fool and stubid




小さい頃からあまりぶたれたこと無いからかな、同じロケット団の仲間にされたことが印象的だったのかな。それとも初めて飛び込んだ女性特有の嫉妬・いがみ合いの渦が怖かったからかな。あの時降り懸かった暴力はわたしの胸に強く刻みつけられている。

少し前の記憶だ。思い出すと塩と蜂蜜をいっぺんに舐めたような気持ちになる記憶だ。わたしはアジトの通路を歩いていた。
いつもの調子、でも少しだけ曇り寄りの気分だった。たまにある。見るものすべてが少し可哀想で、影を追っているように見える日。
右肩下がりの気分の中だから考え方にも雲がかかっていて、わたしは数歩先の床を見つめながら歩いていた。
そんな中、突然わたしは同じ団服を着てるが、名前も知らない彼女に頬をはたかれたのだった。ぱしんっ、と薄い破裂音が通路に響いた。


「どうしてあなたなんかが!」
「……っ」


何が起こったのかすぐには分からなかった。けれど条件反射ですぐに目頭が濡れた。
いきなり与えられた痛みでじんじんと鳴くほっぺたに、すぐ泣きそうな声が吹きかけられてしばらく混乱してしまう。


「イラつくのよ、貴女のようなバカを見てると」


コントロールの利かない怒りを堪えているんだろう。向けられる明らかな怒気。先手にひるんだわたしが縮こまっていると、相手のひとはまた眉をつり上げる。頬の痛みが尾をひく中、振りかざされる手がいつまたわたしに飛んでくるのだろうと思うと恐怖で体が強ばった。


「どうして、あなたなんかがアポロさまと」


その一言でようやくわたしは状況を悟ったんだ。
彼女は疑問を抱いているのだ。最近、わたしが、自惚れでなく、アポロさまに贔屓されていることが信じられなくてわたしに暴力を振るったのだ。

当時のわたしは明らかにアポロさまのお気に入りであった。ホウエン地方からの流れもので、ポケモンバトルの腕も中の上くらいはあったから団員の中では目立つ存在だったのだ。
地方からの新参者なので団内での信用は無いに等しかった。だから地位も下っ端どまりだ。でも幹部の目につきやすいわたしは、下っ端たちの中ではとても打たれやすい"出る杭"だった。


「ご、ごめんなさい」
「謝れば許されると思ってるの?」
「そういうわけじゃ」


ないんですけど。相手の女性が怖くてわたしは最後まで言いたいことを言えない。


「ほんとうじうじ薄気味悪いやつ。これ以上調子に乗ったら許さないわよ」
「あの、わたしもそう思ってます」
「は?」
「これ以上調子に乗ったらだめだって、いつも思ってます」


同じくアポロさまを好きになってしまった人として、親近感でも覚えたのかもしれない。ぽろり、口から漏れていたのは誰にも話したことのない本音だった。
嫉妬の赤色に染まった言葉は冷静さを失ってはいたけれど、言っていることは心の奥を突いていた。


「わたしなんか嫉妬される価値も無いの、に――っ!」


いきなり本音をさらけ出すなんて、なれなれし過ぎたのかな。
言いかけてる途中、彼女は、また恨みのこもった手のひらでわたしの言葉を断ち切った。じん、と反対側の頬にも熱がうずく。容赦の無い形相は、親の仇を見るような目だった。


「最低」


それが彼女の捨て台詞となった。

遠くなっていく足音をラジオの中の出来事のように呆然と聞く。震える手ではたかれた頬よりも先に、わたしは口を押さえた。
恐ろしくなったのだ。愚かなこの心を言の葉にしてしまうこの唇が。





「どうしたのですか」


愛しい人の声にわたしは顔を上げる。
記憶はいつの間にか、別の時間へと切り替わる。場面も変わっている。わたしはアポロさまの私室にいる。薄暗い部屋の隅にわたしはぼーっと突っ立っている。
目の前には冷ややかな瞳を細めるアポロさまがいる。


