ボールを握る手が汗で滑る。摩擦が減った妙な感覚は確かにわたしの左手にあって、わたしが長く待っているこの時間は錯覚ではないんだと知る。
「あのー……、ノボリさん?」
「………」
返事はない。口どころか、ノボリさんは瞬きすらせず固まっている。
ノボリさんが止まっている間はわたしも動いちゃいけない。そんな気がしてわたしもボールを振りかぶった状態のまま体を固めている。
「わたし、バトルしにきたんですけど、その、始めません?」
早く時間をかけて鍛えてきた技でノボリさんに挑みたいのに、向かい合うサブウェイマスターがボールを握る気配は無い。目線を反らしたまま静止している。
いつも読みとれないお面みたいな顔で気持ちを隠してしまうこの人が、さらに顔を背けているんだ。何かよっぽど隠したいことがあるんじゃ。勘ぐってまじまじと覗いてみるけれど、ノボリさんにそんな隙は無い。
でもノボリさんが隠しごとっていったい何を?
考えても答えは出ない。しかもどうしよう、そろそろこの体勢疲れてきた……。あー、ボール投げたいバトルしたいノボリさんに勝ちたい!
「……い、し」
「えっ、な、なんですか?」
か細い声。ときせつガタン、ゴトンと揺れる車内で聞き取るのは無理というものだ。
「ごめんなさい、なんて言ったんですか?」
「お……」
「お?」
「お帰りなさい、まし」
もしかしてノボリさんが伝えたかったのってそれだけ?
呆気にとられてポカンと口を開けたのが気に触ったらしい。
少し色の滲んでいた顔が、お面へと切り替わったのは一瞬のことだった。
「別に」
その一言を皮切りにノボリさんはまくし立てる。まるでタネマシンガンのごとく。
「別に貴女様がこのバトルサブウェイをお出になられた後、どこに行こうと貴女様の勝手にございます。どれだけ長くお姿を見せてくかったとしても貴女様の勝手です。その間に何をなさろうとどなたに会われようと私の知るところではありません。しかし同じように、私がどれだけ貴女様を想おうか、これも私の勝手でございます。たかが数日などと、どうか貴方様だけは私を笑わないでくださいまし。存じております。お帰りなさいましだなんて言い方はまるで貴女様の帰る場所がこのバトルサブウェイであるようで適当ではありません。しかしながら、愚かに思われるかもしれませんが、実際愚か者と随分周りに呆れられましたが、私は本気で貴女様を案じていたのです。ですから一言くらいはお許しくださいまし」
長い長い、ノボリさんの言い訳。なおわなわなと震える唇が、思いっきり喋り終えて少し上がった息がちょっと色っぽい。
雄弁過ぎる語りでさすがのわたしも気がついた。
ああ、照れているんだ、この人は。
「ありがとう、ございます?」
その返事が正しいか分からなくて最後に疑問符がついてしまったけれど、この人がなんだかわたしの事を考えてくれたことに変わりは無い。
お迎えの言葉はとっても嬉しい。わたしはノボリさんにとって、大勢いる挑戦者のひとりだと思っていたけれど、どうやらもう少し自惚れていいみたいだ。
「えへへ。ただいま、です」
「……今日のバトルは中止いたします。ご心配なさらないでくださいまし。中止ですからまた明日、お相手させていただきます」
「え、ええ?」
「私に平静に戻る時間をくださいまし」
うーん、わたしには今のノボリさんはいつも通りに見えるのだけど。そう思ってまじまじ見つめたら、またノボリさんはフイッと顔をそらしてしまうのだった。
振りかざしたままの腕をしゅるしゅると片付けて、投げることの無かったモンスターボールを眺めて、気づくとわたしはくすぐったい喜びでニヤけていた。