8月17日


ついに庭に出て、芝生の端まで行ってもポケナビは言うことを聞いてくれない。
ガシャンガシャンと工事現場が歩いてきたような足音が近づいてきた。そういえばメタグロスを庭に放したままにしていた。
わたしの一歩後ろで止まった慎ましい子に、精一杯の笑顔を送る。


「これはね、ポケナビのメールが届くのを待ってるの。でも調子が悪いのか届かなくて」


まだ、メールは届かない。わたしは取り付かれたようにポケナビを繰り返し操作しては空に向ける。


「誰からのメールかは、分からないんだけどね。もしかしたらダイゴくんからじゃないかって思っているの。そうだったらいいなって思っているの」


今一番話を聞いてほしい人がダイゴくんというだけで、わたしはいつの間にかこのメールがダイゴくんからじゃないかと願って、決めつけていた。

もしメールがダイゴくんからだったならどんな内容でも嬉しい。石のこと、ポケモンのこと、わたしの分からない話でも良い。ダイゴくんの言葉なら何を綴ろうと、わたしにいつもの日常へ引き戻してくれるに違いない。それが僅かに心苦しさを伴う日常だとしてもわたしは引き戻してもらいたい。

届け、と上へ限界まで延ばした手。ぐっとふらつくほどに背伸びをしたら、急に自分の足が浮き上がった。まさか。わたしは自分の口を手で押さえた。
やっぱりメタグロスだった。昨日されたのと同じようにふわりと浮かせて、頭の上へゆっくり降ろしてもらう。
状況が飲み込めないわたしが、とりあえずその体の上に収まるとメタグロスは前進を始めた。

少し歩いたところでメタグロスは、体を上下に揺らしてわたしへ合図を送ってきた。


「あ、うん! やってみるね!」


メールを確認する。届かない。それを察したかのようにメタグロスが場所を変える。芝生を越えて森の開けた場所に出たところでまた合図か来る。懇願するような気持ちで確認する。届かない。

移動する、確認する、届かない。
そんなことを繰り返して、いつしか家の敷地を抜けて、わたしとメタグロスは海の望める高台まで来ていた。


「……ごめんなさい、メタグロス」


申し訳なくなった。
見られないと見たくなって、手に入らないと必死になる。どうしても中身を知りたくなる。そんな我欲に飲まれたわたしをメタグロスはこんな遠くまで運んでくれたのだ。


「本当にわたしって」


その後に続けられる言葉は数え切れないほどある。
だめね、行動が遅いね、ぼんやりしてるね、良い顔してばかりね、いつだって人にしてもらってばっかりね……。

ため息と一緒にポケナビを操作して、ダイゴくんへコールをかける。
最初からこうすればよかったんだ。素直になって、それでいて強がって。
出来なかった理由、しなかった理由は山ほどあるけれど、勇気が出た理由はただひとつ。今メタグロスが傍に居てくれるから。
赤い色と目が合う。緊張が真横に居ることを意識しないよう息を飲んだ。



『はい』
「ダイゴ、くん?」
『そうだよ。どうしたの?』
「えっと、あの、ね……」


あっさりと声が聞けたことに驚いて言葉に詰まってしまう。つまづき始めた口に冷や汗をかきながら困っているとメタグロスがまた体を上下に揺らしてくれた。
ああそうだ。口実は、さっきメールを送ってくれたかどうか。


「ダイゴくん、さっきわたしに――」
『ねえ』


ダイゴくんの声が被さって問いかけてくる。


『もしかして海の見えるところにメタグロスと一緒にいる?』
「え……、うん。どうして分かったの?」
『やっぱりだ』


そう言うと一方的に通話は切れてしまった。
わたしがもう一度、かけ直す必要は無かった。頭上からエアームドの鳴き声がしたから。
メタグロスの横に、青い空を背にして銀の鳥が降り立った。彼のスーツの裾が、海風にはためいている。


「良かった、二人とも仲良さそうにしてるね」
「ダイゴくん……」


生の声が耳に入り込んでくる。
まさかこんな近くにダイゴくんがいるなんて思っていなかったから、風圧で舞い上がった前髪をそのままにぽかんと口を開けてしまった。


「さっきはどうしたの?」
「さっきって?」
「メール。『ダイゴ』とだけ書かれてたから気になって来ちゃったよ。今更呼び捨ても珍しいし」


メールを送った覚えはないけれど『ダイゴ』という3文字を打った覚えはあった。消しかけの3文字だったけれど、メタグロスの足踏みに揺られたあの時、わたしは間違えて送っていたらしい。
だから、ダイゴくんも近くまで来ていた。

不意にポケナビの画面が光って、メールの着信を知らせる。
無意識にボタンを押すと焦がれていたメッセージが表示される。



To.
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どうしたの? 何かあった?
すぐ行くから待ってて
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「……変換、出来るようになったんだ。はてなも打ててる」
「あんまり分からないから人に聞こうかと思ったんだけどさ、調度洞窟の中だったからやめた。もう少しで取扱説明書を取り寄せるところだったよ」
「あはは……」


良かった。本当にダイゴくんからで。
泣いてしまうかと思うくらい目が熱かった。

下を向いて涙をこらえていると、ダイゴくんは軽やかにメタグロスの上に乗ってきた。
わたしとダイゴくん。メタグロスの上に二人ぶんの体は調度良く収まった。


「ごめんね、わたしが送ったメールは間違いなの」
「そう? じゃあ電話は?」
「えっ?」
「何か用件があったんだろ」
「ああ、それは。……わたし、失敗しちゃって」
「どんな?」
「お見合い」


