体が刺しこまれた異物に拒否反応を示している。空っぽの胃の中をせりあがって口の端から、液が漏れ出す。この暗さだし、自分の口元だから確かめるすべはないのだけれど、たぶん、血だろう。味はよくわからない。
わたしの口に伝った血に女はひるんだ。
女の手持ちらしいヤドンにも少し動揺が走ったようだ。
その隙を利用して女の手から刃物を奪う。自分の体により深く、刺し入れるかたちで。
体から本能的に発せられた拒絶反応。それに逆らうという行動は気が違ってしまったかのような行動だったと思う。
命を削る、自殺行為だったかもしれない。けれどこれがわたしの選択だ。わたしは、なによりもアポロさまの安全を考えていた。
「いやああああ!!」
わたしじゃなく、彼女が先に悲鳴をあげた。
その女は顔を青白くさせて腰を抜かして退いていく。主人が刺されたことに気づいたバシャーモが羽を怒りに燃えさせればヤドンもおののいて女とともに退却していく。
見知らぬ女のことなんてどうでもいい。立ちたかった。立ってアポロさまからわたしはこれから逃げるのだから、立ちたかった。
けれど脳髄が痛みに嘶く。溢れ出る血。
浮かんでは流れ去る記憶の波。今度こそ、死に際に走馬燈のような明かりを見た。
明かりの中に投影されているのは、わたしの生い立ちだ。
生きるためにトレーナーになったという今までが急に思い出された。
わたしは孤児で、帰る場所は両親を亡くした子供を受け入れる古びた施設だった。
裕福な施設ではなかった。だから年齢が十に近づくと一人で生きていく道が示された。それがポケモントレーナーという生き方だった。
誕生日。10歳になったから、もうあなたは出ていかなければならないと、施設の人間に告げられた。と同時に渡されたのはアチャモだった。
ポケモントレーナーになればいろんな、トレーナーを支援する施設が使えるようになります。トレーナーならたくさんの町で受け入れてもらえます。だからポケモンを飼って、生きなさい。
問答無用だった。わたしはポケモンを好きでなかったのに。施設から居場所が無くなり、研究所からもらったアチャモを抱え、途方に暮れたものだ。
生きるためになったポケモントレーナーだ。強くなりたいだとかは、思えなかった。夢を抱くこともない。視線の合ったトレーナーとのバトルに期待したのはいつだって、賞金がいくら貰えるか、だった。だから真剣にトレーナーとしての道を行く人間からたくさんの怒りを買った。
ホウエンにわたしの居場所は無かった。
わたしを無垢に慕ってくれたアチャモ。いずれワカシャモ、バシャーモに進化したが、それでもわたしは彼を心から愛することが出来なかった。
バシャーモという命は透き通った茜色に燃え輝いていて、わたしを少しポケモン好きにさせてくれたが、だからといってわたしにはトレーナーという生き方は合うわけではなかった。むしろバシャーモの美しさがわたしの惨めさを際立たせるようだった。
いつだって奥歯が噛み合わないような、違和感を感じていた。
欲しくも無いポケモンの知識を手に入れて、空しくわたしの10代は燃え去った。
けれど。故郷のホウエンから遠く離れた、このジョウトで、わたしは見つけた。わたしはロケット団に出会った。本当に帰る場所を見つけた。帰る場所のある暖かさを、わたしはようやく肌で感じた。嫉妬も歯ぎしりも無しで噛みしめられたのだ。
正直になって生きられる場所を見つけ、そしてわたしはある人を、好きになった。
見た目は少し恐ろしい人だった。けれどその人のために働くことで、自分がポケモントレーナーになったことにようやく意味を見いだせるようになった。
わたしという人間が息をし始めた。全ての過去に意味を持たせてくれたのはたのは貴方だ。貴方のおかげなんです。アポロさま。
「!」
呼ばれている。強く。
視界がぶれる。
戦闘不能になったヤドンと、糸が切れたように動かなくなっている女。
視線をあげてアポロさまを見ようとしたけれど、視界の上だけに闇のフィルターがかかったようで見えない。ただ声が聞こえた。
「生きてください、死なないでください!」
アポロさま、まさか、わたしの命が長くあるようにって思ってくれるんですか?
