素敵な服を着た。わたしの好きな色で、趣味が合って、体にぴったりと合う。
けれど耳元で囁かれているように気持ちになる。良いお洋服を着られたのだから、耐えなさい。素敵な服を与えられた代償を果たしなさい、と。
気付けを手伝ってくれたメイドが出ていった扉から爺やが入ってくる。
「よくお似合いでございます」
「……爺やも。とっておきの服、とても似合っています。リボンが少し浮いているけれど」
「大切な日はお嬢様からいただいたこのリボンと決めています」
「もう何年も前のものだったはずです」
「はい、10年前の誕生日プレゼントでございます」
そう言って爺やは胸を張る。
「そろそろかしら」
「まだお時間がございます。どうぞお肩の力を抜いてくださいませ」
「……そうですね」
「メタグロスさまはいかがでしょうか」
「元気そうでした。今朝も知らない間にボールから出ていたことが少しだけ心配ですが」
「ご用事の間は爺やがメタグロスさまをお預かりいたします」
「ええ、お願いしますね」
鏡のすぐ横の机に置いていたボールを手に取る。それを爺やに渡すのに、わたしは少し躊躇してしまう。手のひらの中の硬い球の感触が、預けられたダイゴくんの持ち物が、心細い気持ちを受け止めてくれるような気がしていた。
「お嬢さま」
「すみません、大丈夫です」
「何かお飲物をお持ちいたしましょう。暖かいものと冷たいもの、どちらにいたしますか?」
「では、爺やに任せます」
「かしこまりました」
一礼をして爺やが出ていく。わたしはボールを手放さずに済んだことに、密かにほっとしていた。
手のなかのボールが揺れる。この子は本当にお外が好きみたいだ。
「あと、少しだけなら良いよ」
そう言ってあげると、彼はボールの中から出てきて部屋を揺らしながら着地した。
わたしも少し椅子から浮いてしまう。
同時に、とん、音がした。カーペットに衝撃を吸収されながら物が落ちた音。
見るとわたしのポケナビが、机から落ちていた。
一昨日のダイゴくんの言葉が、不意に浮かんだ。
『分かったよ。何かあったらメールでも電話でも何でもしてよ』
ダイゴくんの顔が今までより強く浮かぶ。成長を見てきた顔が、甘い言葉を囁く。
『いつだって呼び出して良いんだからね』
わたしは暴れる胸を抱えながらポケナビを開いた。
案の定声を聞く勇気が無いので、またもメールを打ってみる。
To.ダイゴくん
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ダイゴくん、
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そこまで打って指が止まってしまった。
結局何も無い。
ダイゴくんに伝えても良いと思えること、伝えようと思えること、伝えてダイゴくんが困らない話題がわたしにはひとつも無いのだ。
目から何かが滲み出てしまいそうだ。
たった6文字でつまづいてしまったメッセージを、ボタンを押して、ひとつひとつ消してゆく。
To.ダイゴくん
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ダイゴ
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メッセージがその三文字まで削られたとき、再び床が揺れた。わたしの体が浮く。
「ど、どうしたの?」
振り返るとメタグロスが、一歩強く踏み出した体勢でわたしを見ていた。
メタグロスが前足でこの部屋は揺れたらしい。
一歩前に出ていた前足が再び浮く。
「ちょっと、待っ、っきゃ!」
衝撃に備えてわたしは体を強ばらせて手をぐっと握ってしまった。また部屋が揺れる。大きな鏡がぐらくつ。わたしもお尻が少し痛い。
次の衝撃を恐れて目を瞑る。しかし、メタグロスの行動はその2回で収まった。
「一体どうしたの?」
怒っているのだろうか? 自分の主人に会えないのだから。
「大丈夫。ダイゴくんならあなたを見捨てたりしないよ。もうすぐ迎えに来てくれるからね」
ダイゴくんはさぞかし仕えがいのあるご主人なのだろう。
大好きなその人と数日でも離れることになったメタグロスがかわいそうで、おでこの辺りを撫でてあげる。お洋服に合わせた手袋のせいでその冷たさが伝わってこないのが少し寂しいと思っていると、急いたノックの音がする。
「失礼いたします。お嬢さま、爺やです」
「はい」
「お相手さまが見えられました。ただいま旦那様と奥様がお先にお迎えを」
「……今行きます」
わたしはポケナビをそのまま閉じて机に置く。
ボールはメタグロスに投げ、それを爺やに渡した。
鏡に映ったわたしは情けない顔をしていた。
笑いましょう、わたし。鏡の中のわたしが口角を上げた。
そう、これをそのままを維持させるのよ。
怖くなんてないわ。怖くなんてない。怖いことなんて、すぐなくなっていくんだから。
エントランスに大きな高笑いが響いていた。階下で談笑するのは知らない女性が肩に手を置く知らない青年。
青年はわたしを見つけ、高らかに言った。
「遅かったですね!」
その一言でわたしは大きく焦ってしまった。歩き慣れた家の階段を踏み外し、転んでしまうくらいには。
すぐに爺やに手を借り立ち上がるけれどじくじくと足首が痛んだ。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
「外見のままドジなところがあるんですね」
