高校二年の春だった。といっても始まりの春じゃなく、終わりの方の春だ。

 謎に感傷的な校長の話を聞き、昼前に終わった終業式。早々に下校時刻となり、慣れ親しんだ教室から追い出された。三年生はもう卒業した後なので、校舎から出てくる生徒数も心なしか少ない。

 高校二年生の終わりを迎えた私の胸中に、名付けやすい感情はひとつもなかった。高校一年生のときは、一年目を無事に終えた安堵があった。けれど今年はそれが放散して、どこにも見つけられない。再来週には最終学年になるというのに、実感はまだなく、自負も不安もやってこない。
 青葉城西での学生生活がまだ一年残っている。その気怠さを引き連れ、春の陽光の中、私はとぼとぼと下校していた。

 及川くんだ。そう思い、ふと足を止めてしまったのは、帰り道で及川くんを見かけるのが人生で初めてだったからだ。

「及川くん、帰る方向一緒だったんだ……」

 思わず声に出すほどの驚きだった。だって及川くんは一年でも二年でも同じクラスだった。なのに二年目が終わる今日、私は初めて彼と帰り道が同じだったことを知ったのだ。
 彼の下校ルートを知らなかった理由は単純だ。私が帰宅部で、彼は遅くまで練習してることも多いバレー部だからだ。テスト期間以外の放課後は全て部活に打ち込む及川くんと、早々に塾へ向かわなきゃいけない私とじゃ、下校時間が重なるわけがない。そう、今日みたいな終業式の一日じゃないと見かけられなかったのが、帰路を辿る及川くんの姿なのだ。

 加えて、及川くんが一人でいるのは珍しい気がした。及川くんは、同じバレー部で幼馴染の岩泉くんといつも一緒につるんでいる。クラスでも彼はすんなり女子とも話せてしまうタイプだし、バレー部の先輩後輩どちらからも慕われ、可愛がられているところもよく見かける。
 つまるところ、及川くんはたくさんの人から声をかけられる、人気者なのだ。その彼が一人ぼっちでこの時間に帰っているのは、私に不審な独り言を言わせるには十分な物珍しさだった。

 レアなシーンを見かけたと思った。だけどそんな及川くんに興味が湧いた、なんてことは無かった。
 だからその後30分以上も及川くんの後ろを歩き続けてしまったのは、単なる偶然だった。
 天に誓って彼の後をつけたわけじゃなく、ただ、本当にたまたま行き先が重なって、私たちは春の公園の入り口にいた。

 私にやましいことは何もない。それでも地味なクラスメイトが同じ方向を歩いているなと思ったら、同じ公園にまで入ってきたのだ。及川くんもさすがに気味が悪くなったのだろう。
 前方を歩いていた及川くんがぴたりと足を止めたかと思うと、不穏さの漂う笑顔が私の方を振り返った。笑顔なのに、まるで矢で射られたかのような鋭さを感じて、私は肩をビクリと跳ねさせてしまう。

さん、だよね。俺の後つけて、なんか用?」
「ちっ、違う!」

 ストーカー女だと思われたくない!その気持ちで、及川くんとほぼ初めてちゃんと会話する緊張は吹き飛んでいた。

「後をつけたなんて、勘違いだよ!」
「嘘だね!スーパーのあたりから、ずーっと俺のあとつけてたでしょ」
「行き先がたまたま一緒だったからそうなっちゃっただけ! ほ、本当に偶然なんだってば」
「ふーん?」
「私、お弁当、食べられる場所探してて……! ほら、これ!」

 ストーキング疑惑は本気でシャレにならない。いまいちやる気の出ない青葉城西の三年目が吹き飛ぶレベルのヤバさがある。どうにか疑いをはらしたくて、私は慌ててカバンから巾着包みのお弁当を出し、及川くんに見せつけた。
 今日は終業式。早々に学校から帰されてしまって食べそびれたお弁当のため、私は公園を目指していたのだ。今日は天気もいいし、公園なら無料で座れて景色も申し分ないからと、元からここを目指して歩いていた。

「ほら、及川くんだってお昼食べるつもりでここに来たんでしょ?」

 及川くんの手にも、スーパーのビニール袋が握られている。マチが広めで、中には平たいお弁当の類が入っているのだろう。目的も考えることも一緒だった。だから偶然同じ場所にたどり着いただけなのだ。
 私は嘘なんてひとつもついていない。なのにトゲトゲとした雰囲気は一切緩まず、及川くんが納得した様子はない。ここは早く及川くんから離れるべきだろう。

「私、もうお弁当食べなきゃだから! じゃ、じゃあ!」

 及川くんの見えない所でささっと食べて、なるべく早く出て行こう。帰るその時は及川くんと顔を合わさないように最大限気をつければいい。もうその方法でしか、自分の無実を証明できない。そんな気がして、私は不審がる及川くんを追い越して、春の公園へと突き進んでいった。

