fool and stubid




気を抜けば視界がブラックアウトしてしまいそうだ。体の中、サイレンの音と鼓動の音のふたつが高く高く打ち鳴っている。動揺とそのうるさい音のせいで、五感すべてが揺さぶられ、悪い酔いに捕まってしまったように気持ち悪さでいっぱいだった。
けれどその目の回りそうな感覚の中でもチラつくアポロさまの背中が、わたしを駆り立てる。そして叫ぶように指示を下すのだ。


「バシャーモ、もっと早く!!」


バシャーモの脚力を利用して、コガネのビルからビル、壁から壁へ跳躍する。下から昇る気なんてさらさらない。バシャーモをラジオ塔を中層に直に飛びつくよう指示を出してわたしはアポロさまを目指した。


「バシャーモ、なるべく上の窓を狙って! ブレイズキック!」


高層階用の丈夫なガラスでもバシャーモの強烈な蹴りにはかなわない。彼の攻撃は突き刺さるように命中し、わたしたちはラジオ塔へ侵入した。


「アポロさま! どこですか、アポロさま……!」


譫言のようにあの人の名前を呼びながら、ところどころにバトルの形跡が残る無人の通路をもつれる足で走る。
何度か角を曲がったところで、ふらつくその人を見つけた。


「アポロさま!」
……」


Rの文字が刻まれた服には大した破れも汚れも無い。怪我はないんだと分かって、たちまち足から力が抜けていく。思わず壁に手をついた。


「良かった……! ランスさまはどうしたんですか? アテネさまは? ラムダさまはどこに?」
「皆、逃げましたよ。残っているのは私と、おまえくらいです」
「無事で良かったです。さあアポロさまも逃げましょう、早く!」
「結構です」


けれど、アポロさまの反応は、階下に警察が迫っているときのそれでは無かった。もっと冷めた、薄味のわずかな表情が返ってくる。


「何、言ってるんですか?」
「おまえこそどうして来たのです」
「逃げるために決まってるじゃないですか!」
「おまえは状況が分かっていないのですか? ロケット団は再び解散しました」
「それがなんだって言うんですか!!」


状況を分かっていないのはアポロさまだ。
早くしないと、わたしたちは捕まってしまうというのに。

アポロさまはあの子供とのバトルを終えたばかりなのだ。警察どもだってポケモンを使ってくる。傷ついたデルビルやヘルガーでは逃げきれない。

そう、子供……。上にはアポロさまを負かした子供がいる。もし、アレが降りてきたら。考えて冷や汗がドッと溢れかえった。わたしは勝てるだろうか。アポロさまが叶わなかったのに?
見知らぬ子供への恐怖が足下から這いあがってきて、すぐにここで立ち止まっているのが怖くなった。
だめだ、上にいる敵のことを考えてはいけない。恐怖を覚えるより前に、遠くへ逃げなければ。
それに勝てなくても良い。この人を無事に逃がすことだけがわたしの使命だ。


「とにかく、今は逃げましょう! このバシャーモなら、空は飛ばずに移動できます」


焦るわたしを余所に、なぜかアポロさまはうっすらと微笑んでいる。


「逃げるなら一人でいきなさい」
「なにを言ってるんですか……!」
「おまえは自分のことだけを考えれば良いのです。大丈夫、あとで必ず合流しますよ」
「……っ!」


今までわたしは何も言わずにアポロさまについてきた。アポロさまを一番に信じて、疑ったことは無かった。でも、この嘘ばかりは見過ごす訳にはいかない。
思わず敬語も忘れて口走る。


「アポロさまのばか!!」


その手足に逃げる意志がないのはバレバレだ。

とにかく今は一刻も早く逃げないと。
いつもはこの人が触れられるのを少し怖いと思っていたくせに、火事場のわたしは大胆にも彼の腕をつかんだ。歩く意志が無いアポロさまを、半ば引きずるようにしてめぼしい窓へ駆け寄る。


「バシャーモ、ブレイズキック!」


もう一度、窓を壊させる。
粉々に砕け散ったガラス。窓の風穴からは騒がしい外の様子がなだれ込む。
道を埋め尽くす人。ラジオ塔へなだれ込む警官の黒い波も見える。騒々しいコガネシティの空気。この人の波を越えて本当にわたしたちは逃げられるのだろうか。自分が追いつめられているのを感じてぞくりと鳥肌がたった。