ダイゴくんが目をまあるくする。


「お母さまがせっかくいろいろ用意してくれたのに」
「どうして言ってくれなかったんだ」
「ダイゴくん、こういう、誰が誰とどうなるって話には興味無いと思って?」
「そんな訳無いだろ……。どうりでかしこまった格好にかしこまった髪型だと思った」


深いため息をついた横顔。ダイゴくんはひどくすねた時の顔をしている。


「いや待ってやっぱりおかしいって。僕、君のお母さまに言ったはずだ」
「な、なんて?」
「“あなたたち二人はどこまで進んでいるの?”って聞かれたから、僕の心は決まってるって言った。きっと、も同じ気持ちのはずだから聞いて見てくださいって」
「………」


言われてみれば、同じような質問ならお母さまからされた。お見合いの話が出される少し前のことだった。


“あなたとダイゴさんってどんな仲なの?”


そう母が聞いてくるのでわたしは当然、こう応えた。


“素敵なお友達です”


あそこで、小さな気持ちを恋心と名付けていたなら。それを声に出していたなら。
つつ、と首に滑った冷や汗に海風が強く当たる。


「そう君の中では僕はまだ良いお友達だったわけだ」
「う、うん……」
「じゃあ友達は終わり。君は良い友達だったけど、もう違う。親父と正式な段取りとっておくけどさ、からもちゃんと伝えておいてよ。君は僕と結婚するって。じゃないと僕以外の人と結婚ってことになるよ? いややっぱり僕からはっきり伝えておいた方が良いかな」
「ま、待って! 話についていけない……!」
「どの辺りから?」
「“友達は終わり”からもう分からないことだらけ。わたしとダ、ダイゴくんって! そんな仲だっけ……!」


なぜなにどうしてを言葉にしていくと、それに伴って顔が熱くなる。ダイゴくんが見れなくて下を見ると、メタグロスがわたしをじっと見上げていた。


「わたしは、まだ、友達だと思ってたよ」
「うん、友達だった」


友達だった。その言葉が思ったより優しくわたしの鼓膜を揺らす。
ダイゴくんは、なんだか安らいだ様子だ。メタグロスの上で余ってしまう足を折って、首を少し丸めて。そして声を柔らかくさせて言った。


「今はもう、ずっと、死ぬまでずっと一緒にいたい人だよ」








エントランスに明るい声が響いている。ダイゴくんの声、それに爺やとお母さまの声も。
お母さまは特に、この先の見通しが立って声に歓びが滲み出ている。


、来なさい。ダイゴくんよ」
「わ、分かっています」


なんだか照れてしまう。
階段を降り、わたしは持っていたモンスターボールを手渡す。


「ダイゴくん、はい」
「ん?」
「メタグロス。二度も忘れていっちゃうなんてひどいよ」
「……どうしてメタグロスを僕に返すんだい? 仲良さそうにしてただろ?」
「え?」
。何か勘違いしてない?」
「……してるかもしれません」
「まず。この子の主人は今君だって分かってる?」
「え。……え?」
「やっぱりこの前の話聞いてなかっただろ」
「………」


気まずくて何も言えないまま見上げるとダイゴくんは、喋るスピードを落としてわたしに言い聞かせた。


「この子はリーグ挑戦者とのバトルのために育てたメタグロス。本当にバトルのためだけってくらい癖のある育て方したから、僕がチャンピオンをやめてからはボックスに預けることが多くなってしまった。それが可哀想でに預けることにした。あとはずいぶん働いてくれたからしばらくは伸び伸びさせてやりたいし、は僕が一番頻繁に会う人だからに預けることにした」


ダイゴくんが淀みなく喋るのを、わたしはボールとダイゴくん両方を交互に見つめながら聞いた。
そうだったんだ。ダイゴくんの説明がようやく鼓膜から染み渡る。


「じゃあメタグロスがわたしの言うことを聞いたのも偶然じゃなかったんだね」
「本格的なバトルになれば君の言うことを聞くとは限らないけどね。このメタグロスはまじめな性格なんだ、ぼんやりしてるとは調度良いくらいじゃない?」


あのメタグロスはまじめさんらしい。
言われてみるとしっくり来る。なんでもないわたしのことを律儀にじっと見つめてくれた。


「わたしでいいの……?」
「お願いしたのは僕だし、僕はもうしばらく君の傍にいてもらいたいくらいだけど」
「どうして?」


ダイゴくんがニヤリと笑う。前髪が鼻の上に斜めにかかって、それがダイゴくんの細まった目、上がった口端のラインと綺麗に調和する。


「ぼんやりした箱入り娘が強すぎるメタグロスを連れているっていうギャップでさ、を取ろうとする人から守ってもらわなきゃ」
「え、ええ? 守るのはわたしの方だよ。わたしがメタグロスを大切にするんです!」
「じゃあもうそういうことで良いよ」


前髪と目と唇で出来ていたニヤリのラインが崩れる。砕けたようなダイゴくんの笑顔。

お母さまがわたし達を見て笑っている。爺やもお話を読み終えた時のように笑っている。
ダイゴくんは抑えきれないよって言うようにお腹に手を当て笑っている。
みんなの声を聞いていると日常の中に埋め込まれていた心苦しさのトゲが融けていくようだ。ぎゅっと手の中のボールを握りしめたらメタグロスが出てきて、彼の着地の瞬間またわたしの体はエントランスから数センチ、浮き上がる。
ついにわたしも笑ってしまった。我ながら子供っぽく、笑ってしまった。



おしまい