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口元が緩む。期末テストの返却が今日で全て終わり、返って来たテストは、全て1ミスにとどまっている。
お父様との約束だった。一科目ごとに失点はひとつだけ。もし二つ以上の失点があったら、私は今夜の予定の前に一旦お家に帰らなくちゃいけない。テキストを全て読み直した後、自主再テストだ。もちろん満点を出し、それをお父様に確認してもらうまで繰り返すことになっている。
だけど目標は無事達成した。私はこのまま学校前に来るお迎えの車に滑り込むことができる。ほっと撫で下ろした胸はすぐに、弾ける寸前まで膨らむ。ああ早く、この街を飛び出したい。終業のベルが鳴ると、私はいち早く立ち上がりクラスメイトたちに手を振った。
「慌ただしくしてごめんなさい! 今日はお家の用事があるので、お先に!」
「お車が来るお家の用事って、もしかして……」
友人たちが好奇心に目を輝かせる。気恥ずかしくなりながら私は白状した。
「うん、今日は悟くんと会う日なの」
私が在籍しているのは非術師たちの女子学校だ。もちろん同級生たちも非術師なので、私たちの家業のことは間違っても口に出せない。けれど同級生たちも私も年頃の女の子。たわいもない恋の話として、先月ついに私は許婚である悟くんのことを話してしまったのだ。
私には初等部の頃から将来を約束した相手がいること。それが悟くんという名の、同い年の男の子であること。悟くんのお家が指折りの名家なのもあって、月に一度親の言いつけで二人で会っていることまで、親しい友人数名には話している。
悟くんとの関係は家同士の都合によって結ばれたものだ。私を取り巻くこの環境を恋愛の枠にはめていいのかはわからない。けれど許嫁という存在が、同級生からは憧れ混じりの目で見られていることは確かだった。
「さんの許嫁がどんな方なのか、気になるわ」
「私も気になります! ねぇ、写真はないの?」
「悟くんの写真かぁ。見たら、びっくりさせちゃうかも」
私の言い方を、友人たちは悪いようにとったみたいだ。どういう意味? 実はとても年上の方なの? 大丈夫? と、友人たちは目を丸くする。友人たちの勘違いに、私は思わず笑ってしまった。悟くんがおじさんな訳ない。むしろみんなの想像とは正反対だ。
絵に描いたようなスタイルを現実に持つ悟くんは、完璧という言葉が見劣りしないほどの容姿だ。綺麗すぎて、最新のCGだと言っても信じられてしまいそうなほど。そんな同い年の男の子が昔からの私の許嫁なのだ。
悟くんのことを思い出せば恥ずかしかった気持ちが、みるみる早く会いたいという気持ちへと様変わりしていく。
「それでは、ごきげんよう」
ごきげんようという別れの挨拶を背に、私は足早にクラスを後にする。
一ヶ月に一度、京都から関東へ。呪術高専で寮生活をしている悟くんの元へ向かうのだ。自分のカバンを持つ手が興奮で滑りそうだ。学園の外に出れば、すでに見慣れた車がついていた。家に長年使えるドライバーが先に降りて来てドアを開けてくれたので、逸る胸を抑え私は乗り込んだ。
「お嬢様。期末テストの結果は?」
「今回もお父様に恥ずかしくない報告ができそうです」
「と、いうことは」
「はい、柳葉亭に向かってください」
ドライバーはにっこりと笑ってハンドルを握る。
「お嬢様。今日はテスト返却日で学校も午前で終わりましたから、柳葉亭ではなく呪術高専の方に向かいましょう。先ほど学園にもアポを入れておきました。学園から五条様をピックアップして、柳葉亭まで二人で向かわれるのは如何でしょうか?」
悟くんといつもより早く会えるかもしれない。そう思えば私の答えはすぐに決まった。
「っはい、ぜひ!」
京都から関東は車で走り続けて五時間は越える道のりだ。それも苦じゃないくらい、私は今日という日を楽しみにしていた。
*
悟くんとの定期的で義務感すら漂う集まりは、それこそ許嫁になった日から始まった。お膳立てをするのは毎回私の実家、つまり当主のお父様だ。
始まった当初は、四半期ごとに行われるたわいもない少年少女の遊びだった。甘いものを食べたり、遊園地に行ったり。時には二人で能楽鑑賞するように言われたり。夏には沢遊びをして、冬にはスキー場なんかに行ったりもしていて、今思えば呑気なものだった。それが表情を変えたのは私が十六歳の誕生日を迎えてすぐだった。
迎えの車が来たのは、いつもより少し豪華に誕生日が祝われた翌日。下校しようとしていた私の元へ止まった車。降りてきたドライバーからお父様の名前を出されて、素直に車に乗り込むと、それは柳葉亭という旅亭に辿り着いた。
学校から直送されるみたいに私が柳葉亭につくと、少し遅れてしかめっ面の悟くんも到着した。
