トーストが焼けてきた。朝、すっからかんになった胃の目を覚ます香りだ。
ポットがしゅんしゅん鳴き始めたので、わたしは熱々のコーヒーをいれる。わたしのにはミルクを足して、チェレンはブラックのままで。朝食の香りがそろい始めた頃、スリッパを鳴らしてチェレンが降りてきた。
チェレン。今日からジムリーダーになる、わたしの恋人様だ。
「おはよう」
「……おはよう」
いまだにパジャマのわたしと代わって、チェレンはもう着替え終わっている。
おろしたての白いシャツにネクタイ。シワのないスラックス。
わたしの視線を受けてチェレンがネクタイを気にし始めた。
「おかしく、ないかな?」
「何が?」
「ジムリーダーとしてふさわしい格好かな、って」
「うーん、おかしいと思う」
「なっ……!」
慌てふためくチェレンに笑みがこぼれてしまう。本当に余裕を無くしているみたいだ。
「だってジムリーダーの服装なんて自由じゃない。ジャージでもパーカーでも、水着でも良いのに。なのにわざわざサラリーマンみたいな格好してるから」
「僕は、新しいトレーナーを迎えるジムリーダーとして……」
「うん、良いんじゃない」
「……は?」
「変なのって思うけど、悪いとは言ってない。むしろ良いと思ってるよ。チェレンらしくって。はい、コーヒー」
「あ、ありがとう」
照れているのか、初仕事を前に興奮しているのか。すっかり色づいた頬をわたしはなべつかみで扇いであげた。
新聞をかじり付くように読みながら、熱いコーヒーを一気に飲むチェレン。昨日は眠れなかったんだろうか、目の下が少し暗い。
ジムリーダーに抜擢されてからのチェレンは今まで以上の努力を重ねてきた。「良いジムリーダーになるんだ」としきりにいって、ますますバトルに勉強にのめり込んでいった。
すでに資格があるとみなされたからチェレンはジムリーダーに選ばれたというのに。そこで気を緩めるってことを彼は知らない。
チェレンってばピュアな生き物だ。
「もう行くの?」
「ああ、早めについておきたいんだ」
「じゃあ、はい。んー」
「………」
「………」
「……何だ?」
「行ってきますのちゅー待ちです」
「っなんだよ突然! からかってるだろ!」
「だってチェレンの初出勤だし」
「いつもしないだろ」
「じゃあ今日からしよ?」
「………」
黙り込んでしまった。チェレンは本当にピュアだ。いろんな意味で。
「ほんと初々しくて可愛いなあ」
「可愛いって言わないでくれ」
「ごめんごめん」
余裕のない彼を少しいじめすぎたかな。反省して、背負っている不安が少しでも紛れるように願って、笑ってみせた。
「チェレン。大丈夫だよ。きっと最高のジムリーダーになれる。たくさんのトレーナーを正しく導けるようなリーダーに、なれる」
どこに落とそうか迷ったキス。紡いだ言葉がおまじないのように効きますようにと願って、わたしはおでこに唇を寄せた。チェレンの一番可愛い持ち物に。
不意に手首をとられる。いきなり絡んできた熱を溜め込んだ指に驚いたその隙に、わたしは唇を盗まれていた。
「いってくるよ」
「……いってらっしゃい」
触れた部分を舌で確かめると微かに苦い味がする。ミルクの入っていない、苦いコーヒーの香りを残していったキスだった。
さて、わたしも朝食を食べよう。カフェオレを飲み終わったら、初仕事のチェレンに差し入れるお弁当作りをしなくちゃね。