 今日のお天気は冬の解け始めのような晴れ。この少し大きめの公園のベンチに腰掛けて、気持ちよくお弁当が食べられたらいいな。そんな期待も込めて訪れたのだけど、歩き始めて私は自分の期待が外れていくのを感じた。
 いいお天気の下で過ごしたいのは何も私だけではなかったようだ。同じように考えたのであろう犬と散歩中のおじいちゃん、親子連れ、休憩中のサラリーマン。そんな人たちが公園内のベンチから、程よい日陰の芝生まで、すべてを占拠している。そう、座れるスペースがひとつも見つからないのだ。ひとつも。

 公園内を練り歩いたせいでじんわりと制服の下に汗もかいてきた。もうどっかの石に腰掛けるかしかないのか、それとも立ち食いかと、じわじわ精神的に追い詰められて、立ち尽くす。公園を三周しても座るところを見つけられないそんな私が、そこそこかわいそうに見えたのだろう。

「ねえ」

 かかった声はまさかの及川くんからだった。見れば彼が占拠するベンチの片方から、カバンが下されたところだった。及川くんは未だ私を嫌がるところを隠さずに言う。

「……座れば?」
「でも……」
「お弁当立ち食いはツライでしょ」

 そっぽを向きながら、でもわざわざカバンを下ろしてまでベンチの隣を譲ってくれた。信じられない気持ちを抱えながら、私は公園三周分の疲れと共にしゅるしゅると及川くんの隣に納まったのだった。


 ようやく座れてまず水分補給をする。及川くんが空けてくれたスペースは偶然にも木漏れ日の下で、私はホッと一息をついた。
 及川くんのお昼ご飯はやはりスーパーで買ってきたようだった。膝の上に乗った、大きめのお弁当。その中身を見て、私は思わず声をあげる。

「お寿司? すごい、豪勢だね!」
「これはね、俺が一年頑張りまくったご褒美に買ってんの! 無意味に贅沢してるわけじゃないの」
「へえ、そうなんだぁ……」

 感心して、私は再度及川くんの膝の上のお寿司を見た。何種類かの握りにいくらやウニの軍艦も揃っている、ちょっぴり豪華なお寿司セットだ。まさにご褒美にふさわしい。

「……何? そんなに見てもあげないから!」
「いやいや欲しいんて一言も……」
「じゃあなんでそんなにこっち見てんのさ!」

 すごい、と感想を口にしただけ。おねだりなんて一言も口にしてないのに、及川くんは膝のお寿司を私から必死に隠す。

「そ、それは……。いいなぁ、と思ったんだよ」
「お寿司が!?」
「違うってば……!」

 なんなんだ、及川くんは。勝手に色々思い込むし、それがいちいち根深くてしつこくて、めんどくさい。
 及川くんとは一年も二年も同じクラスだった。ただ彼は異性だし、性格もクラスのポジションも似てるところないし、登校時間も下校時間も今日まで一度も重ならなかった。
 及川くんがこんな人だとは思わなかった。そして、私に勢いでここまでのことを言わせる人だとも思っていなかった。

「別にいいことじゃん! 一年頑張ったって、自分にそう言ってあげられるほど頑張れたの、すごいと思ったの!」

 学校内には及川くんの熱心なファンがいると聞いたことがある。けど、正直神経を疑ってしまう。こんなめんどくさい男子の、どこがいいんだろう。妙な苛立ちを押し込めるように私は、自分のお弁当の中身を口に詰め込む。
 すっかり常温の、慣れ親しんだ手作りのお弁当。中身は定番めの、少しふやけた唐揚げにふりかけご飯、卵焼きなんかの組み合わせだ。お寿司を食べてる及川くんとは真逆の、毎日続く味。けれど空腹の私は、及川くんへの苛立ちも合間って良いペースで食べ進んでいく。食べないと、この後の塾でお腹が減って仕方がなくなる。そうわかってるから、食べるのだ。

 ふと、隣の及川くんの箸が止まっていることに私は気づいた。せっかくのお寿司なのに勿体無い。この春の陽光の下では、あんまり放っておくと寿司ネタの味が落ちてしまう。
 でもまた私が及川くんとお寿司の方を見て、狙ってるとか言われてもたまらない。目を伏せて、食べることに意識を注ごうとした時だった。

「え、俺のこと褒めてる……?」

 及川くんが半身を乗り出すように聞いてくる。私はやっぱり、彼を面倒臭く感じながら言う。

「すごいが褒め言葉にならないの、古文くらいじゃない」
「ふーん……」

 隣でぎゃあぎゃあうるさかった及川くんはそう言って何度か頷くと、ゆっくりとまた割り箸を動かし始めた。醤油をつけて、好きな順番で及川くんは握りを食べていく。
 お互い無言だった。このまま無言でそれぞれ食べ終わって、私と及川くんは別々の方向へと解散するのだと思った。