二人が揃う頃を見計らって、お座敷に二人分の料理が運ばれて来る。器まで選び抜かれた懐石は、高校生の私たちにはなんだか似つかわしくなくて、押し黙った悟くんとそれらを平らげるのは始終息が詰まって、苦労したのを覚えている。
中居役の女性は時々ご飯をよそいに入室してくると、私と悟くんの間に流れる泥のような空気を和ませたいのか、ひとことふたこと軽い冗談を言う。それにお互いぼんやりと頷きながら食事を終えて、代わる代わるお風呂に入って、寝巻きの浴衣に着替えて部屋に戻った頃には一式のお布団が敷かれていた。
なんとなく、悟くんの顔が見られないまま、私は阿呆になったみたいに呟いた。
「……お布団、ひとつ足りないね」
「………」
悟くんは押し黙ったまま口を曲げている。曲げているどころか、吐き気を催すほど気分が悪かったのだろう。形のいい唇から舌をべえっと出して、そっぽを向いていた。
どうしよう、誰に言えばもう一組お布団を用意してもらえるのだろう。そっと襖を開けて廊下を見るも、しん、と静かだ。中居さんの気配も、食事を作ってくれただろう板前さんの気配もない。灯りはもう落とされていて曲がり角にぼんぼりが薄暗く光っている。
私が十六歳になってすぐ計画された、二人きりの夜。その意味がわからない私ではなかった。
また、こんなに性急に物事が進む理由もよく分かっている。私が家の女であるせいだ。家の家系図に名の乗った女は長生きできない。それは先祖代々からの逃れられない呪いだ。母も祖父も叔母も従姉妹も。皆、子供に顔を覚えられる前に死んでいる。
私ももちろん例外ではない。はたちを越えれば、そこから死は坂を転がり落ちるようにすぐ訪れる。昨日十六になった私に残された時間は四年あまりだろう。だから、お父様も手際よく今夜の準備を進めたのだ。
とくとくと心臓が密かに鳴っていた。意識してしまっていること、この先のことを薄ぼんやりと想像していること、悟くんには知られたくないと思う。なのにとくとく音は、ゆっくりと加速していく。どうしよう、どうしよう。すべきことは分かる、しなくちゃいけないということも分かる。でも。
不意に、おい、と悟くんが私を呼んだ。その日、柳葉亭に現れてから、ずっと押し黙ったままだった悟くん。今日、初めて名前を呼ばれたかもしれない。肩を跳ねさせながら振り返ると、悟くんは何かを手に持っていた。
「これ、やるぞ」
「……へ?」
悟くんが取り出したのは銀色で、一見すると電子辞書のような機械だ。折りたたみ式のようで、カチリと音をたてて開くと四角い画面が二つ、上下についている。下画面の横についたボタンで、ようやく私はそれがゲーム機だと気が付いた。
「あっ、CMで見たことある! 確かニンテンドーDS、だっけ」
「見たことねぇの?」
「うん、実物は初めて」
「まじで? ほんっとにオマエんとこってお嬢様学校なんだな。弟とかともやってないの?」
「弟はどうかな……。もう何年も会ってないからわからないや」
弟は私にとってたった一人の兄弟だ。けれど元から顔を合わせることの少ない弟で、思い出そうとしても随分前の幼顔しか記憶に残されていない。私は元から家の別邸に住まわされているせいもあり、数度、家の廊下ですれ違ったっきり。数年前、中学校入学のお祝いを渡しに行って、それ以来弟とは一言も交わしていない。彼は元気にしているのだろうか。
いけない。心が随分会ってない弟へ向かいかけたのを自覚すると同時に、私は意識を悟くんの持つそのゲーム機へと戻した。
「DSって不思議な名前だよね。なんでDSって言うんだろ」
「ダブル・スクリーン。略すとDSだろ」
そういう意味だったのか。確かに画面が二つ付いている機械なんて、他でもなかなか見ない。CMでしか見たことのないゲーム機に私は興味津々で覗き込むと、悟くんはもうひとつ、分厚いお箸入れのようなクリアケースを取り出した。開けて見ると、小さくて黒い、かき餅サイズのものが収まっている。
「これ、悟くんのゲームなの?」
「いや後輩から勝手に借りてきた。なんかソフトもいろいろあったから丁度良いと思って」
「それ、奪うって言うんじゃ……」
私の通う学園にも先輩後輩の上下関係はある。けれど、奪うなんて。私の送る生活では聞くことのない粗暴な言葉に絶句してしまう。
「このソフトの一個一個にゲームが入ってる。どう? やりたいゲームある?」
「じゃあ……。これ、かな」
私は印刷されたふわふわの柴犬を指差した。ニンテンドッグスと書かれたソフト。オレの趣味じゃねえからな! 借りたんだからな! と横で悟くんが言うけれど私は、小さな小さなチップに描かれたふわふわの子犬に心奪われてしまっていた。
「やってみるか?」
問いかけに頷くと、悟くんは慣れた手つきでそのチップをDSの裏側に差し込んだ。悟くんが小さなボタンを押すとスイッチがオンになり、動き出した画面に、私は心まで引きこまれた。
まるで生きているかのような画面の中の子犬は、まるで私に気づいたかのようにこっちを見ると、舌を垂らし、尻尾を降って近付いてくる。目を輝かせてDSを覗き込んでると、悟くんに収納されていた小さなペンを手渡される。
