皆がマンタインのおなかを見上げるマリンチューブ。わたしは目をくれず、下だけを見てひたすらに歩く。
あら、あのオスとメスのプルリル仲良しね。恋人みたい。誰かが指差し笑っていたが、わたしはスーツケースを引きずることにばかり気が行く。
キャスターを上手く回そうと力を入れれば入れるほど、思い通りになってくれないスーツケースに振り回されながら、目指した。懐かしのセイガイハシティを。
息の上がったわたしを、海風が迎えてくれた。
「疲れた、まぶしい……」
ここから我が家の別荘までもう少しある。まだ歩かなくてはいけないのに、夏の日差しがくらりと目眩を誘った。
ふらふらと、近くの壁に寄りかかった。
「お嬢さん、立て看板で記念撮影しちゃう?」
「は、はい?」
「ほら、そこに顔はめて」
「え、ええ……?」
今から壁の影で涼もうとしたのに見知らぬ人がわたしを立たせる。
倒れかかった壁はよく見れば、自然の色から浮き出る妙に明るい絵の具で描かれた立て看板だった。
ふたつ、人の顔の大きさに穴があいている。強引に桃色のプルリルをあてがわれた。
「キミのようなおじょうさまと記念撮影とは嬉しいなぁ」
「あの、なぜわたしがあなたさまと写真を……?」
「細かいことは気にしないで、ほら」
「では撮りますよー。さーん、にー……」
なにがなんだか分からない。疲れで頭がぼーっとする。
レンズに見入られて、わたしも思わず穴の奥を見つめる。
「うおっ!?」
「いち」
シャッターが落ちた音と同時に、隣の人がいきなり崩れ落ちる。
「シズイさん……」
「よう。、今年は来たんかい」
「シーちゃん……」
「何年ぶりじゃろ。2年くらいか?」
訛りを隠さない声に横を向くと、知らない人がいたところにシーちゃんが、わたしがセイガイハシティを目指した理由が、隣に立っていた。
シーちゃんがカメラマンさんからもらった写真をくれた。
立て看板の中でぼけっとした恥ずかしい顔をしてるわたし。シーちゃんは水色のプルリルの中で太陽のようなばっちりと笑顔を見せている。
「よく撮れてる」
ニッと笑った顔の横、髪の毛からぽたりぽたりと雫が落ちる。シーちゃんのことだから間違いなくその雫はしょっぱい海水だ。
「立て看板なんてありましたっけ」
「置かれたのは最近じゃっでね」
「ですよね……」
シーちゃんがわたしの手からスーツケースを奪う。
「よく来た。持ってたっあぐっ!」
「ありがとう、ございます」
今年もよく日焼けした背中を追いかけた。
セイガイハシティはわたしの第二の故郷だ。生まれはもっとイッシュ地方の中心だけれど、父がここに別荘を持っていて、幼い頃は何度も家族旅行にセイガイハに来ていた。
特に大きな休みがとれる夏休み。その期間はわたしはセイガイハの子供になってシーちゃんの期間限定の友達になっていた。
幼い頃、何度も連れてこられたセイガイハシティ。けれどわたしはどこか行き場の無い心地でシーちゃんについて歩く。
潮風に甘い花の混じっているところとか、確かにここはセイガイハシティのはずなのに、しっくりと来ない。
「ひとい? おやっどんとおっかはんはいなかと?」
シーちゃんの訛りは相変わらず強く、都会で標準語しか使わないわたしは聞き取るのに苦労する。
でもシーちゃんの言葉使いがわたしは好きだ。シーちゃんがここで大きくになったんだなということがよく伝わってくるから。
「えっと、今年はひとりで」
「そうかー」
「マリンチューブが開通したから。おかげでひとりでも来られました」
「ああ。わぜ物が出来たよな。おいもびっくいしたなぁ。ずっとなんで海の中を歩きたいのか分からんかった。泳げば良かに。じゃっどん、マリンチューブからが来なっら良か物だな」
泳げば良いのに。シーちゃんらしい台詞だ。
水道を行けるのは水ポケモンをきちんと育てたトレーナーさんだけ。ポケモンのなみのりに頼らずに泳ぎ切っちゃうのはシーちゃんくらいなのに、シーちゃんにその自覚はない。
「そうか。ひといか。女ん子ひといでだいじょっ?」
「二人とも心配してました。特にお父さんは……。でも、わたしひとりでもどうしてもセイガイハに来たくて」
「は箱入り娘じゃっで。せわだー」
「せ、わ……?」
「心配、って意味だ」
シーちゃんはわたしたちの別荘への道のりをちゃんと覚えてくれていたみたいだ。
こなれた様子でシーちゃんはわたしを別荘へ連れていってくれた。
「。だいじょっ。具合わるない?」
「慣れないことしたから疲れたみたい……」
「顔が赤かよ。ちゃんと休んなさい」
「シーちゃん、ありがとう」
