病院は生まれつき体の丈夫なトウキには縁の無い場所だった。
風邪はひいたことが無い。故に「おまえはバカは風邪をひかないという言葉の証明書だ」と友人から何度言われただろうか。
病院にお世話にならなくちゃいけないようなケガも負ったことが無い。
毎日の特訓で切り傷擦り傷は当たり前だったが、どれも他人に治療をお願いするレベルではなかった。全ての傷は唾を塗り付けておけば、自然と消えていた。
そんなトウキにとって、ほとんど初めての病院。待機するトウキの顔色は真っ青だった。
ふるえる膝をふるえる手で押さえながらトウキは思う。
これが自分のための訪問だったら、こんな思いはしなくてよかったのだろうか、と。
トウキが待っているのは、。昨年結婚したばかりの愛するお嫁さんだ。
ある日、本島からトウキは幾度かのお見合いの果てに嫁としてひとりの女性を連れて帰った。それがだった。彼に支えられてムロの船着き場に降り立った彼女を見て、誰もが驚いた。トウキの横に立っていたのは、豪快な青年であるトウキに不釣り合いなほど、か弱そうな女性だったからだ。
ミルクのように白く、まるで焼けていない肌。そこから透き通ってうっすらと現れる血の色は摘みたてのヒメリの実のように鮮やかな赤色。横顔も服装も体のラインまでも、人形のように整えられた彼女は、トウキばかりでなくムロタウンにさえ似合わない人だった。
トウキ自身も思っていた。自分が彼女を娶れたのは、幸運以外の何ものでもないと。
お見合いの席、向かい合った瞬間に見惚れた女性がまさか本当に、自分のものになるなんて。
見合い婚だとは思えないくらい、トウキとはお互いに惚れあっていた。
溢れる愛のまま容赦なく抱きつくトウキ。それに押されながらどうにかトウキを受け止めているの姿は島のものなら誰でも見たことがある光景だった。
微笑ましいが、力の配分が両極端に振れたアンバランスなおしどり夫婦。
あれじゃいつかきっと奥さんの方がケガをする。
そんな周りの心配が見事的中したのはつい、昨日のことだ。
“トウキが奥さんを骨折させたらしい。原因は、強く抱きしめすぎたから、だそうだ”
だからこの一報はムロタウンという狭い町の中で、はやりことばよりも早く伝った。
そして報せを聞いた瞬間、町民もジムトレーナーも釣り人も、あの夫婦を見たことあるものは一様に苦笑混じりでこう言った。
“いつかやると思ったよ”
を待ちながら、トウキは後悔の念に苛まれていた。
初めて彼女を見たときから儚さのあまり、自分では壊してしまいそうだと思っていた。
けれどまさか現実になるとは。
しかも、がここにいることを確認したくて起こした行動が、裏目に出るなんて。
外界とは明らかに違う、神経質な空気に潔癖な室内の匂いが落ち着かない。一刻も早く、彼女の無事な顔が見たくて、トウキはじっと診察室のドアが開くのを待った。
が痛みをこらえていると思うと、自分が傷つくことよりもずっと胸が痛い。
トウキの意識を引き戻したのは、ようやく鳴った軽やかなヒールの音だった。
「トウキ」
「……!」
「お待たせしました」
白いギブスで覆われた腕を抱えながらも、が暖かな笑みを浮かべる。
また、トウキはやるせなくなった。
「大丈夫か?」
「はい。治療が大げさすぎるくらいです」
彼女が昨日と変わらず笑んでも、トウキの心は晴れなかった。
痛いはずのが見せた明るい笑顔がこたえる。そんな風に笑わせてしまうくらいなら、思いのまま怒られた方がマシだ。
身体的な痛みには強いトウキの、一番弱い心の部分をの笑顔は刺激した。
「トウキ、わたしは何とも思ってませんよ?」
「………」
「怒ってもいませんし。だからこっちを見て、トウキ」
もう一度、トウキ、と名前で懇願される。
渋々顔を上げると、濡れたようなまつげをたたえる目がこちらを見ていた。
「わたしにとっては、そうやってトウキに遠慮されてしまうことの方が悲しいです」
「………いつかやると思ったと、みんなに言われたよ」
自分でも思っていた。いつか、は壊れてしまうのではないかと。
今生きているとしてもいつかの終わりを垣間見させる彼女の儚さ。その恐怖を紛らわすための行為が抱擁だった。
でももう、そんな感情に流されるのはおしまいにしなければ。
「みんなから前々から手加減した方が良いと言われてた。予測できた事態なのに、オレは……」
「そんな顔しても、この指輪は返しませんよ」
下がり眉の笑みで、は言った。ため息混じりの言葉は、存外あたたかく響く。
「あなたの手加減の無い愛が、わたしは嬉しいんです」
そう言ったは頬を薔薇色に染めた。
「……やっぱり、大好きだ」
彼女を待っている間、を優しく抱きしめる練習でもするつもりだった。けれど、効果は期待できないな、とトウキは思った。
あんなことがあった後でも、こらえきれない衝動が浮かぶ。強く触れあいたいという欲求が。
「わたしも大好きです」
愛しさに駆られて、また抱きしめようとした自分を、トウキは叱咤してこらえる。
自分の加減の知らない力では負傷したのだ。同じ間違いを繰り返すわけにはいかない。
指先を迷わせた果てに、トウキは彼女の手を取った。
サイズも柔らかさも、内包する骨の感じも。性差なんて言葉では片づけられないほど、作りの違う手を握る。
これの弱さと強さを知ろう。手の中のものを見つめて、トウキは思った。彼女をよく知った上で大事にしてみせよう。
「おんぶ……いや、だっこの方が負担が少ないか?」
「ええ? 恥ずかしいですよ……」
そう言いながら、両腕を上げた彼女に思わず笑みがこぼれる。自分を求めてくる、その手の中にトウキは自分の首をひっかけさせ、抱き上げた。