「バシャーモ、どう? わたしたちを抱えて向こうのビルに飛べる?」


案の定、バシャーモは沈黙した。わたしも彼のトレーナーとして分かっていた。
人間を二人抱えさせるのは無理があるということ。ラジオ塔がバシャーモでも降りていくには不安を覚える高さであること。それに警察から逃げきらなくてはいけないのだ。

ならば。


「お願い、とにかくこの人を逃がして。わたしは……なんとか合流するから」


とにかくあがくしかない。バシャーモにアポロさまを預ける。人間二人を抱えられないのなら片方を諦めるだけだ。

行って、と命令を下したというのに、バシャーモはピクリともその場を動かない。
窓から飛ぼうとはしないのだ。


「バシャーモ! 早く行って!」


何を怖がっているの。苛ついて後ろから押しても、彼は動こうとしなかった。睨みつけたバシャーモは真剣な目をしていて、視線から鋭く刺さった彼が伝えたいことにわたしは息を飲んだ。


「お願い分かって! やるしかないの……!」


わたしを捨てたくないと思うのなら、バシャーモは飛ぶしかない。二人を抱えて。どんな無茶でも、どんなに危険でもやるしかないのだ。戸惑えば未来がかき消える。
この子には状況が分かっているらしい。目の中に覚悟を見つけて、わたしも腹をくくった。彼の腕にしがみつくとすぐさま急激に空へと引っ張られる。

バシャーモと同じ前だけを見つめれば、ラジオ塔、コガネシティ、見知らぬ人間、警察が真逆の方向へ吸い込まれていくように遠ざかっていった。









逃げ込んだのは深い森だった。現在地なんて気にする暇が無かったけれどコガネシティ近くの森となれば地図を開くまでもない、ここはウメバの森だ。
町の喧騒は遠く、光の少ないこの森でようやくわたしたちは息をついた。


「アポロさま」


その人は目をつぶっていた。木によりかかる、というよりはもはや木と同じ存在になろうとしているんじゃないか。そう見えるほどアポロさまの様子は冷たさに満ちていて、ロケット団のボスとしての威厳も今は姿を隠してしまっている。
わたしの息切れだけがこの森でうるさく鳴いていた。

返事は無い。アポロさまはまだ、ラジオ塔での敗北に意識をとらわれたままだ。今もすべてを諦めた表情をしている。眉間に刻まれた皺はピクリとも動かないままで、アポロさまの存在は刻々と樹木に近づいていくようだった。
わたしは眉をしかめた。そうすれば涙腺がしまって涙をこらえられる気がした。


「アポロさま。わたし、周りの様子を見てきます。何かあったらバシャーモに。彼なら逃走に役立ちますし、アポロさまの言うことはよく聞くように言ってあります」
「要りません。私のことなど、放って置いてください」
「……っできません」


乾いた唇がぎこちなく紡ぎ出した拒絶に、わたしは食い下がった。
ほとんどはじめてのわたしの噛みつきにアポロさまは特段反応しない。
うつろな視線が、気だるい動きで上の枝々へと矛先を変える。


「なぜ私を助けたんです」


ポツリともらされた言葉は半分、わたしじゃない何かに向けられていた。


「なぜって……」
「私になにを望んでいるのですか」
「………」
「ロケット団の復活はできませんでした。あんな子供に負けた私に、あなたは何を求めるのです……」


なぜアポロさまを助けたか。答えは分かりきっていた。けれど、どれくらいの強さでどこまで正直にアポロさまに伝えたらいいんだろうか迷っていた。この気持ちを全部さらさなければならない、と内心では覚悟しかけていたのだけれど、全くの無駄だったみたいだ。


「もう私には何もありません……」


アポロさまは答えを求めて問いかけてるわけじゃない。自らが助かった理由が知りたかったんじゃない。ただ、助かった自分を恨んでいるんだ。

この人は、今立ち止まろうとしている。

なんて悲しいんだろう。一度だって、アポロさまは何かを呪う素振りを見せたりしなかったのに。今では呪っている。行き詰まりの現状を。
アポロさまはできた人で、出来の悪いわたしみたいな部下相手でも独りよがりなことは決してしなかった。いつだってアポロさまは自分を律していた。けれどすべてが壊れた今、アポロさまはもう自分の誇りを保てない。
ロケット団の解散という挫折を目の前にアポロさまは今や盲目だ。今まで大事にしてきたものだって見えなくなっている。