「顔に余計なものがついていますよ」
「あ、これは……っいっったぁあ……!」
「全く。なにをやっているんですか」


アポロさまがあきれるのも当然だ。腫れを隠そうとしたのだが、勢い余って自分の指で刺激を与えてしまい、それで悶えているのだから。意図とは全く逆の結果に、わたしは内心泣きそうになった。
頬に宿る痛みと熱で鏡を見なくても、わたしの顔が惨めなものになっているのは分かった。通路で嫉妬を吹っかけてきた彼女のせいだ。ただの張り手だったはずなのに……。女とは怖い生き物だ。


「話してはくれないのですか、何か起こったか」
「え、その、気にしないでください。大したことじゃないんです」


言えるわけがなかった。あなたを取り合って起こったんです、なんて。
嫉妬する女同士の醜い部分を見せるのは気が引けた。なのにアポロさまはニタニタと焦るわたしを見下ろしてくる。


「でもずいぶん膨れてますよ」
「だ、大丈夫です! 何でもありませんって」
「あ、分かりました。もしかして何か頬張っているんでしょう」
「へ?」
「本当には卑しい。おまえの好物といったら、なんでしたっけ」
「違います! いったぁ……!」


また触ってしまい、痛みから滲んでくる涙のなかアポロさまはひどく楽しそうだ。からかわれて、アポロさまに笑顔を向けられて、またわたしの頬はじくじくと別の熱を持つ。
そしてその後、ふと、冷たい手が患部に触れた。落差のある体温を気持ち良い、と本能で感じている間にキスは落とされたのだった。


「えっ……?」


間の抜けたわたしの戸惑いが部屋に落ちて、そして二人ともが数秒黙った。

アポロさまは無駄なものはいつだって捨て置いていく人だ。その磨かれた獣の爪みたいな人が持っているとは思えないほど唇は柔らかい。触れてくる部分は教えてくれた。彼とわたしが同じ人間であると。柔らかすぎるものはめまいをもたらす、とも。

そうだ、この時の記憶が強く残っているのはキスのせいだ。出来上がっていない関係の上でアポロさまがくれたキスがわたしの過去として鈍色に光っているのだ。
意味もなく何の価値も生まないキスが、まるで本当の恋人がするものに似ていたから、今も思い出すだけで果物を噛まずに飲み込んでしまったような気持ちになる。


「唇が、切れていたので」


息がかかる距離で細まるアポロさまの瞳。冷たい光にわたしは魅せられる。

嘘みたいな記憶だ。過ぎ去った出来事の明かりは妄想と見間違えるくらいまぶしくって目に刺さる。

何でもない下っ端のわたしと、アポロさま。ふたりを取り持つラベルは上司と部下。他には存在しない。
アポロさまは女の人に気を持たせるのが上手だ。アポロさまの手のひらの上で、その気になった女の人をわたしは何人も見てきた。遊ばれている以上の優遇なんてされたこともない。アポロさまがわたしに何か特別な部分をさらしたこともない。そしてわたしからの干渉は許されない。
でしゃばらず、求めず、なにも起こさず。ただしアポロさまの指先には反応して見せる。その時わたしに与えられていたのはただそれだけの要求だった。


「いいんですか? 誰も、見てないのに……」


この時は理解ができなかったのだ。なんでアポロさまがキスをしてくれたのか。
ふたりっきりの部屋でしたって嬉しくなったり悲しくなったり楽しくなったりするのは、わたしとアポロさまだけで、うまく意味が見出せなかったのだ。


