8月17日


ひんやりと、冷たい気配がする。顔のすぐ近くに。わたしはダイゴくんの手を思い出した。幼い頃はよく握ったさらさらとして少し固い手が、枕元に添えられているような心地よさを感じて深く枕を握る。
本当は、ダイゴくんにそこまで触ってもらったことは無いのだけれど。
手をつなぐ。今になると恥ずかしくなるようなことを、あの頃は気にもとめることなく出来た。あの頃の感情はもう思い出せない。

次第に白い朝日がまぶたをこじ開ける。起きようと思った瞬間、夢は手放した風船のように遠く浮き上がっていってしまった。


「ん……、っ」


驚きすぎて声にならなかった。
ベッドの高さにある赤い瞳。


「またボールから出ちゃったの?」


昨日ダイゴくんが忘れていってしまったメタグロスだった。
わたしの横で、ダイゴくんの手を思い出させていたのもメタグロスだったらしい。


「あなたはボールよりお外にいるのが好きなのね。もちろん好きにして良いけれど、ダイゴくんが迎えに来るまでは怪我の無いようにね」


ついつい人の子みたく喋りかけてしまう。でも昨日のメールでダイゴくんは言っていた。メタグロスは頭が良いって。きっと通じていることだろう。


「でもね、このお部屋の出入り口はあなたが通るのには小さいから、一度戻ってね。一緒にお庭に行きましょう」


こんと、卵をぶつけるようにボールを触れさせるとメタグロスはボールに戻ってくれた。


「おはようございます」
「爺や、おはようございます。突然ですが、お願いがあります」
「朝食のことですね。お庭にお運びいたします」
「ありがとう」



いつものと変わらない朝食が、芝生の中心のテーブルに広がっている。シロップが朝の光を吸って艶めいている。


「素晴らしい天気ですね。メタグロスもうれしそう」


朝方の空気は冷たいけれど、空の下の制限の無い場所に放たれたメタグロスがのびのびしているように見えて、寒さは忘れられた。


さま、メタグロスさまのお食事につきましては私めが勝手ながらポケモンフーズをご用意いたしました」
「まあ、ありがとう。メタグロスもきっと喜んでくれます」
「それにしても立派なメタグロスです」
「ダイゴくんのメタグロスだもの」


ダイゴくんは誰より強い。
チャンピオンだったこともあるのだから強いに決まっている。
きっと、一番に強い。
それはわたしはポケモントレーナーの世界のことをよく知らないから言えることでもあるのだけれど、これに関しては無知のままで良いかもしれないと思っている。
ダイゴくんがすごいということを、わたしは盲目に信じていたいのだ。

食後のお茶を飲み始めたところで爺やは手帳を広げる。


さま、今日のご予定にありましたお稽古ですが、先生が帰省されお休みでございます。そして明日のご予定ですが……」
「ええ。言わなくても大丈夫です」


濁した爺やの言葉を引き継ぐ。


「明日はわたしのお見合いの日ですね」
「奥様が懇意にしているご友人、そのご子息にお会いになるだけでございます」
「でも、お母様は期待しています」
「……お相手のプロフィールを読み上げてもよろしいですかな?」
「知っておいた方が良い、のよね」
「はい」
「……分かりました、お願いします」


お相手はとても有名な銀行頭取の一人息子だという。趣味に流行りスポーツをいくつか。ポケモントレーナーとしての腕に自信があるそうで。

以上でございます、いう爺やの声にわたしはダイゴくんの方がすごい、と良くないことを考えた。
投げたモンスターボールが必ず手の中に戻ってくるように。どうして必ず戻ってくるのか仕組みが分からない、けれど約束された必然のようにそう考えていた。


さま」
「はい」
「お食事の後はメタグロスさまとお散歩などはいかがでしょう」
「いいえ、ダイゴくんのメタグロスに何かあったら困るもの」
「左様でございますか。しかしメタグロスさまはもう森の方に」


爺やの声に弾かれてメタグロスを見ると、ちょうど噴水の向こうへひゅうっと跳躍したところだ。着地の瞬間にお庭に石畳も飛んだ。


「そんな……! 待って、メタグロス!」
さま、メタグロスさまを追いかけたらどうでしょう。爺もご昼食の時間までにはお迎えに参ります」
「わたし一人で行っても良いの?」
「ダイゴさまの育てたメタグロスさまがご一緒でしたら爺も安心です。さま、お帽子がこちらに」
「……ありがとう! ごめんなさい、行ってきます!」
「はい。何かありましたらメタグロスさまを」
「ええ、メタグロスを守ります」


なぜだか目を丸くした爺やを置いてわたしは駆けだした。

追いかけながら、メタグロスは本当にとても可能性を秘めたポケモンなのだと思った。飛んだり、歩いたり、どの動作もとても器用なのだ。彼は木々の間を上手に行く。
足の遅いわたしがメタグロスに追いつくのは簡単なことではなかった。