わたしを抱く貴方の手が雪山に入ったときのように震えているから、まるでアポロさまがわたしを好きみたいだ。
「私がおまえを必ず生かします。だから……!」
わたしが貴方を想うように、想われている気がした。
ああ、でも、やっぱりわたしの方がアポロさまのことずっとずっと好きだろう。
暗闇に落ちる瞬間のわたしは、幸福な自惚れで満ちていた。
わたしの体の形に膨らむシーツ。薄暗い部屋だが、明るく感じられた。乳白色を塗りたくられたように明るく内側から光っているようなぼやけ方をしている。何もかも。
白い天井から順繰りに横を見るとランスさまの美しい横顔があった。前から脂肪の少なかった顎のラインがこけて、より綺麗になっている。何か手元の書類に静かに目を落としているランスさまを、ぼんやりと見つめれば、視線に反応してランスさまは顔を上げた。
「ようやく目を覚ましましたか」
「あ、アポロさまは……?」
「はぁ……。第一声がそれですか」
大きく肩を上下させてランスさまはわたしを馬鹿にする。
「もっと他に言うことは無いのですか。ここは何処かとか、久しぶりに会った私に挨拶は無いんですか」
「アポロさまは……?」
「アポロなら先ほど仮眠を取りにいったと思いましたが今はどうしてるか」
「無事、なんですね?」
「ええ」
「良かっ、たぁ……」
バサリ、とランスさまがサイドテーブルに書類を叩きつける。驚いてランスさまを見ると、明らかに見下す視線と目が合ってしまった。
「な、なんですか?」
「大したこと無い傷で長く眠り過ぎです。馬鹿が」
「………」
せっかく再会できたというのに、この上司は辛辣だ。
あんぐりと口をあけていたら、チョップを落とされた。
なんというか、容赦が無い。
「そんなに怒ることですか……?」
「ええ。大っ変面倒でしたよ。貴方ごときに時間をとられる腹立たしさ! 命令だから従いましたが、本当にこんなくだらない仕事は死んでもやりたくなかった!」
「……ごめんなさい」
「アポロを呼んできます」
「え、ええ!?」
「何です。文句ありますか?」
「あります! 来てもらうなんて、そんな……! わたしが行きます! 今、起きますから!」
起きあがろうとシーツを握った。そこでわたしの動作は止まった。
腹の辺りひきつり、痛み、とても起きあがれない。
ガッツだ! とっさにわたしは唱える。ガッツで乗り越えろ! と無理に体を動かそうとすればなんということだろう。今度は足がつり始めた。わき腹と足、両方の痛みに耐えていたら、ランスさまからまた脳天へチョップ。
「お馬鹿」
「うう……」
不機嫌そうな顔。
刻まれた眉間のしわは深くって難攻不落の砦みたいだった。
ふん、と鼻を鳴らしてランスさまは部屋を出て行った。程なくして見たかったような、けれど目前にすると怖くなってしまう大好きな人の足音が近づいてくる。清潔な服を着て、また短めに切りそろえられた頭でアポロさまは現れた。
「体の調子はどうですか」
話しかけられる。体の奥からかーっ、と熱が上がってくる。その熱を食べたように、怪我の痛みが少し息を吹き返してわたしの体は痛んだ。
「え、あ……大丈夫です」
「嘘はやめてください」
「あの、本当に大丈夫なんです」
「………」
「痛いけど、慣れてきましたし。むしろ復讐したいくらいです」
「復讐? 誰に?」
「あの女。ヤドンのトレーナー」
「………」
「あの女がいなければ、まだアポロさまは」
「あの女の行方を、おまえは気にしてはいけませんよ」
「違うんです。あの女をどうしたいという訳じゃないです! でも、あいつさえいなければわたしはアポロさまにご迷惑を……」
