fool and stubid


差し出した皿が払われ、中身はべしゃりと土に混じって食べ物ではなくなった。せっかく入手した食料なのに。水分が養分が土に染みていく。その横で肘をついてうずくまり、プラスチック製のフォークがカラカラと地面の上で踊る音を聞きながら、わたしはアポロさまの言葉を噛みしめていた。


「どこかにいけ」


また同じことを言われる。
いつもアポロさまが使う言い聞かせるような言葉じゃない、明らかな拒絶。
変装のために被った帽子から覗く視線は凍っていた。


「何度言ったら分かるのです。目障りです」


視界から出ていけと言われたけれどわたしは動かない、いや動けないでいる。
砂利混じりの地面についた肌が痛みを訴えてくる。この場に縫いつけられたようにわたしは固まっていた。

アポロさまの拒絶は今に始まったことではない。こんなやりとりはずっと続いていた。
ただ、アポロさまは口が達者なので困る。頭の良い人はいろんなやり方で人を傷つけられるのだと、わたしはこの数日で思い知った。


「おまえに期待しすぎたようですね。まさかつけあがるとは」


アポロさまは喉の深奥から這い出るような声であざ笑った。


「思い上がっているのでしょう。私が優しくしたから」
「思い上がってなんか」


下劣なものを見下す視線に、体の筋という筋が強ばる。からからに乾くのどをかばいながら出した声は文字にならない、情けない喘ぎだった。


「説明しなければ分からないのですか? 言葉のままです。出ていけと言っているのに食い下がるのは、おまえが私に期待をしているから。アポロと自分は特別な間柄なのだとつけあがっているからに違いありません。おまえを可愛がったときもありましたが、まさか、利用されているのが分からないほど間抜けだったとは。もう私に関わらないでください」
「い、嫌です!」
「気持ち悪い女ですね。期待させてしまったようで。呆れを通り越して申し訳ないと思いますよ」
「待ってくださいアポロさま、わたしは!」
「私を助けたいとでも言うのですか? くだらない義理です。気味の悪い情けです」
「違います! 誤解です!」
「なら、即刻立ち去ってください。放っておいてくれと言ったでしょう……」
「できません」
「おまえはそればっかり言いますね。これだから頭の悪い馬鹿は嫌いです」


ため息とともにいっそう深くなった顔の皺。
わたしは分かっていました。いつも自惚れてはいけないと言い聞かせていました。そしてついてきた理由はあなたに優しくされたからじゃなんだと、伝えたい。なのに困らせるな、と暗に含んだ台詞でわたしは何も言えなくなってしまう。この人を困らせたくない、はいつもわたしの根本にある想いだ。


「おまえを見たとたんに分かりましたよ。こういう人間は利用しやすいとね。頭は良くない、劣等感が強い、プライドは低く右に倣えを良しとする。なのに常に飢えていて、想像力に欠けた偏った欲求の持ち主で、おまえなら生涯、私の邪魔にはならないと思いました。だから飼いました」


ひとつひとつの言葉が先の太った針みたいだった。わたしの肉がきちんと飲み込める程度の凶器。するりと胸に刺さって痛い。そうすべての言葉はたやすく飲み込めた。アポロさまの表現はすべて的確だ。言葉が上手に真実を射抜くから、わたしの足らない脳も理解する。
押し寄せてきたなじりは決して大げさじゃない。わたしが持っている愚かさもそのまま閉じこめてある。それに、気ままにかまう主人と、嬉しくしっぽを振るわたし。二人の間柄は"飼いました"という5文字で表して、満ち足りる。


「すがるなんて、愚かな奴です。確かに私はおまえで遊びました。私の横に置くことを楽しみました。けれど何もかも忘れてください。今日でおしまいです」


涙が生まれてしまいそうなくらい視界が潤む。
壊れて悲しくなるほど立派な関係じゃなかった。ただ、この人の失望をかってしまったということが悲しかった。頭が足りないなりにうまくやっていたと思っていたのに。


「消えろ! どこかへ行け!」


痺れを切らしたようにアポロさまが息を鋭くした。再度言われた言葉にやっぱり、わたしは動くことができない。生気の削がれた頬はまるで細長い石みたいに強ばっている。団服の代わりにまとった黒衣から覗く手首は灰色にくすんで、血が通っていないみたいだ。生白い顔色のアポロさまを放っておくなんてことは、わたしには出来ない。

首を横に振るとチッと舌打ちが落ちてきた。


「帰れと言っているのです。こんな男についてきて何になるというのです。親が泣いてますよ」
「………」


どうにかわたしを追い払おうとアポロさまは親という言葉を取り出した。
けれど、アポロさまは忘れてしまったみたいだ。わたしには親なんて言葉を効力を持たない。帰る場所なんてわたしには無いに等しい。
昔、話したというのに。わたしの親のこと聞いてきたのはアポロさまだった。けれどもうその時の話題は忘れられたのだからどうでも良い情報として破棄されたのだろう。