「玉子くらいならあげてもいいよ」

 妙に偉そうな口ぶりで、そう言って来たのは及川くんだった。言ってる意味がわからず、ちょうど空っぽになった口がぽかんと開く。

「俺のご褒美をさんにも分けてあげてもいいかなって思って」
「はぁ?」
さんも頑張ったんでしょ、二年生」
「何? 適当なこと言って……」

 及川くんが、私のことなんて知ってるはずがない。彼には打ち込める部活があって、性格の良さそうな友人や、先輩や後輩がいて、多くの人から話しかけてもらえる存在だ。そんな彼が、クラスで目立たない私をそう視界に入れてるはずがないのだ。

「まあ確かに、俺はさんのことよく知らないね」

 ほらね、と内心でつぶやく。

さん、ぱっと見でも別になんか隠れた才能とかもなさそうだし?」
「え、なんかすごい失礼なこと言われてる……」
「ってことは、その分苦労してるんじゃないかなって思っただけ」
「………」
「うん、そう、テキトーだよ。テキトーに思って言っただけだよ」

 及川くんが口にしたのは、単なる推測だ。私の見た目から想像して、勝手に判断しただけに過ぎない。だけど私は及川くんのテキトー発言を、どうしてだか笑って流せなかった。

「私、頑張ったのかな……」

 一年生を終えた頃には、高校生活に慣れたという実感があった。
 三年生には卒業式というセレモニーが用意されている。
 ふわりとしたものばかりで、手に何の感触がない。そんな二年生終わりの春。私には何の手応えがない。だからやっぱり及川くんが今日という区切りに自分にお寿司を買えたことが、すごいと思えてならなかった。

「及川くんが頑張ったのって、やっぱりバレー?」
「当たり前でしょ」
「だよね」
「……さんは? 部活何やってるの?」
「何にも。帰宅部で、放課後はいつも塾ざんまいだよ」
「あー。まあウチって、成績も大事だからね」
「うん。私は周りの学力もレベルが高いところがいいと思って、青葉城西に入ったんだ」

 入学の理由なんてそれこそ二年の終わりにする話じゃない。今更すぎる話題なのに、及川くんは存外落ち着いて私に相槌を打ってくれている。

「三年はもっと塾ばっかりになると思う。県外の、国立大に行きたいから……」
「親が国立大行けって、そう言ってるの?」
「ううん、私が行きたいから。国立大の授業料なら、県外の一人暮らしでも仕送りできるよって親に言われたんだ」

 そう。ここじゃない場所に行きたくて、迷いながらも私は高校生としての時間を勉強に注いでる。部活にも入らない、放課後友達とショッピングモールや市街地で遊ぶこともしないで、ガリ勉をしてるのは青春の過ごし方としてはかなり残念な部類だろう。
 それでも国立大に受かって全然別の街で暮らす。そのことを想像すると、少しだけ目の前が明るくなる心地があるのだ。夢というには頼りないけれど、光と呼ぶには十分な明かり。私にとってそれが、国立大合格という目標だった。

「そっか。じゃあお互い三年生も、目標のために努力、努力、努力、だね!」
「うん……」

 歯を見せて笑う及川くん。彼に頷けば、ついでに自分の気持ちまでがそっと、落ち着く心地がした。
 すんなりと腕が前に出て、彼が差し出すお寿司のセットから、私は玉子を受け取った。及川くんが頑張った自分へのご褒美に食べていたお寿司のうちのひとつだ。
 甘い玉子と酢飯、しっとりとした海苔を一口噛んで味わえば、遠巻きに見ていたクラスメイトの男の子だった及川くんの存在が、私の中でまるで姿を変える。仲良くなったわけでもない、ただお互いにそれぞれ頑張っているということを知っただけ。一番近い言葉は戦友、だろうか。

「美味し……」
「なかなかイケるでしょ」
「うん……」

 三年生も、私は及川くんを遠巻きに見つめるだろう。でも彼はもう、大勢いるクラスメイトの一人ではない。
 先に食べ終えて立ち上がった、ぐんと高い背丈を見上げる。私の目前をかすめていった、綺麗な爪の形も追いかけて視線をあげると、及川くんの笑顔があった。

「どしたの、さん」
「……あと一年、とりあえず、頑張れそうだなって、思って……」

 俺も! という返答が、春風とともに耳をくすぐる。
 彼はこんなに人をざわざわさせる笑顔を浮かべるのか。見上げたそこにあったのは、終わりとは程遠い、春の幕開けだった。