「お嬢様、もうすぐ呪術高専ですよ」

 ドライバーの言葉に私は頷いた。高速道路を降りてから随分車は進んで、森が一層深くなってきている。呪術高専が近づいている証拠だ。「ここでいいです」と伝えると、お願いした通りに車は滑らかに止まった。ドアを開けると、青く濃厚な緑の香りが鼻腔をくすぐる。

「ここから先は道が細いですから。自分で歩きます」

 お気をつけてというドライバーさんの言葉に微笑みを返して、私は歩き出した。
 東京都立呪術高等専門学校。ここら一帯の簡単には言い表せない雰囲気が私は好きだ。深い安心感は天元様の結界のおかげであり、清冽さは人知れぬ森の中にあるおかげであるが、好きだと思う理由はそれだけじゃない。
 呪術高専の生徒数は関東校も少なく、数えるほどだ。卒業後の進路もほぼ一択ので狭い業界ながら、それでも複数の大人や補助監督が出入りしていることで生まれる活気があり、ここを訪れる度に私の胸を踊らせてくれる。
 左右を緑に覆われた細い道。緩やかな上り坂を歩み続けて、私は校門を目指す。直に見えて来た受付に一礼をして申し出る。

「こんにちは。と申します。五条悟さん、お願いします」

 学園長にはすでに連絡が入っているはずだ。受付の方に確認をしてもらっていると、奥の建物からショートボブが可愛らしくも気だるげなシルエットが近づいて来た。会釈をすると、彼女は私を見るなりこう言った。

「あ、悟のとこの通い妻」

 開口一番の爆弾発言。私は思わず悶え、仰け反ってしまう。

「硝子さん! か、通い妻って……!」
「違うのか?」

 生々しくて戸惑ってしまうけれど、煙のフレーバー混じりの吐息が言うことは間違っていない。悟くんはすでに特級呪術師。忙しい彼の元に月に一度、私が京都から駆け付けてる。うん、通い妻だ。まだ未婚だけど。

「久しぶり。元気そうだね」
「硝子さんもお変わりないようで何よりです。久しぶりに顔が見られて嬉しいです」
「そっちもね。でも珍しいね。今日は高専に直接来たんだ?」
「はい、そうなんです! 学校が午前で終わったので、悟くんのお迎えも兼ねてこっちにお邪魔してます」
「そうか。ならちょうどいい。悟は今立て込んでるんだけど、アイツが来るまでちょっと見て欲しいものがあるんだ。向こうの部屋で待ってて。夜蛾センに一応確認して来る」

 夜蛾先生に一言断らなければならない私への用事。思い当たるのはひとつしかない。きっとなんらかの呪具についてだ。
 私の家系は呪具の扱いを生業としている。古くから呪具との関わりが深く、そのために呪具を分析・鑑定・管理したり、呪力がむき出しの呪具を呪術師が扱いやすいよう加工したり。呪具にまつわることであれば何でも屋と名乗れるくらいには細々とした仕事まで請け負っている。親族がどうしても増えにくいため、さほど大きくもないが、呪具と言えばと言えば呪具と呼ばれるくらいの家ではある。でもまぁ、現場仕事をすることはほぼ無い、特に目立たない裏方稼業の一家だ。
 しかし、馴染みのない呪術高専にひとりでいるのは少し緊張してしまう。やはりここは、私にとっては滅多に来られない、憧れの場所だ。私にも家族にも、呪力はある。けれどの家系から任務を任されるような呪術師が出たことはないし、きっと呪術師の才能があってもそれが生かされることはない。特級にでもない限り、呪術師になるくらいなら呪具を扱う方がよっぽど呪術界に貢献できるからだ。
 硝子さんに言われた通り部屋で待つこと十五分。先生の許可は降りたらしい。彼女が持ってきたのは数枚の風呂敷だった。

「これ、先日使おうとしたらいくつかほつれてたんだ。ついでに点検したらこれだけ出て来っちゃってさ。念のため使用を見送っているんだが……」
「ははあ、なるほど」

 風呂敷を受け取って私もまじまじと確認する。見た目は大判の布なので便宜上風呂敷と呼ぶものの、もちろんただの布ではない。回収した呪具を包むのに使う専用の風呂敷だ。この風呂敷に包むことで、補助監督の人もより安全に呪具の持ち運びができる。私も見覚えがあるあたり、我が家から呪術高専に納品したものだろう。