「アポロさま。わたし、分かってますから。ちゃんと理解しているつもりです」


だから、言わないでください。分かっていることを言葉にしないでください。悲しみを、決定的にしないでください。
身の程は分かっている。すべてを飲み込んで、わたしはあなたのそばを選んでいるとどう伝えたら良いのだろう。
口の開閉だけはできると言うのに、肝心の言葉が浮かばない。さっき曖昧な関係を"飼いました"と上手に表したアポロさまのことを、混乱する脳でわたしは崇めた。どうしたらあなたみたいになれるんだろうか。


「知った風な口を聞くな」
「……ごめんなさい」


また不快にさせてしまった。
鼓動と同じ早さで打ち鳴る痛みで、悟る。このあたりがわたしの限界で、もうすぐ耐えきれなくなって泣いてしまうだろう、と。
泣くな。泣いたらウザいぞ、わたし。これ以上アポロさまを不快にさせるつもりか。
そう思ったらここにはいられないと、ようやく思えたのだった。


「何かあったらバシャーモに」


それだけを遺していったわたしを追いかける声は無かった。









元はといえばわたしの片思いで、繋がったことさえ無かった。だから今、気分が汚い青色に塗り尽くされていることが不思議だ。何も失ってなんかないのに、失うものなんて持ってないはずだったのに。わたしは悲しみに溺れている。


「わたしは、アポロさまが、好きなんです」


散らかる木の葉を踏みしめながら誰かに伝えるためじゃなく、ただ確認するためだけにつぶやいた。
たくさんの否定を突きつけられて、ただ残って浮かび上がってきたのがその気持ちだった。

掲げた野望が崩れて、帰りたい場所が粉々に砕けた今、何もかもが不確かだ。全く先の見えない未来に、時々自分がちゃんと立てているのか分からなくなる。
それでもアポロさまへの気持ちはわたしの中で何度も叫びをあげている。道しるべにできそうで、でも頼りない想いだ。

わたしは、アポロさまが、好きなんです。
逃走用に彼の洋服を選ぶとき、感覚がアポロさまの服のサイズを教えてくれた。アポロさまの背中はこれくらいだったはず、と。わたしが1メートル距離をとったとき感じる大きさのまま選べばそれが正解だった。
帽子を買ったとき、少し寂しかった。アポロさま自身を表すような、大好きな髪の毛の色をしばらく隠さなきゃいけない。そこに気づいたらたまらなく逃亡生活が理不尽なものに思えた。


「わたしは、アポロさまが……」


言いかけてやめる。こんなこと繰り返して何になるんだろう。分かる、何にだってならない。愚かだな。
涙が伝った跡がいっそう冷たく夜風を吸い込んで、寒さが這い上がってきて、わたしは思った。泣かなきゃ良かった。

夜と馴れ合い始めたウメバの森は、いっそう残酷な色合いに染まる。
寒さに思わず肩を抱く。体は震えない。バシャーモはアポロさまのところにおいてきて、今やここにたった独りだという感覚が、わたしの生きたいという気持ちを奪っていくからだ。孤独感に生気を奪われていく肉体が体温を保つという体の機能を放り出そうとしているようだった。
木の葉が敷き詰められる地面で良いから寝てしまいたいと思った。

瞼が重い。足も痛い。ゆっくりその場に座り込む。おしりが地面についたなら、そのまますべての力を体から抜いてしまおうと思った時だった。


「あ……!」


暗闇と同化しかけていたそれを見つけ、わたしはすぐにアポロさまの元へと走った。




「どうして帰ってきたのです」


わたしが戻ってくると思っていなかったのかもしれない。アポロさまが吐き捨てた声には冷たい嫌悪感と一緒に驚きも混じっていた。


「森の奥で廃墟を見つけたんです。せめて、屋根がある場所で休みませんか?」
「どうでも良い……」


ふい、と目を背けられる。無気力をもって表された抵抗に、わたしはとっさに地面に飛びついて土下座をした。


「お願いします、お願いしますから……!」
「止めてください、不快です。気持ち悪い」


確かに、土下座なんてやられて気持ちの良いものじゃないだろう。
けれどわたしにはこれくらいのことしか術は残されていないのだった。


「いったいどうしてそこまでするんです。おまえが分かりません。動機が全く理解出来ません……」


動機を聞かれても困ってしまう。
勘ぐられるような深さはわたしの行動には含まれていないのだから。


「だって寒いじゃないですか?」
「………」
「………」


舌打ちが、ぽつりと降ってきた。
わたしは冷や汗をあふれ返させる。何か間違ったことを言ってしまったかもしれない。

けれど結果、眉根を歪ませたままだが、アポロさまはわたしが帰ってきた方向へと歩きだしてくれたのだった。