「下画面はタッチパネル。そのタッチペンで、本当の犬を触るみたいに撫でてみなよ」
ゲームなのに、本当の子犬を触るみたいに? 矛盾してるよと頭では思ったのに、心は素直に踊り出す。悟くんの言う通りに、私はそっとペンを下画面で目を潤ませる犬の頭にタッチした。
「うわ、わ、かわいいね……!」
「データ残ってら。このワンコ、腹減ってるってよ」
「え、どうすればいいの? このワンちゃんは何を食べるの?」
「ゲームの犬なんだからゲームの中のご飯だろ」
「ど、どれ?」
ゲームなんてしたことない。右も左も分からない私は、全部悟くんの指示通りにゲームの柴犬をお世話した。
*
悟くんが教えてくれたおかげで、ニンテンドッグスの犬はご飯を食べ、シャワーで体を洗い流し、散歩した後は満足して寝たようだ。幸せそうに目を閉じてしまった。達成感と興奮で私が熱い息を吐くと、悟くんは次のゲームを取り出した。パッケージのシールを見ると、ポケットモンスター・ダイヤモンドと書いてある。
私は密かに手に汗を握った。これが世に聞くポケモンというやつか! なんとなくピカチュウとかミュウとかニャースくらいは聞いたことがあるけど、実際に触ったことはない。
どんなゲームかは分からないけれど、横に悟くんがいて教えてくれるならどうにかなるだろう。ソフトを入れ替えてスタートしたポケモン。そこにはニンテンドッグスとは全く別の世界が広がっていた。
「な、なるほど? 私が選んだら相手も攻撃してくるんだね?」
「そ。だからゆっくり考えな。こっちから技の説明見られる」
全部が目新しくて、私は痺れるようにタッチペンを握ったまま固まっている。そのせいでちっとも動かない画面は悟くんにとって退屈に違いない。なのに、恐る恐る伺った悟くんの表情は、しっかり私を見ていた。かと思えば視線を逸らされてしまったけれど、その目はちょっと楽しそうにすら見えた。
「……悟くんって、人に教えるの、上手なんだね」
「っ、は?」
「ゲームってやったことないから私には出来っこないって思ってた。けど、悟くんがいるから安心できる。教え方も、どんな言葉遣いをしてても正しいことを言ってるって分かるから。私、今すごく楽しいよ」
それに、私がボタンひとつ押すのにどきどきしてるのを悟くんはわかって待ってくれている。そんな優しさを隣から感じることができるから、私はこの初体験を目一杯楽しめているのだ。
「うん、悟くんは教え上手だよ。私にとってはすごくいい先生」
「……あっそ」
「ねぇ、今度は悟くんがやって見せてよ」
「ん」
手のひらを差し出され、私は悟くんにDSをパスした。私の手には重たかったDSも、悟くんの手の中にあると少し小さく見える。彼の指が余ってDSをまるごど包めてしまいそうなほどだ。指の長さも足りていて、私には難しかったゲームも、悟くんは余裕綽々で進めていく。
知らない、見たことのない、鮮やかな世界。そこに生きてるキャラクターはちょっと角ばっていて、現実のように滑らかではない。なのに、私の心はぐいぐいとゲームの世界に入り込む。
「近……」
その呟きが本当に耳のすぐ横から当たってきてびっくりだ。驚き過ぎて畳から数センチ浮いたかと思った。
「あ、ごめん! 夢中になっちゃって思わず……!」
ゲームに夢中になるあまり、悟くんに近付きすぎたようだ。慌てて悟くんから離れたところに座り直すと、私はしばらく畳の目しか見ることが出来なくなってしまった。
「いや、そんなあからさまに離れなくていいって……。今更だしな、色々と」
そう言って悟くんは私にDSの画面が見やすいよう傾けてくれる。そうだよ、私たちはゲームをしているだけ。何もやましい事はない。私は視線をゆっくりと畳からゲームに、ゲームから悟くんへとスライドさせた。
幼い頃から一緒だった。父親に言われて、何度も同じ場所へ二人で行かされた。今夜もそれは変わらない。悟くんがここにいる理由は義務感だ。私が来た理由も悟くんと大差ない義務感からだったはずだった。
なのに、興奮が血の中を音を立てて巡っている。DSのボタンを押す彼の指や、白い肌に浮く青い血管に目を奪われてくらくらする。胸も、苦しい。それを振り切るように私はゲームに没頭した。
二人で興味のあるゲームのカセットをひとつずつ差して、満足したら抜いて。あっという間に夜は更けて、そのうちに心地よい疲れがやってきて、私と悟くんは寝てしまった。お布団に入らず、畳の上で。
世間知らずだけど、私も十六歳。自分のしなくてはいけないことなんて、わかっている。悟くんだってきっとそう。でもそこから逃げさせてくれて、こんなに楽しいばかりの夜をくれる。多分それまでも悟くんのことは嫌いではなかったけれど、悪い意味でおよそ十六歳同士とは思えない一夜を経て、私は悟くんを当たり前のように好きになったのだ。