「どうだ? もう使えないか?」
「これくらいなら直せばまた使えますよ。こんなのでも新しく購入すると案外高くついちゃいますよね、勿体無いので私が繕いますよ!」
「頼めるか? 多分この部屋、使っていいはずだから」
「はい。ささっと直しちゃいますね。補修が終わったらこちらからお声がけします」
「そうか。じゃあ、頼んだ」

 硝子さんがゆらりと手を振る。可愛らしいシルエットが廊下の先に消えてしまったのを見届けて、私は深い息を吐いた。

「よ、よかった~……」

 そう難しい依頼ではなかったことにホッと胸をなでおろす。私はすぐにカバンから、いつも持ち歩いている道具を取り出した。針に糸、小さなハサミや、目打ち。当て布がわりになるお札も。全て簡易的に呪具を補正することのできる道具たちだ。家に伝わる呪具補修キット。呪具を扱う家の長女として、私の密かな必携品である。
 呪術高専。悟くんの通う学校。好きな場所の、役に立てる。ささやかすぎて誰にも言えないこそばゆい興奮を耳の裏に感じながら私は風呂敷の補修に取り掛かった。


  *


 ゆっくりと日が傾く教室。私のいる学園とは違い、呪術高専は生徒が少ないながらも賑やかだ。窓のすぐ傍から伸びやかに広がるグラウンドから誰かの談笑する声がぽーん……、と跳ねている。知らないはずの景色なのに、なんだか懐かしい気持ちになる。幻想の由縁に郷愁を覚えながら、私は風呂敷がまた使えるように布とお札に針と糸を通し続けた。ここに在るのは私が立てる音だけだと思ったのに。頭上から、降り始めの雨みたいな声がぽつりと降って来た。

「君はもしかして、さん?」
「はい?」

 私は随分集中していたらしい。目の前に人が立つのも気がつかないなんて。気づけば机の前側が黒い。制服と同じ黒い髪を後ろでまとめた男の子がそこにいた。サイドに流れる髪からちらりと覗く福耳が印象的だ。制服を着ているし同年代だろうか。切れ長の目を細めて私と、私の手元を見下ろしている。

「いかにも私がですが。お名前を伺っても……?」
「やっぱりそうだったんだね。突然失礼したね。私は夏油傑。悟から少しは聞いているんじゃないかな」

 名前を聞いた瞬間に蘇る、悟くんの声、たまに話してくれる学校での話。私は雷に打たれたみたいに立ち上がった。

「あっ、あなたが夏油さん……! はい、悟くんから聞いてます! はじめまして!」

 慌てて頭を下げて挨拶しようとするのを傑さんは手の平でやんわりと制す。

「邪魔してごめん。気にせず続けて欲しいな」
「邪魔だなんて! 悟くんから夏油さんのこと色々話して聞かせてもらっていて、一度お話ししてみたかったんです」
「それは光栄だね」

 夏油さんが目を細める。とても優しげな笑顔だ。
 悟くんは夏油さんのことになると褒めてるのか貶しているのか分からない、とても素直じゃない言い方をする。だからこそご本人に一度会ってみたかったのだけど、こんなに物腰の柔らかい人だとは。意外なくらい好印象だ。

「じゃあ話しながら作業の様子を見てもいいかな。僕も前々から君の話を聞いていてね、興味があるんだ。もちろん君のそれが門外不出の術だったりしなければ、の話だけれど……」
「全然平気です! まあ、あまり参考にならないと思いますが」

 そうなのかい? と夏油さんは相槌まで柔らかく打つと、近くの椅子を引っ張って私の斜め横に座った。

「呪具の補修については以前硝子さんも気になったようでアレコレ聞かれたんです。けど反転術式とは似ても似つかないものだって分かったら興味なくなっちゃったみたいで。その、夏油さんが楽しめるような面白いものではないんじゃないかと」
「私を楽しませようなんて考えなくていいよ。こちらが見学させてもらう身なんだからね」
「お、恐れ入ります」
「それと。傑でいいよ、悟からもそう聞いてるんだろう?」
「じゃあ……傑さんで」

 非術師の学校に通い、京都の高専に近づくことのない私には久しぶりに増えた、業界を共にする知り合い。なのにもう名前で呼んでいいのかと、むずがゆい心地がする。だけど傑さんはそんな私を見透かしたようにくすりと笑って、するりと次の質問を差し込んだ。

「あとひとつだけ。悟から聞いた君の話で、ずっと気になっていることがあるんだ」
「はい、なんでしょうか」
「……君の通う女子校では本当に、挨拶は”ごきげんよう”なのかい?」

