呼吸をしよう。息を詰めるデスクワークは一時中断しよう。わたしはだるくマウスを動かして、触っていた論文を上書き保存した。
そのうち自動的にスリープモードへ入るだろうパソコンをほったらかして、戸棚からポケモンフーズを取り出す。窓の外にはわたしを待っていた野性のポケモンたちが詰め寄っていた。カーテンを開けると一気にこの部屋の空気は庭の匂いに入れ替わる。机の上に広げたままになっていた資料や本が風にめくられてパラパラと笑った。
窓の外。そこには御伽噺かってくらいの草木が生い茂っている。
丈のそろった青い芝生。葉がかすれる音がする。日付ごとにかわるがわる実をつける木。今はクラボの実が体の色を濃くしている。
そこに訪れるのはチェリムやミツハニー、スボミーやコリンク。自然の中で生きる小さなポケモンたちだ。
わたしはハクタイに居を構える研究員で、この家の庭の敷地は我が家のものであるが、庭ばかりはわたしがやったものではない。
この庭のすべてはナタネのものだ。幼馴染のナタネが全部、わたしの庭に持ち込んで作り上げたものである。
おなかを空かせたポケモンたちにフーズをばら撒く。緊張に軋む体がほぐれていくようでわたしはひとつ息を吐いていると、喜ぶポケモンたちの後ろを通る、件のナタネを発見した。
「ちょっと」
ナタネがわたしの家の庭に許可無く出入りするのはいつものことだ。けれどわたしは思わず声を上げた。ナタネが少し葉の色が変わっている大木という、また大層なお庭グッズをポケモンに運ばせていたからだ。
「また木を買ったの?」
「うん! あたし、ずっとこのあたりが寂しいと思ってたんだよね。ねえはここに木があって、晴れの日に木漏れ日があったら気持ちいいと思わない?」
「そりゃー良いと思うけど……。ほんとどこまでうちの庭を作りこむ気よ」
「だっての家の日当たりは完璧なんだもん。土も綺麗だし」
ナタネの言い分はいつもこうだ。
ハクタイジムのジムリーダーでみんなの前ではお姉さんらしくしているナタネが、このときばかりは少し甘えたように言う。
「きっといろんなポケモンが喜んで集まってくるよ。エイパムとかがの庭で会える日も近いんじゃないかな?」
「うわーエイパムかあ。わたしなめられそう」
「あたしはエイパム好きだけどな」
「ナタネのせいでほんっとうちの庭にはポケモンが増えたよ」
「どういたしまして!」
得意げにナタネは言うが、わたしの心境は感謝半分恨み半分だ。
こんな豪華な庭のある家なんて根暗で論文に向き合うのが仕事なわたしのキャラじゃないからだ。
マイペースにナタネは自分の作業を開始した。持ってきた木をさっそく植えるべく新たに穴を掘り始めている。絶対にわたしの手に負えない庭仕事をナタネは易々と開始して軽々とこなすから、ナタネはわたしにとって驚異的で専門外の人間だ。なのに彼女との間でいまだ友情が続いているのだから人間関係は不思議だと思う。
楽しそうに土いじりをする横顔。相変わらず楽しそうに庭に手を入れているナタネに、わたしはもうずっと前から呆れている。
「そのうちゴースとかが寄ってきたらどーすんの?」
「げ。それは、どうしようっかなあ……。夜ここに来なければ大丈夫だよね?」
「……知ーらない」
苦笑いするナタネ。彼女のことだから苦手なゴーストポケモンといえども、追い出そうだなんて考えもつかないんだろう。植物を、ポケモンをかわいがるナタネに折れて、わたしはいつも彼女に自分の日照権を明け渡している。
「ねえ、ナタネ」
野生ポケモンたちの様子を伺うと、とりあえずは満腹になったようだ。残ったポケモンフーズを再び戸棚にしまいながら、わたしはナタネにずっとこらえていたことを告げる。極力、なんでもない風に聞こえるといいなと思いながら。
「わたし、仕事の成果が認められて、海外――一イッシュに行くことになったんだ」
ナタネの顔に木漏れ日がさす。今できたばかりの木漏れ日だ。
あまり見たことのないナタネの暗い表情に、わたしの心臓はひしゃげたように不安になった。
「いつから?」
「来週には、もう」
さっきまで軽くやりとりしていたのに豹変した威圧的なナタネの視線が怖い。わたしはナタネに告げるタイミングを失って、今日まで先延ばしにしていたことを後悔した。
「それって、いつまで?」
「あー、正確には決まってない。3ヶ月で戻る予定だけど、研究の内容によってはもっと」
「………」
「あ、安心してよ。しばらくこの家は空けるけどナタネは自由に使っててくれていいんだから。ね、ナタネ。今まで通りにしてて良いんだから、そんな悲しそうな顔をしないで」
「何が今まで通りなの? がいなかったら今まで通りじゃないわ」
やばい。ナタネが怒っている。急激なスピードで後悔が全身にまわって、わたしは首をすくめる。
「一人で行くの? 荷造りはすんだの? どこにお世話になるの? イッシュは強いポケモン多いんだから、気をつけてよ?」
まるで本当のお姉さんみたいにナタネが聞いてくる。
不満げではある。けれどわたしの身を案じてくれているナタネの表情は苦々しいけれど、向けられて苦しくなるものではなかった。
「ナタネの心配には及ばないよ。だいじょうぶ」
「そお? 安心なんてできないよ」
「平気だよ。お土産が欲しかったら先に言っておいてよね」
「別にいらないから。早く帰ってきて。でも悔いは残しちゃだめ。思いっきり研究済ませてきて」
ナタネはめちゃくちゃだなぁ。でもとりあえず、分かったと返事をする。
イッシュの草ポケモン、ヤナップやエルフーンの話題をナタネにしようと思っていた。大好きな草ポケモンの話題ならナタネは喜んで、写真くらいはせがむかもと思ったのだ。そしてわたしのイッシュ行きをナタネは祝ってくれると思っていた。
でも現実は違った。
今まで散々ナタネにわがままを言われてきた。わたしがそれをないがしろにしたことは、実は無い。じめんタイプがくさタイプに勝てないようなものなんだろう。相手がナタネだとわたしはあっという間に白旗を揚げてしまう。
わたしは論文に向き直る。取り組んでいる研究を今のうちに限界まで高めておくことがきっと早くシンオウに帰ってくる唯一の手段だ。
窓は開け放したままにする。そうすると庭にナタネの姿が見えて、わたしの脳と指には適度な緊張とやる気が走るのだ。よし、やりますか。草の匂いに満たされた肺を膨らまし息を巻いて、わたしは風にあおられた資料をめくり直した。