「失礼いたしました、娘は緊張しているようですの」
「ああ、なるほど」
お母様の落ち着いたフォローが入る。けれどわたしはすっかり、繕った笑顔を戻す方法を見失っていた。
それから、家の中を案内していても、食事と一緒にそれぞれの家族を交えて談笑をしても、お互いの子供のことを紹介し合っても。
そしてわたしと彼の二人でお庭に放されても、わたしは笑い出すそのきっかけをつかめずにいた。
ダイゴくんにも爺やにも、よく笑う子だと言われていた。だから口の端を上げて、目を細めて、いつもの気持ちを思い出せば良い。なのに心の全てが強ばって凍えたようにしか動かない。
相手の彼が大股で歩くていく。わたしは必死についていく。
「いやあしかし、良い庭だ。地主っていうのは良いなあ。ここまで広い森を好き勝手できるなんて羨ましい限りですよ。何でも野生のポケモンも野放しのままだとか。いやあ羨ましい」
「あ、ありがとうございます」
「そうだ、僕の自慢のポケモンを放して良いですか?」
「はい、ぜひ」
「それじゃあ早速。出て来い! マッスグマたち!」
やっぱりポケモンに慣れた方は綺麗にボールを投げられる。描かれた放物線を遠い景色のように見てしまう。
出てきたのはマッスグマ。それも3匹の。なんだか見たことがあるような気がする。
「どうだい?」
「とても綺麗なマッスグマですね」
「そうなんだ、毛並みの良さが自慢さ」
彼がひとつ口笛を吹くとマッスグマたちは息のあったコンビネーションで高く鳴き、スピードスターを繰り出した。
スピードスターは昼間の光に負けずに輝いて、森の側にある木を一本切り倒してしまった。
地鳴りのような音を立てて木が倒れていく。
素直にすごいですね、と言いそうになった時だった。
わたしたちの背後でも地鳴りの音がした。
衝撃で数センチ、足が浮かんでしまう感覚。正体はすぐに分かった。ダイゴくんのメタグロス。
「なんだこのポケモン!?」
「えっと、メタグロスです」
「君のポケモンなのか!? っこら、マッスグマに何する!」
3匹のマッスグマに迫るメタグロス。もみ合う4匹のポケモンを見てようやくはっきりと思い出した。やはり昨日森にいたマッスグマたちだ。
マッスグマたちからはスピードスターの一斉攻撃を加えられるもののメタグロスは動じない。
昨日の喧嘩相手にメタグロスは容赦しないらしい。徐々に力を溜め始め、額のX字が光り始める。あの動きはダイゴくんがやっているのを見たことがあった。
『メタグロス、はかいこうせんだ!』
そうあれは、はかいこうせん。メタグロスでさえ放った後は動けなくなってしまうほどの威力を持った必殺技。
あんなものをぶつけられたら。マッスグマたちが、危ない。
「メタグロス、っやめなさい!」
思わず大きな声が出ていた。わたしの命令なんて聞くとは思えなかった。けれど、メタグロスはぴたりと動きを止めた。
額に集まっていた力は砕けて消える。
しん、と辺りが静まり返った。
「っ貴女はなぜそんな凶悪なポケモンを持っているんだ?」
「凶悪だなんて。それにわたしのポケモンでは……」
「でも君の言うことを聞いた!」
「それは……、偶然です」
「僕をバカにしているのか? ポケモンっていうのはただ人の言うことを聞く道具じゃないんだ。強いポケモンを従えるのは強いトレーナーじゃなきゃ出来ないんだぞ?」
「本当に、偶然です」
「そんなにトレーナーとして腕が立つならちゃんとプロフィールに書いておいてくれ。クソ、赤っ恥だ……!」
苦虫を潰したような顔をして、彼はマッスグマたちをしまってしまった。
わたしはどうやら彼の気分を悪くさせてしまったらしい。どうにか機嫌を直してもらおうと何度も声をかけるが、直に駆けつけたお母さまたちによって、わたしたちは問答無用に別々の部屋へ押し込まれてしまった。
「いったい何があったっていうの? あのポケモンは? 貴女にはポケモンなんて持たせていないはずよ」
「先日、ダイゴくんが」
「ツワブキさんがどうしたっていうの」
「ダイゴくんから預かったメタグロスなの」
「そうツワブキさんのところの。……なら、しょうがないわね。………」
お母さまは目を三角につり上げていたが、メタグロスがダイゴくんのポケモンと知るなり、何も言わなくなってしまった。
「あの方は大丈夫でしょうか」
「もうこの話は終わったわ」
「ど、どうして?」
「あのね、」
お母さまひどく疲れた様子で言い放った。
「自分よりポケモンの腕が立つ女性と結婚したいなんて思う男性はいないのよ」
戻った部屋。わたしはすぐ楽な靴に履きかえた。
あのメタグロスはわたしのポケモンではない。けれどその誤解を解いたところで、相手の方の心は戻ってこないだろう。
ため息が出てしまう。
いけない子。どじを踏み重ねて、お母さまを失望させてしまった。
真にわたしのいけないところは、相手が帰ってしまって良かったと、心のどこかで思っているところだ。
鏡の中で、わたしは安心した顔をしていた。
ふと、ポケナビが目に入る。
着信を知らせるランプがついていた。
メールが来ているそうだ。けれど未受信となっていて中身を読むことは出来ない。
誰からだろう。
接続してみる。けれど何度やっても、途中で接続が切れてしまう。
電波の状態が良くないのかしら。わたしはふらふらと部屋を出た。ポケナビの画面を見つめながら廊下を歩く。
何度も何度も拒絶されるアクセス。わたしは取り付かれたようにポケナビを操作する。
中身の分からないメールを求めたふらふらとした足取りは、いつの間にかお庭へとたどり着いていた。