 予想外の質問で、どぎまぎしていたのが、一気に崩れ去る。同時に小さな笑いが吹き出てしまった。確かに、ごきげんようという挨拶は世間離れしていて、傑さんには信じられない話だったのだろう。
 笑い出してしまったのがなかなか止まらなかったのは、嬉しい気持ちが同時に湧いて来ていたからだ。

「悟くん、高専で私の話してくれること、あるんですね」
「あるよ。せっかくだから情報交換しようか。悟は僕のこと、どんな風に吹き込んでいるんだい?」
「それはですね……」

 遠すぎず、近すぎないちょうど良い距離に傑さんは座って、ゆらりと背もたれに体重を預けている。今日が初対面なのに、心地よく話が繋がっていく。なるほど、悟くんの親友になれるわけだ。悟くんの話してくれた物事をこの目で確かめた喜びを奥歯で噛み締めて、私は口と一緒に、また手を動かした。


  *


 傑さんが上手に話し相手になってくれ、風呂敷の補修もみるみる進み、最後の一枚となった。ガラリと戸が開く音に驚いて、振り返ると教室に悟くんが入って来る。

「やあ、悟。終わったのかい?」

 傑さんの問いかけには答えずに悟くんは私を見つけると、顔をみるなり、げえ、と言いたげに顔を歪めた。

「灰原の言う通りかよ……。おい、来てるなら言えよな」
「あれ。受付の人には連絡お願いしたんだけど」
「なんかちょっかい出された?」
「え? そんなことはなかった、かな?」

 私はずっとここで風呂敷を直していた。窓の外を何人かが通っていった気配はあったけれど、私自身は話しかけられていない。途中からは傑さんに話し相手になってもらっていたのもあって、周りの事はよく覚えていない。一応今までを思い出して心当たりを探って見るけれど、それらしきものはない。
 悟くんはお疲れなのか、深い深いため息を吐いてから言う。

「悪い。まだこっちは終わんねぇんだ。とにかく抜けられそうにないから、先に行っててくれ」
「う、うん……」

 私は惚けた頭で頷いた。悟くんは疲れてる中私を気遣ってくれている。なのに私と来たら、ときめいてしまっている。夕日の中の悟くん。悟くんの髪を染め上げるほど、橙色は強い光で教室に満ちている。真っ黒なサングラスの奥は見えないけれど、この橙の中でもあのアクアブルーの瞳は染まることなく輝いているのだろう。
 こうしてるとまるで、私が悟くんと同じ学校に通っているクラスメイトみたいだ。それは私が憧れたことのあるシチュエーション。こんな日常があったかもしれないと思ってしまう錯覚に、私の耳の裏が痺れたみたいになっている。言われてることが頭に入ってこない。ぎこちない私を訝しがって、悟くんが眉根を寄せる。

「どした?」
「あ、え、えーっと! なんでもない! じゃ、じゃあまた、いつものところで」
「ああ、柳葉亭でな」

 上擦る声を押さえつけて返事をすれば、夕日マジックだろうか。悟くんの顔が妙に優しげ見えた。


  *


 柳葉亭とは、私と悟くんが月に一度の逢瀬に使う旅亭だ。
 機能としては宿泊施設ということになるのだけど、並の旅館とはかなりズレた代物だ。
 都内、ビル群も望めるほど近郊ながら、高い塀と密やかな林に囲まれて、柳葉亭は沈黙している。小さめながらも手入れの行き届いた日本庭園が門の隙間から見え、間違っても古民家などとは呼ばせない風格が漂っている。屋根瓦の色は漆黒と見まごうほど丹念に練り込まれた墨の色で、濡れた飛び石が玄関の縦格子まで続く。柳葉亭の名の通り、柳が揺れる合間に灯篭が笑う様は、人気がなければ幽霊屋敷と呼ばれていそうな風情だ。
 異様。けれど、私たちの業界御用達と思えばふさわしい外観とも言えた。
 料理人も中居さんも、何かあった時のフロント係もついていながら、利用者に一軒家丸ごと貸し切ってくれる。それも柳葉亭の特徴だ。多分もっとお偉い方々のおもてなしに使われる場所が、月に一度だけ私たちのために押さえられる。

