丁度、神話が並ぶ書架の前だった。寡黙に整列する前時代的な草模様の背表紙の文庫本。いくつかの神話の背筋をなぞりながら、彼女はミオ図書館の沈黙する空間に、いたずらな発言を落とした。


「私、実はウンディーネなの」


それ以上の告白は無く、また注釈も無い。当然のようにウンディーネという言葉が用いれられた。逆巻くまつげから、ゴヨウならわざわざ説明を必要をしないわよね?という挑戦的な期待が目配せさせられる。

一方私の頭には、の思惑とは関係無くウンディーネに関する情報が広がっていた。まるで辞書をひいた時のように単語に解説がくっついてきたのだ。

ウンディーネ。精霊の一種。水を司るとされている。
湖で水浴びをする油彩画調の裸婦像。そんな絵がライトが点灯したかのように私の前に閃いた。

その精霊の特徴は、始め魂を持ち得ないところにある。伝説によると、ウンディーネは人間の男性と結婚した時から魂を得るらしい。そしてお産と共に老化が始まると言われている。
このような背景から、ウンディーネは様々な悲恋物語の題材になってきた。

の発言は真実とも偽りとも受け取れた。自身を疑う理由は無かったが、の発言を否定する考えも私には無かった。


「なるほど。貴女との結婚はリスクが高いのですね」
「そうよ」


彼女が人間ではない可能性など、考えたことも無かった。
ただ私は驚きに満たされていたが、私の性格上、それが表情に分かりやすく出ていたかは怪しい。


「魂を得ることを、どう思いますか?」
「私からしてみれば結婚なんてくそくらえね。魂を得たって何の意味があるんだか。世界が何か変わるとでもいうの?」
「………」
「きっと変わるんだわ。何もかも」


顔を木の根のようにしかめて、けれど瞳はうっとりと微睡ませては言った。
がロマンス好きな女性であるという事実が私の頭に渦巻いた。


「では、老化が始まることは?」
「年をとるのはイヤ。でも自分の肉体には飽きてきたところ」
「そうですか。貴女にとっては結婚は、嫌悪するものでしか無いのですね」
「子供を産むこともね」


彼女と向き合うべき時間であると感じ、私は開いたままになっていた本に栞をはさみ、閉じる。彼女の正体がウンディーネであったことを嘆く男に私は成って、悲壮感を滲ませた息を吐けば彼女も申し訳なさそうに髪の中に表情を隠した。
その顔がこちらを向くようにと願って、私は口を開く。


、私と結婚しましょう」
「………」
「結婚しなさい、私と。貴女は素晴らしい生き物だ。もはや貴女の存在を人間に貶めることを私は戸惑いませんよ」
「……本気?」
「ええ」
「ウンディーネは、浮気した夫を殺さなくちゃいけないんだよ?」


凍えたように震えて、がこちらを向く。
そういえばそんな特徴もウンディーネは持っていた。


「貴女以外のものに恋をすることは、己の死である。そうして貴女に命を握られるのも喜ばしいです」
「本当に良いの?」


何度も聞いてくる彼女にふと訝しげに心が揺れる。けれど、心は底の方から幸福を滲ませる。


「ええ、良いんです。結婚しましょう」


と私の間に婚約という契約が成立した。そこにロマンスなんて甘ったるいものは無かった。