デンジさんが工具を扱う音。デンジさんのジャージが擦れる音。デンジさんが、呼吸する音。
デンジさんの方を見ることなんて出来ないから、わたしはデンジさんの立てる音だけを探っている。
愛する人のそばにいられる。知ってしまった激情はよそに、わたしは淡い幸せを知っている。
ナギサジムのトレーナーがわたしの仕事になってから今までのことを思うと、時間の感覚が分からなくなる。
今までのことがフラッシュの瞬きみたく一瞬の出来事として過ぎたのに、到底書き記せないほどの数に膨らんだ思い出。
ひとつひとつ心に留めた中の、一番最初の記憶は、やっぱり、ジムリーダーのデンジさんを好きになったことから始まる。
人生初めての恋は、コンパスの針みたいにわたしの中心軸になって何もかもを巻き込んでいた。
今日もわたしはデンジさんの気配を感じられる場所に座る。
ピカチュウを撫でるのは、意味もなくデンジさんのそばにいる言い訳のため半分。もう半分は暴れそうになる心を落ち着かせるため。
今日のデンジさんも一心に何かを作ってたり、目が覚めるどころじゃなさそうな刺激的なドリンクをぐいっと飲み、男らしくのどを鳴らしたり。
「ピカチュウの調子、良さそうだな」
わたしはデンジさんを前にすると声も出せなくなるのに、デンジさんは意外に話しかけてくれる。
「聞いたよ。昨日もが挑戦してきたトレーナーを容赦なく叩き潰したって」
「………」
「でんきだま持たせてボルテッカー、まだやってるのか」
うん、と頷く。
「まあ、良いけどさ。ジムのトレーナーにしては派手だよな。俺の前ににびびっちまうトレーナーは多そうだ」
だってびびらせるのが目的だもの。デンジさんはやはり気づいていない。自分のつま先に目を落とす。
「普段接してるは物静かなやつなのにな」
「……デンジさんと戦うにふさわしくないやつをやっつけたいだけ」
「はは。おまえの真剣な顔はホント迫力あるよ」
彼を慕う人間ですら敵のように思えてきたのは、中途半端な腕前のトレーナーは彼の失望を買うだけだと知ったとき。
しょうもない実力しかないくせに、デンジさんの意識を時間を奪わないでよと赤い憎しみにわたしは支配されている。だから、わたしのバトルは、ナギサジムのどんなトレーナーより悪意に満ちている。
まだ嫉妬せずにいられるのはデンジさんの愛する改造やポケモンたちくらいだ。
近くにいるのがこんな怖い女だと、デンジさんは1ミリも気づいてない。
「クールなのに内に熱いものを持ってるやつ、俺は無条件に好きだな」
クールなわけない。感情にふさわしい表情をいつも見つけ損ねるだけだ。
物静かなわけじゃない。デンジさんの前ではうまく自分を出せないだけだ。
自分の感情に振り回されて身動きとれないわたしはとてつもなくかっこわるい女の子なのに。
デンジさんの些細な言葉にも反応してしまって、思わず抱きしめたピカチュウが、潰れたようなうめき声を上げた。
ああやっぱりデンジさんが好き。だから、デンジさんにふさわしくない人間が、大嫌い。
次の日ナギサジムに挑戦してきたトレーナーも大嫌い。
「挑戦者は?」
「一旦ポケモンセンターに戻ったみたい。次はきっとちゃんのところに行くよ!」
「……分かった」
「ちゃん、今日もこわーい顔になってるよ?」
「……そう」
「そんなに挑戦者が嫌いなジムトレーナーって世界探してもちゃんだけだよ、きっと!」
「………」
「今日も手加減無し?」
「優しくする理由、ないもの」
でんきだま、ボルテッカー、ピカチュウ。この組み合わせをわたしらしくないなんて言うのはデンジさんだけ。
わたしがどんな酷い感情を持ち合わせているか。何も知らないのはデンジさん、あなただけなのだ。
「……来た」
「うん……! ちゃん頑張って!」
挑戦者と視線が合う。けれどわたしにはそのトレーナーがどんな顔をしているかなんて見えていない。相手が誰かなんて決まっている。
デンジさんの時間を奪う、倒すべき敵だ。
「――っピカチュウ!」
あんなに多くのトレーナーを沈めてきたピカチュウも倒れるときは一瞬だった。黄色い小さな身体があっけなく吹き飛ばされる。
くるくると周りながら落ちるピカチュウ。瀕死になったあの子がこれ以上地面に叩きつけられるのが我慢ならなくて、わたしはフィールドの中で走り出していた。
「ピカチュウ! ピカチュウ!?」
膝をすりむけながらもわたしはしっかりとピカチュウを抱きとめた。
腕の中でくずおれるピカチュウに胸が詰まる。
「……ありがとう、たくさん頑張ってくれて……!」
わたしの正気とも思えない目的のためにいつも身体を張ってくれたのはこの子だ。小さな身体がこれ以上傷つくことのないように抱きしめた。
「」
あの大好きなジャージが擦れる音がした。
「デンジさ……、わた、わ、わたし……」
「、よくやったな」
デンジさんの名前を呼ぶ声でわたしの目は熱くなる。
頭に乗せられた硬く大きな手のひらが、何も言わなくて良いと教えてくれた。
「後は俺にまかせろ」
しかと響く声が耳に触れて、顔がくしゃくしゃになってしまう。
強い眼差しで前を向くデンジさんの背中を見上げて、わたしは思い知る。
この恋が終わる日など来ないんだ、と。