「おや、は人に見られながらされたいと」


また、視界でアポロさまがニタつく。恥ずかしくなるからかいに、唇はあっけにとられたまま動くことをしなかった。


「ちゃんと冷やしておくのですよ」


追求の手を緩めてわたしから離れていった彼の表情は穏やかだった。
両頬を気遣いながら離れていく手は、少し怖かった。わたしはいつだってアポロさまの優しさに傷つけられるような気がしていた。この人の優しさを、どこか理解しきれないまま、ここまで来てしまった。今もそうだ。
自分にとって都合の良い期待。けれど都合が良すぎて信じられない気持ち。混ざってマーブル模様だ。

わたしに嫉妬を燃やした彼女へ、本当は言ってしまいたかった。わたしはここから逃げてしまいたい。







はた、と現実に引き戻される。
場所はアポロさまの部屋ではなく、ラジオ塔を望むビルの屋上。BGMはラジオから流れる、サカキさまへの呼びかけだ。

夢から覚めた気分であたりを見渡せば、コガネシティのビル群が目に入った。目立つ赤色のラジオ塔最上部では、アポロさまが邪魔な子供を始末しようと動いている。


「こら、何ぼーっとしているんだ!」


先輩のロケット団員から飛んできた激に肩がはねる。


「ご、ごめんなさい」


すぐに頭を下げる。
任務中だというのに、思い出に浸っていた自分が恥ずかしくなって、浸っていた記憶を頭を振って必死にかき消した。


「考えごとか? 大丈夫か? なんか、顔赤いぞ?」
「大丈夫ですよ。ちょっと思い出してたんです、昔のこと」
「なんだ、感慨深くなっちゃったのか?」
「は、はい」
「まあ気持ちは分かるな。だって今日はついにオレたちの野望が叶う日だもんな。オレも思い出すよ、いろいろあったなって」
「ロケット団復活、ですね」
「長かったなぁ……」
「泣くのはまだ早いですよ。サカキさまが戻ってきてからにしましょう」
「ああ、そうだな」


男泣きをし始めた先輩。わたしも同じように泣きたい気分だ。
我々の悲願が叶おうとしているのだ。わたしや、先輩だけじゃない。きっとロケット団みんなが同じように、気持ちを高ぶらせているであろう。

ラジオを聞きつけてサカキさまはきっと帰ってくる。サカキさまだけじゃない。昔の仲間も舞い戻る。あの方が帰ってきたとなればロケット団はすべて元通り――いや、さらに勢力を増すだろう。
ようやく皆が報われる。下っ端も幹部も、もちろんアポロさまも。
この心地、万能感というんだろうか。今日からなにもかも、上手くいくような気がしていた。

止めどなく流れてくる記憶は走馬燈のようだった。走馬燈のようにと表すのは、まるでアポロさまの勝利を疑っているようで後ろめたい。けれど走馬燈のようにという言葉でしかわたしは表せなかった。
あの人が負けるなんてありえないのに。
我々に噛みついてきたじあの子供も、時期に地に這いつくばる。その喜びに大きく息を吸い込んだ。

刹那、静寂が訪れた。わたしの耳が壊れたんじゃないかと思うくらいの静寂が。ラジオは、途切れたのだ。


「おい、嘘だろ……」
「……そんな…」


静寂の中から伝えられる無惨な結末を、誰もが理解しようとしなかった。
考えることを拒否しても、一瞬で現実は距離を詰めてくる。息絶えた放送の代わりに耳をつんざいたのはコガネシティ中に鳴り響く警察のサイレンだった。

まさか、そんな。イヤな汗が滲みだしてくるのを感じながら視線を走らせたラジオ塔の最上階には、あの人の姿はない。代わりにただ一人のトレーナーと、アポロさまのものではないポケモンが薄水色の窓ガラスの中にあった。


「いやっ、アポロさま……!」


腰のモンスターボールを取る。
忌々しい子供のことも、帰ってこなかったサカキさまへの少し憎い気持ちも、無へと帰ろうとしている計画のことも、その場で打ち崩れた先輩も散り散りになっていく仲間のこともわたしの頭には無かった。


「バシャーモ、アポロさまの元へ!」


ただ、貴方だけが心配だった。