「まだ私を苦しめたいのですか?」
「そんな!」


そんな意地悪なことを言わないで欲しい。わたしになにも言えなくしてしまうような意地悪を。


「苦しめたいだなんて思っていません。アポロさまが生きていてくれるだけで、わたしは……」


この人がまだ生きている。息をしていて、絶望を受け止め苦しんでいる。気力を失いつつあるアポロさまを前にして、わたしは挫けそうになると同時に感じている。嬉しい、と脳の裏側が叫んでる。

だって真剣だったんだ、この人は。ロケット団の復活のために、ちゃんとすべてを捧げてくださった。
お金や権力が目当ての人間なら、こんなに失敗を嘆かない。他人の期待にくたびれたりなんかしない。突き刺さってくるアポロさまの本物だった想い。アポロさまにのしかかる苦しみが大きいほどに、わたしたちを、ロケット団を大事にしてくれたんだと思えてならなかった。

わたしは衝動を抱いた。この人を抱きしめたいと、初めて恥じらいを忘れるくらい強く思ったのだ。
想いのままにのばした手は、すぐに払われた。


「嘘を吐いてはなりません」


嘘じゃありません。けれど信じてもらえない言葉を叫ぶ勇気が、わたしには無かった。



「……アポロさま、その団服を脱いでください」
「………」
「この服は目立ちます。今は捨てましょう」
「………」


返事が無い。無視をされているような気もしたけれど、きっと耳には入っているんだろう。わたしは無理矢理アポロさまの服に手をかけて、団服を彼から取り上げた。
苛立ちをぶつけるようにわたしも団服を脱ぎ捨てた。黒いのが、アポロさまだけに許されていた白い団服の上に被さった。身を隠すために脱いだ団服。わたしのと、アポロさまのが地面でもつれながらくたびれている。
急に目頭が熱くなる。大事なものだ。なによりも心を武装させてくれた戦闘服はこんな風に捨てて良いものじゃない。けれど今は、この服とともに自由を共倒れにさせちゃいけない。

まだ、整わない息の勢いに任せてわたしは下した。


「バシャーモ、燃やして」


命令のまま、わたしの居場所がロケット団にあるのだと、証明してくれるそれに火が点る。布じゃない、染料の燃える臭いが鼻や目を突いて、わたしが涙腺にかけた強がりは飴細工みたくぱっきり折れた。
泣いてなんかいられないのに。拭うように擦ったのだけれど目元はもっと痛く熱くなった。

燃やされる団服。便乗するように、わたしはほんの少しだけ泣いた。
これからどこへ逃げればいいの。いったいいつまで頑張ればいいの。それは誰も知らない分からない。
誰か助けてくれないの。ああみんなは無事なのかな。みんなに会って、アポロさまが無事であることを伝えたい。
手持ちも回復させなきゃ。ポケモンセンターには当然行けないだろうけど、どうにかアポロさまのヘルガーたちだけでも回復させなくちゃ。
でもまず、お腹が空いた。のどが渇いて痛い。そうだよ、何かとらなくっちゃ。何か、体を温めるものを。

それから、それから……。次から次へと浮かんでくるのは暗雲立ちこめる"これから"の想像。
失ったものはたくさんあって、取り返すための道はわたしが探さなくちゃならない。全部、わたしがやらなくては。逃げる気配の無いアポロさま、生きていることを恨んでしまうアポロさまを見てそう思った。

かじかむ体はマイナス思考の糸に締め付けられて、ますます動かなくなっていく。

バシャーモの猛火で瞬く間に炭になった団服。亡骸に感情を抱けばますます涙が止まらなくなる気がして、感慨なく、すぐに土を被せた。火の色で人に見つかるのも怖かった。鼻を水っぽく鳴らしながら愛着のあるそれを燃やし埋める。まるで、お葬式をしているような気分になった。

どうして報われないのだろう。どうして野望は叶わなかったのだろう。
綺麗事で片づく世界に生きているわけじゃないとわかっているけれど、そう思わずにはいられなかった。


「ありがとうバシャーモ、移動するよ。アポロさまをお願い。……アポロさま、場所を変えます」


湿っぽい考えを振り切って、少しでも強く振舞っていたいわたしの声は硬く割れそうなほどに強張っていた。