 十六歳の私の誕生日から始まった、柳葉亭で一夜を過ごすというお互いのノルマ。健康な少年少女が一つ屋根の下に閉じ込められている。かなり現実味のないシチュエーションだ。だけどすっかりこの状況に慣れてしまった私たちは、今や豪華懐石を目の前にテレビなんかをつけてしまうリラックスぶりだ。
 テレビを見ながらの食事。家では考えられないお行儀の悪いことなのだけど、悟くんとならできてしまうし、何より楽しい。テレビをつけているとそこからは大衆的な雰囲気がどっと押し寄せてくるようで、普通のお家ってこうなのかな、悟くんと本当に夫婦生活をしたらこんな風な瞬間もあるのかなとつい想像してしまう。
 見て食べて喋っているうちに、最後のデザートが運ばれてくる。私たちが食べさせてもらっているお料理はいつもご飯や煮物が少なめで、デザートの甘味が多めというバランスだ。

「悟くん、おいしい?」
「うん、最高」
「そっか、よかったぁ」
「なんでオマエが喜ぶの」
「それは……、私も甘いもの好きだからだよ」

 そんな言葉で誤魔化したけれど、嬉しくなるに決まっている。なぜなら悟くんとの夜に出す甘味は全部、私が選ばせてもらっているからだ。悟くんは甘いものが好きだから、きっとデザートが豪華になったら喜ぶ。私がそう板前さんに一言伝えると、今度は板前さんから提案を受けたのだ。様が五条様のために選んでさしあげるというのは如何ですか、と。
 以来、私はこっそりこの集まりの度に甘味を選んでいる。私も甘いものは好きなので、勝手に悟くんのためを考えるこの甘味選びは密かな楽しみだ。そして甘いものを食べて、わかりやすく顔を緩ませて、それを隠さない悟くんを見てるのも好きだ。前回は洋菓子だったので、今回は老舗の和菓子店から買って来た練り菓子だ。悟くんならこういうのも好きだろうと踏んで合わせて買って来た落雁もぽいぽいと、お豆を食べるみたいに口に吸い込まれていく。
 すごく笑ってしまったテレビ番組が途切れて、CMに入ったタイミングで悟くんが言う。

「今日さ、なんで高専に来たの?」
「私の学校、テスト返却期間だったから学校が早く終わったんだ。いつも着いたらすぐお夕飯の時間だけど、それより前に着きそうだったから、ドライバーさんが気を利かせてくれたの」

 悟くんがじっとこちらを見ている。私は言い訳のように言葉を継ぎ足した。

「ほら私って、非術師の女子校通いじゃない? だから高専、実はちょっと憧れなの!」
「は? 高専が?」
「京都の高専はほら、弟が頻繁に顔出してるからなんとなく近づけないし。関東校じゃないと私、行けないんだよ」
「ふーん。……誰かに会った?」

 悟くんの言葉に、私は今日の高専で見た風景を振り返る。

「硝子さんとはかなり久しぶり会えたよ。あと、傑さんも。今日初めてお話できた」
「灰原ってやつは? 七海も近くにいたみたいだけど」
「灰原さん……? 受付の方には会ったけど。七海さんていう方もちょっと……、うーん?」
「なんだ。ぎゃーぎゃーうるさかったけど、やっぱあいつが勝手に言ってただけか。傑とは? 何話してたの?」

 傑さんとのおしゃべりは短いながらも楽しかった。悟くんの親友と、悟くんについて話す。滅多にない貴重な機会で、充実していた時間を思い出し、私は密かに胸を膨らませた。

「世間話だよ。実家のご先祖様の話とか、本当なの? って聞かれて、答えてた」

 ああ、と悟くんが相槌を打つ。

「夫に構ってもらえなかった女が嫉妬して、呪具にとんでもねーことしたせいで末代まで家が呪われたってやつね」
「あはは……」

 悟くんは人のご先祖様の話を随分ざっくばらんに要約してくれる。まぁ、誤情報ではない。の女が早くに死んでしまうのは、悟くんの言った通り。過去、嫉妬を理由に、呪具の扱いを間違えたからだ。
 私が苦笑いしたことが意外だったようだ。またも落雁をポップコーンと同じペースで食べていた悟くんだったけれど、その手が止まる。

「ダメだったか? どーせ俺の周りはみんな知ってる話だから傑にも喋ったけど」
「ダメではないんだけど……。あんまり知られたくなかった、かな」

 私は視線を食べかけの練り菓子に落とした。
 悟くんの言う通り。家の抱えた呪いは呪術界に身を置く人なら誰でも知っているような、常識レベルの話題だ。ただ、傑さんは非術師家系の人間だと聞いていた。だから私は数年後には死ぬ女という目で見られずに済んで、もっと普通に接してもらえると思っていたのだ。
 勝手に期待して、叶わなかった。そんな胸の引っ掛かりを悟くんにぶつけても、困らせるだけだ。私は努めて明るく言葉を続ける。

