど、相手が……」
「………」
幹事たちの集団がぞろぞろと移動を始めた。目の前の武田くんが、高校生活に確かに残る後悔が、両想いを知らないままだけどまあ片想いも悪くはなかったと考えているわたしが、いろんな方向から私を引っ張っている。
「ちょっと、どうすれば良いか分からない」
「とりあえず行きません?」
私がもう体中熱くて、ふとしたら泣きそうなこと武田くんは知らないだろう。割と気軽に、武田くんは駅と反対方向を指さす。
私がぎこちなくもつま先を、次のお店に向けると武田くんも歩きだした。
「次は隣に座って良いですか?」
「……なんでわざわざ聞くかなー?」
「だめですか」
「だめじゃないけど恥ずかしい!」
「あはは。僕も恥ずかしいです」
武田くんは丁寧語で、私は生意気なタメ語。そこはお互いに高校生のままみたいだ。
隣に座って、何をしゃべるんだろう。近況とかかな。私のことも聞かれるかな。まだ、武田くんが好きだという秘密は、秘密のままにしておきたい。武田くんはまだ独身らしい、けど。だからなんだ。それがなんだ。期待なんて、しないんだから。
隣で歩く武田くんは微かに笑っている。彼もそこそこ酔っているらしい。顔が真っ赤だ。
「結構飲んだの? 顔すごい赤いよ。お酒弱い方?」
「いや僕は今日車なので飲んでないです」
「………」
酔ってなくて耳まで赤いとか。もうほんと、やめて欲しい。夜が長く、長くなるから。