駆動する4つの足にぐっと力がこもる。次の瞬間、メタグロスがとても高くジャンプした。彼の鈍く光る体が、虹のような軌跡を空に描く。


「わあ……!」


ずんずんと進んで行ってしまうメタグロスを焦りながら、でも高揚を感じながら追いかけた。

そのメタグロスが歩みを止めたのは、森の少し開けたところだった。激しいポケモンの鳴き声と、何かと何かがぶつかる音。

木々の合間から見えたのは、メタグロスとマッスグマ。それも3匹のマッスグマだ。
ドン、と大きな音。メタグロスがその足で攻撃を加えたらしい。

メタグロスが3匹のマッスグマを相手に戦っている。
木の根に苦戦しながらたどり着くと、決着はついていたみたいだった。3匹のマッスグマは身を寄せあうと弱々しい威嚇を見せて去っていってしまった。


「メタグロス、大丈夫? うちの敷地にもマッスグマっていたのね。……あら」


メタグロスにけがが無いか、じっくり体を見ていると小さなポケモンと目が合った。
メタグロスの足や体の下に隠れていたキノココ、タネボー、ジグザグマ。とにかく体の小さなポケモンたちがメタグロスの下に体を隠していたのだ。

驚いていると、ふわり、と頭に帽子が乗る。
先ほど爺やがくれた帽子を、わたしはいつの間にか落としていたようだった。不思議な力で浮き上がった帽子は、散った花びらが髪にかかる時のようにそっと頭上に収まった。


「この子たちを助けに森に入ったの? あなたって優しい心の持ち主なのね」


メタグロスはしゃべらないのだけれどきっと通じている、目で返事をしていると信じたくなった。


「これからどうするの? わたし、あなたをひとりにしておくのが心配だから出来れば一緒に行きたいのだけれど」


そう話しかけると、今度はわたしの体が地面を離れた。そしてメタグロスは平たい頭の上にわたしを乗せてくれたのだ。


「すごい! あなたパワフルに見えるけれどこういう力も使えるのね。こういうのってなんて言うんだっけ! 確か、超能力タイプ? 当たりかしら」


メタグロスはその場で少し脱力したように見えた。


「はずれかしら」


見るとメタグロスは目を瞑っている。どうやらここで少し休む様子だ。

わたしもメタグロスの上で足を折って、楽な姿勢を取った。
確かに、ここはじっとしているのには丁度良い。
木漏れ日の美しいし、静かで、ポケモンの声が遠くに微かに聞こえるだけ。
目を閉じると、何もかもを忘れてしまいそうになる。

自分が大人になりきれないこと、お母様のこと、年老いてきた爺やのこと、ダイゴくんのこと、明日のお見合いのこと。


「……ダイゴくんに言えなかったな」


お見合いのことを知っているのは結局今回の当事者だけ。
ずっとわたしの胸にはつっかえていた。けれど、とりたててダイゴくんに伝えるべきことなのか決心はできなかった。

わたし、お母様の期待に応えられる大人になろうと思う。だからお見合いを頑張ろうと思う。

そう素直に伝えて、もしダイゴくんが困った顔をしたら。わたしはそこに現実を見てしまうだろう。


さま」
「爺や」
「申し訳ありません、来客がありまして遅くなりました」
「そうだったの。わたしは大丈夫です。メタグロスが優しくしてくれたから退屈しませんでした」
「そのようでございますね」


爺やはしわをゆるめて笑みを返してくれる。けれどその顔がいつもより少し暗い。


「……さま。やはり明日のお見合いにつきましては爺から旦那さまに一言申し上げようかと思います」
「どうして?」
「先ほどの来客は……、お相手さまのご一行でした」
「そうなの」
「私にはこのお見合いが本当にお嬢さまにとって良いお話であるのか……判断いたしかねます」
「そう……」


爺やは判断できないという言葉を使った。きっと雇い主のことがあるからだ。わたしの両親の意に反することを彼は口にしない。
けれど面もちが反対であると言っていた。


「ありがとう、爺や。いいの。わたしも前に進まなくてはいけないしね」


本当はわたしも結婚のことは考えたくない。
子供のまま、このままでいたいと思っている。
そのくせに、わたしはダイゴくんを受け入れられなくなっている。ダイゴくんと子供のときのままでいられなくなっている。

歪んでいる。ダイゴくんを願いながらわたしはダイゴくんを拒絶している。
もう、物事の限界が来ているのだ。


「相手のお方がわたしを気に入ってくださると良いわ」
「私にとっては、さまがお相手さまを気にいられるかの方が重要でございます」
「……ありがとう」
「帰りましょう。お手をお貸しいたします」


爺やがわたしが掴まる用に腕を差し出してくれた。メタグロスもそっと地面に降ろしてくれた。ありがたく、手を乗せる。


「メタグロス、ご主人さまが言ってたわ。頭のいい子だって。ありがとう」


わたしと爺やの帰り路をついてくるメタグロスが、可愛らしくて仕方が無かった。