こうしていると、あの時を思い出す。
秋の日だった。よく晴れた日。僕はこっそりとを鈴音の小道を連れ込んだ。僕らは薄着のまま見事な紅葉にはしゃいでいた。
ここに僕ら以外誰もいないのを確認して、僕は覚悟を決めたのだった。
『、ちょっと来て』
『なぁに?』
駆け寄ってきた。手にはいっとう綺麗な形と色を持った、もみじが握られていた。吸いつく髪の毛ごと、うなじを捕まえる。そのまま彼女のおでこに自分のをあてた。
『どうしたの、マツバ?』
『いいから』
鼻と鼻がくっついてしまいそうな距離。断固とした口調で言うと、自発的に彼女がまぶたを下ろした。それを見て僕も視界を閉じる。
目をつぶっていると、の呼吸がよく聞こえた。彼女の浅く繰り返される息の音と、紅葉がはらりはらりと落ちてくる音に僕らはまつげを揺らした。気持ちの良い静寂の中、僕は強く念じた。強く強く。僕の真剣さに飲まれては、ピクリとも動かず僕の念を受け取った。
やがて、離れたとき、僕らはお互いに頭に小さな紅葉をかぶっていた。それくらいの時間を僕たちは捨てていた。僕らの混ざりあった汗を秋の風が乾かした。
『……なに?』
『おまじないだよ』
『ふーん。なんのおまじないなの?』
『それは……』
僕には笑みをかたどることしかできなかった。
まじないの内容には、僕がに抱く特別な感情がいっぱい込められていたからだ。
『ひみつ』
言えやしなかった。
この千里眼で君の心が読めなくなるようにした、なんて。
「大丈夫だよ」
布団の中。外界で傷ついたらしい彼女は、愛を求めて僕の腕の中におさまる。僕らは大人になった。けれどこうして抱きしめあっていると、本質は出会ったことからまるで変わっていないことがわかる。
「もうイヤ。人間って醜い。嫌い……」
「くだらないヤツのために、人嫌いになる方がもったいないよ」
「それはわかってるけど、今回の件でヤんなっちゃった。あんなヤツ、だいっきらい!」
ぎゅう、とは腕の締め付けを強くした。そのやわい圧迫感に僕の顔はゆるむ。
の髪は今でも、吸いつくような麗しさを保っている。けれど鼻を近づけると、あの時には感じなかった甘やかな香りがした。彼女の芳香で僕は胸がしめつけられるようになって、彼女ごとその胸を抱えた。
鼻を押しつけたせいで、いっそう甘い匂いが広がった。
ぬるく、だるい抱擁。シーツも空気も僕らの温度で熱くなる。
こうしてお互いの息を交わらせていると、あの時を思い出す。おでこをくっつけあい行った、密かな儀式を。
なんのおまじないなのと聞かれたとき、僕は答えられなかった。その頃はまだ、とっさの嘘になれていなかった。だから、おまじないの内容はひたすら笑顔でごまかした。
今なら言える。僕がをずっと好きでいるためのおまじないだよ、と。
「安心してマツバ。マツバはまだ好きだから」
その台詞で、男もふふ、と笑ってしまうときがあるのだと知った。
彼女の心を読めなくした。
それは君を嫌いになるのが怖くてかけた、まじないだった。
おまじないのおかげかは分からないけれど、今でも僕の一番好きな人はのままだ。
恋を自覚するより前から、が好きだ。
「、大丈夫だよ」
今、彼女はどんな不安を抱えているんだろう。渦巻く感情は何色だろう。
昔かけたあのまじないのせいで、その感情をそのまま見透かすことはかなわない。
だから僕は努力する。
の不安をひとかけらでも、ほどけますようにと。
僕を好きだという今の言葉が嘘か真か。真実なんて僕には分からない。
それでも今でもその呪いを解こうとは思わない。
秘密を持つ君が好きだ。君が少なからず持っている卑しさも嘘もすべて丸ごと好きなんだ。
そして僕は、ただの人間として君のためにあがける男でありたいのだ。