「夕方になったら、おいのとこいに夜ご飯食べに来な。待っちょっね」
ぱたんと、閉じられた別荘の扉。備え付けのクーラーをつけて冷風を浴びるとようやく頭に宿ってた頭痛が消えていく。
「……気持ちいー……」
そのままぺったりと冷たいフローリングに寝転がる。なんだかだるい。寝てしまいそうだ。
うつろうつろとしていく意識の中、わたしが思ったのは“こんなはずじゃなかったのにな”という肩すかしを食らった言葉だった。
大好きなセイガイハシティなのに、会いたかったシーちゃんに会えたのに、上手に喜べない。どうしてだろう。
心待ちにしていたときめきが姿を見せてくれない。
「シーちゃん、大人になったなぁ」
シーちゃんがくれた写真を見つめる。
プルリルから出た顔部分だけでも、シーちゃんの成長が分かった。記憶の中でみていたシーちゃんよりずっと男の人らしさを増している。
顔の固まったわたしと笑顔のシーちゃん。ずっと見つめていると淵からほんのわずか、寂しさが波を打ってくるので、写真を見るのはやめた。
ご飯を楽しみにしよう。シーちゃんとのご飯。何が食べられるんだろう。
もやもやとした思考を続けているうちに、眠気がわたしを襲う。ずっと使われていない家具たちの沈黙の中にわたしはずるずると落ちていった。
起きたときにはもう夕暮れだった。
「――寝ちゃった……!」
髪の毛だけなおして、一枚だけ羽織って、ひっかけたサンダルでシーちゃんの家を目指す。
すっかり寝ちゃうなんて。大急ぎでシーちゃんの家へと走った。
息を切らしながらシーちゃんチの明かりを目指す。近づくにつれてたくさんの人の大笑いが聞こえてきた。そっと戸を開けるとシーちゃんの家に集まっていたのは大勢のエリートトレーナーさんたちだった。
そういえばシーちゃんジムリーダーになったんだっけ。
ずらりと並んだお料理。一番奥からみんなに囲まれたシーちゃんが手をあげる。
そっと手を振り替えして、わたしはエリートトレーナーさんの横にちょこんと座った。
「うわっ、見るからにおじょうさまって人ですね。初めまして!」
「こ、こんばんは。初めまして」
「そんなに堅くならないで。僕たち、セイガイハジムのトレーナーです。別の地方出身なんすけどシズイさんに憧れて来ました」
「あ、そうなんですか」
「お名前は?」
「です」
「さんは何やってる人?」
「えっと、特に何も……」
「セイガイハよく来るんですか? どっか民宿とかとってます?」
「あの、父の別荘に」
「そうなんですか、別荘とはさすが。やっぱりおじょうさまなんすね。あははは」
「………」
「………」
シーちゃんの家。シーちゃんと久しぶりのご飯。楽しみにしていたのだけれど、わたしは上手くそこに馴染めなかった。
周りはトレーナーさんばかり。しかも皆さんジムに勤めている人たちらしく、皆が皆、顔見知りのようだった。今日セイガイハについたばかりのわたしが浮くのは必然だった。
元々シーちゃんは地元の人たちに愛されてた。それがシーちゃんがジムリーダーになってトレーナーさんに変わっただけ。
悲しくなる意味なんて無い。何度言い聞かせてもわたしの胸は言うことを聞かなかった。
「シーちゃん。私もう、帰ります」
ジムリーダー・シーちゃんは強く慕われているみたいで、帰ることを教えるために近づくのも一苦労だった。
「送っよ」
「い、いいです!」
この夕ご飯に参加している人たちはシーちゃんを中心に集まったのに。その中心をわたしが独占するわけにいかないのに、シーちゃんはひょいひょいと中心を抜け出して戸を開けてくれた。
「みんな、ちっと行たっくっな」
「はーい!」
「、行こ!」
上手く動けないわたしの手をシーちゃんの厚く、温度を持った手がひいてくれた。シーちゃんの優しさは嬉しくて、痛かった。
昼間の暑さはもう去っていて、生ぬるい風がわたしのうっすらとかいた汗を乾かしていく。
ペタペタペタペタ。サンダル特有の足音がふたりぶん、波の合間に響いた。
桟橋の上で浴びる海風は気持ちが良い。風に暴れてしまう髪をかきあげながら振り返ると、セイガイハシティの夜景が見えた。
桟橋の上、町の中心から少し離れたここに立ってわたしはようやく気づく。上手く喜べない感情の正体に。
シーちゃんの背中を必死で追いかけたとき、一人で赤い海を横切っていたとき、そして今。たくさんの灯りが点いた夜景に、わたしは抱いていた違和感の姿をとらえた。
唐突な立て看板。整備された明るい道。安全な桟橋。地元に住んでいる人たちのよりも立派な、別荘やホテルたち。
わたしが知っていたセイガイハシティはどこ?