「馬鹿を言わないでください」
また、馬鹿って言われた。
「………」
「………」
沈黙が訪れる。
アポロさまは多くの言葉を抱えた表情をしていて、必要の無い沈黙に少し苛立っているようだ。笑むでもなく細められる瞳は、わたしを哀れんでいる。
こらえたものを吐き出したそうなアポロさま。けれどわたしの怪我を見てそれを噛み締めた。一瞬の仕草にもうわたしはいたたまれなくなった。
「アポロさま。わたしは大丈夫です」
わたしはアポロさまにとって、馬鹿にするくらい都合の良い存在でいたい。哀れまれ遠慮されるのは嫌だと思うとそんな言葉が飛び出した。
「だから何かおっしゃりたいことがあるのでしたら、言ってください」
「……ええ、話したいことがたくさんあります」
「なんですか?」
「参りましたね」
アポロさまは眉を甘くひそめる。
「また私はロケット団の幹部として動くことになりました。あなたが眠っている間に、これからのことを考えました。ロケット団がこれから何をしていくべきか。我々の道を皆と議論したのですよ」
ごくり、と息を飲む。下っ端として覚悟をして聞こうと姿勢を正す。
アポロさまはそんなわたしを鼻で軽く笑った。
「でもまずは、確認させたいことがありまして」
「確認したいこと、ですか?」
「はい。何度も言いませんよ。おまえが私を大層好きなように、私もおまえを愛していますよ、」
アポロさまの告白は、わたしに受け入れの体勢を取らせる前に性急に届けられた。言葉を失う。
「まだ牙の生えない子犬を飼っているような感覚でした」
「犬、ですか」
「ええ。たまにふらりと部屋を訪れる子犬。主君への忠誠は上々でしたしね。何であれ、おまえは不都合を起こさなかった。裏でどうだったか知りませんが、面倒を持ち込むこともなかった。そこがとても好きで、その程度の好意を持っていました」
過去でも、好意を持たれていた。どんな形であれアポロさまの好意がわたしに。耐え切れなくなってわたしは下を向く。
「けれどね、。おまえに私は願いました。生きてください、死なないでください、と。覚えていますか?」
「少しだけ。でも……」
「でも?」
「幻聴だとばっかり。死にそうな自分が勝手に作った、妄想だと、わたしは……」
「妄想ではありませんよ。残念ながら」
アポロさまがわたしを見留める。嬉しいという言葉を越えた痛みのような心の揺さぶりがわたしののどを締め付けて、くっ、という泣き声になる。ポタポタとシーツが雫の形に濡れた。気づくとその背にアポロさまの手のひらが触れていた。驚いてまたのどをひくつかせるわたしを、落ち着かせるようにアポロさまの手は優しく動いた。
「みっともなく叫んだときに、相当覚悟したのですよ。おまえを背負って生きることを。例えおまえがどのような弱者でも構わない。役に立とうとそうでなかろうと関係ない。おまえになら迷惑をかけられても良いと思ったんです」
静かなキス。儀式的な唇の張り合わせが、二度目となるキスが落とされる。
「さて。これからの話をしましょう」
そのわたしに触れていたアポロさまの唇が弧を描き、柔らかく笑む。けれど薄い唇には不敵に未来が乗せられている。
これからわたしはアポロさまとロケット団の皆が決めた未来を耳にすることになる。
ロケット団は復活の道を選ぶのか。それとも皆散り散りになってそれぞれの人生を歩むのか、どちらなのだろう。
どちらもありえる選択肢だ。我々は不可能と思える壁にぶつかった。子供という滑稽な壁に。
未来に関して確かなことがひとつだけある。わたしの人生はこの人と共に在る。それだけはくつがえさせない絶対だ。
おしまい