「ほら! ご先祖様のその話って、の女が嫉妬深さ故に過ちを犯したって話じゃない? まるで私も嫉妬深いって言われてるみたいで落ち着かないなーって!」
「オマエのこと見れば、そんなの人によるってわかるだろ。傑は偏見に流されるほど馬鹿じゃないよ」

 悟くんの顔に浮かんだのは、何言ってんのというような呆れ顔だった。

「それに、男も嫉妬する」
「ふーん……?」

 男の嫉妬とはどんなものだろう。想像がつかない。
 不意に悟くんの横顔を見て、ぎょっとした。悟くんがつまらなそうな顔をしている。テレビの方を見ていて表情は全部伺えないけれど、どう見てもご機嫌ルンルンではない。
 私はなんだかやらかしてしまったらしい。一瞬だけ自分を恥じて、私は繕うように言った。

「ごめん。今度高専に直接伺う時は、学校だけじゃなく悟くんにも言うね」
「そうしてくれ」

 うん、そうするね。頷くなり私は最後の一口をお茶で流し込んで、お風呂場へと逃げた。
 初めて悟くんと過ごした夜。悟くんの優しさに触れられたことは、私の大事な思い出だ。だけどそれ以来、私の悟くんに対する気持ちは膨らんで、私は密やかにバランスを崩している。まぁ綻び始めたのは私だけで、悟くんはどこも変わった様子がないのだけど。
 お風呂から上がったらまたきっと一組だけの布団が私を待っている。だけどそれを見ないふりして悟くんと夜通しゲームをすることが、今まで生きてきた中で一番って良いくらいの楽しみだ。楽しみで仕方がない。だけどいつの間にか、私は一人きりになれるこのお風呂の時間に、重たいため息をつくようになってしまった。

「はあぁぁ……」

 悟くんに会いたくてテストも必死で終わらせて来たのに、悟くんと少し離れるとほっとする。
 私は悟くんのことを好きになってしまった。好きな故に同じ部屋にいると、変に暴走しそうな自分を感じる。悟くんにはそんな素振り一切ないのに、私ばかりが高ぶって、変なことを口走りそうになってしまう。一人になると落ち着くのはそんなおかしくなりそうな自分を、一度抑えられるからだ。
 だから湯船から上がる時、私は自分を応援するのだ。悟くんへの邪な気持ちは忘れて今夜もゲームを楽しむぞ、悟くんの綺麗さに今夜も負けないぞ、と。

 髪の毛もしっかり乾かしてポカポカの体で部屋に戻ると、テレビに立方体のゲーム機・ゲームキューブがすでに繋いであった。真四角な見た目と名前が一致しているので、私もすぐにこのゲーム機の名前を覚えることができた。

「今日は何のゲームするの?」
「じゃん。引っこ抜かれてあなただけについて行くゲームです」
「ピクミン? あ、これもCMなら見たことある!」
「ほら、やるぞ。まずはそっちがプレイな。どうしようもなくなったら俺にコントローラー、パスしていいから」
「うん!」

 旅亭を毎月貸し切って、お父様がさせたいのはゲーム大会じゃない。そうわかりながらも私たちは今夜もゲーム機のスイッチを入れる。

「うわっ、うわっ! この敵、気持ち悪いね……!」
「ちょっ! そんな場合じゃねぇ! 早く赤ピクミン呼び戻してやれ! 溺れる溺れる溺れる!」
「えっ、えっ、あっ、ほんとだ……」

 ピクミンは、画面の中で儚い命を散らしている。キャプテン・オリマーの命令で突撃して、食べられたり溺れたり、体に火がついたりして死んでしまう。ピクミンは不思議な生き物だけど、どこか可愛くて、敵も集める宝物もひとつひとつがユーモラスで面白い。だけど助けたいと思っても助けられない命が、画面の中で白い幽霊となって消えていく。
 年頃の男女が、一晩、同じ部屋に閉じ込められる。その意味がわからない私たちじゃない。だけど今夜も、まだ子供であるかのようにゲームをする。ただ生きているだけでは行くことのできない世界で冒険を、二人でする。
 眠ることもできないくらい楽しい。楽しいのだけど。
 何度夜を同じ部屋で過ごしても、何も起こらない。それが悟くんの本心だということもわかっている。
 楽しいけれど切ない夜。私はいつまで続けていけるのだろう。
 私の母親が死んだのは十九歳だ。十七歳で私を産み、その二年後に弟を産んですぐ、命を落とした。
 再来月。私は十七歳になる。