「セイガイハシティもずいぶん賑やかになりましたね」
「いろいろあったからなぁ。おいもジムの頭になったし。ジムが有いたけで違ご物だな。トレーナーだけじゃね。みたいなおじょうさま、おぼっちゃんがずんばい来るようになった」
「………」
シーちゃんが大人になったように、わたしも単純でいられない年になった。でも心は追いついていかなくて、変わらない景色に慰められたくてセイガイハシティに来たんだ。
シーちゃんも変わっていないと信じて。
セイガイハにはセイガイハの時間が流れているのに、それを無視して勝手に期待したわたしはやっぱり頭の足りない子だ。
「だいじょっか?」
「頭、くらくらします。それに、熱い……」
もうわたしを焼く日差しは地平線の向こうなのに、頭に血が集まっている。
「ここで休んで行こ」
シーちゃんが桟橋にどっかり座り込む。わたしもその横に座った。
ほんの少し、お互い黙ったけれど、海大好きなシーちゃんがじっとしていられるはずが無かった。
「なあ」
「なんですか?」
シーちゃんが何を言い出すか、分かっていながら相づちを出す。
「熱てなら海で泳っ?」
「シーちゃん……。それ、シーちゃんがただ泳ぎたいだけですよね……」
海を目の前にシーちゃんはただ座っているのが惜しくなってきたようだ。体がうずいて仕方ないんだろう。
見上げたシーちゃんはすでに来ていたシャツを脱いでいた。
「具合の悪い人を海にいれたらダメですよ」
「足を浸しちょっだけでも違ごじゃろ。良ければホエルオーに乗せてあぐっ」
「本当ですか?」
「アバゴーラ、ホエルオー、どっちが良か? ブルンゲルはのろわれボディ持っちょいから慣れん人にはゆね」
「……ホエルオーに、触ってみたいです」
シーちゃんと海。
ホエルオーに乗るときも、シーちゃんは優しく手をひいてくれた。
海の上は桟橋よりもっと気持ちがよかった。ゆらゆらと町の灯りが遠ざかっていく。
初めて触るホエルオーの体は意外と硬かった。優しそうに見えるけど、やっぱりポケモンだもんね。ジムリーダーのシーちゃんがしっかり育てたポケモンだもの。
常に水が張ったようなホエルオーの背中は冷たくて気持ちが良い。別荘のフローリングなんて比べ物にならない。
シーちゃんは途中までホエルオーの横についていてくれたのに、今は数メートル先で元気に水しぶきを上げていた。
「シーちゃーん。暗いとこで泳いだら危ないですよー!」
と、声をかけたら、
「おいにはブルンゲルがおっで。だいじょっ! もこんかー?」
ひたすら泳ぐのが楽しいという返事が夜の海からかえってきた。
波間に光る微量の薄黄色。今夜は円らな満月だった。
「なんで泣きそうな顔しちょったんだ?」
ホエルオーにぴったりくっついて、離れられないわたし。比べてシーちゃんは自由に体を浮かばせたり沈ませたりしてる。
「そう見えましたか?」
「ただ具合が悪りやろの顔じゃ無かったな」
「理由はいっぱいあります」
「じゃあ、いっばん最近の理由を教せっくれよ」
「……いろんなものが変わっていくのが、わたしにはついていけなくて」
「そうだな。ないかしらの時間が経てば変わってくよな」
「小さい頃よき来たセイガイハシティなら変わってないって、変な期待してたら見事に裏切られちゃいました。たくさんの別荘が建って、いろんな人が遊びに来るようになって、嬉しいけど寂しい」
「はおいも変わったと思も?」
「シーちゃんは……、シーちゃんは変わってない方です」
「そやちっとは変わったちゅこっじゃっど」
「大人になりましたから。大人になってジムリーダーになって、外見は変わりましたけど、でも中身は変わってないですよね」
「そうじゃろ。いくらかかいが変わっても、本質はなかなか変わらん。おいにとってもおんなしだ。こん町は変わったとこいもあるけれど、変わらん部分もある」
「………」
「ずっと住んでいたおいが言んじゃっで間違げね」
ぐるりとシーちゃんは海の中で一回転した。水の中にいるときのシーちゃんはいつもより大きく見える。
「海はあるし、ポケモンもずんばい居るし、おいの家族も変わらんし。といもいのおじいちゃん、おばあちゃんも元気だし。夏になればが来る。まあ去年は例外じゃったけどね」
「………」
「も変わってない。おいが海で泳じょっと、て来てくるっ。そいも泳いでていっばん楽しい季節になると。一年に一度、まねけん、じゃっどんね。おいが見てる限いはセイガイハシティは変わってない」
シーちゃんは自由に泳ぐ。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ。それ以外の変な泳ぎ方もシーちゃんは知っている。
本当に上手な泳ぎは見ているだけで楽しくさせてくれる。シーちゃんの泳ぎがそれだ。
「も来い。かなしか時はずんばい泳いだら良か」
突然、引っ張られて、わたしは服を来たまま海に飛び込んだ。足から脱げたサンダルはシーちゃんが片手で器用に捕まえてくれた。
「シーちゃん、何するの!?」
「ごめん。我慢でけんじ」
「わたし一人じゃ怖いよ。絶対に、絶対に離さないで!」
「分かっちょっよ」
わたしが背中からいなくなって、ホエルオーはやっと潜れると思ったらしい。大きな体をうねらせて、深いところへ行って、戻ってきたとき大きな噴水をあげた。
満月の夜。わたしとシーちゃんとブルンゲルとホエルオー。
暗い海をわたしたちは一列になって泳いだ。
わたしが捕まっていてもシーちゃんは一人で泳いでいるときみたいに上手く体を浮かせてぐんぐん波間を行った。
真っ暗な海の上でも、どれだけ波に揺られてもシーちゃんには自分の位置が分かるらしい。
の家はこっちだと、教えられるままに泳ぐ。
きちんと、わたしの別荘の桟橋が見えたときは驚いた。
別荘に着いたらもうくたくたで、冷えた体には真新しいタオルケットが妙にあたたかく感じられた。髪の毛の先がしょっぱいまま、わたしは眠ってしまった。
朝、起きたらシーちゃんが横にいた。
わたしはぴっとりとシーちゃんの肩にほっぺたをつけ、寝ていた。
体はぽかぽかと暖かい。
窓の外では昨夜、わたしを乗せてくれたホエルオーが元気に潮を吹いている。
空中に撒かれた塩水が朝日に光って綺麗だった。
感動とほかにもしょっぱい思いの混じったため息が、ひとつ出た。
起こしていた首からゆっくりと力を抜く。一晩つけっぱなしだったほっぺたがまた、シーちゃんの肩にくっついた。
シーちゃんが起きたら言おう。わたし、しばらくここにいたい。
おじょうさまってよくからかわれるわたしだけど、セイガイハシティの人間になってみたいのってシーちゃんに言ってみよう。
シーちゃんに打ち明けたい話がいっぱいある。
わたしがシーちゃんを好きなのはまだしばらく秘密だけれど。わたしたくさん頑張ったから。疲れて頼りたくなったのがシーちゃんだったから。
その背中に頼るね、シーちゃん。