(彼女を追いかけようか?)
ふとわいた気持ちに自分でひどく驚いた。こんなに長くシロガネ山で閉じ込めてきた自分というものが、彼女によって崩されようとしている。グリーンに何度促されても、変わろうとしなかったのに。ずっと、自分でもおかしいと思うくらい帰ることが考えられなかったというのに。
久しぶりに現れた、自分の前に立つトレーナー。考えはぽつりと降ってきたけれど、誰かを追いかけるという動作をおもうしばらくしていないせいで、俺の足はどうも考え通りには動かない。
そもそも、あの子を追いかけて、どうなるんだ? またポケモンバトルをするのか? バトルするにしてもまた彼女はモンスターボールを手にとってくれるだろうか。それよりも、彼女は俺のこと、もう一度見てくれるのか?
「………」
自信は、無い。彼女が俺に興味を示すとは思えない。ああ、おまえか。そんな風に目で言われて、そこに俺がいるのを全く感じてないように無視される。そんな情景の方がよっぽど簡単に脳裏に浮かぶ。想像の中で、彼女は簡単に俺を見捨てた。
唐突に、シロガネ山は心細い世界なのだと悟った。なぜ、いまさらそんなことを思ったんだろう。雪にまみれること、誰ともしゃべらなくなること、自分の命を保つのに苦労し続けること、人との絆なしにもただ強いポケモンを倒し続けること。どれに対しても疑問なんて持ったことはなかった。けれど今、自分が立つ場所に違和感を感じる。なぜ。なぜって、それは、……あの子がいないからだ。
「………」
あの日から自分は本格的におかしい。彼女の何かが伝染したのか? そんなはずない。彼女と俺はそこまでの違いを持っていない。
頭はだいぶ冷やしたはずなのにバカな考えはまだ降ってくる。あれから幾日か過ぎてる今も、病や呪いみたいにあの子が目の前にいる時の記憶が俺の思考を乗っ取る。その感情を振り払いたいような、そうじゃないような。頭を支配されることは気持ち悪くてしかた無いのに、彼女を求めてまた記憶が浮かんでくる。俺の知らない俺が彼女の記憶を漁っている。
「……っ」
訳が分からない。苛立ちがつのる。帽子の下に指をうずめて、髪の毛をかいた。その拍子に頭からこぼれていった俺の帽子は、雪の乗った風にさらわれて飛んでいく。
(あ……)
帽子を追いかけようと頭を上げたときだった。
ついに俺は幻想を見た。目の前に俺はその子をみつけた。雪ばかりの空間は、白いキャンパスと同じで想像を描きやすい。だから、想像するあまり俺は自分で幻を作ってしまったんだと思った。
彼女が俺の帽子を拾って、雪をはらってくれる。そんな幻だった。
幻には興味無い。無感動に、むしろそんなものを見始めた自分にさらに絶望しながら、俺はあの子の幻を見続けていた。
対峙したときと何ら変わらない服装で、少しうつむき加減のあの子。あの目は伏せられてここからは見えない。その幻想は影までも持っていた。本当はそこに無いと分かりつつ見つめた。そうしたら彼女がしかめっ面をした。
「本物……」
だったら良いのに。重い口で思わずつぶやいた。
「ニセじゃない」
……おかしい。幻の彼女が、声を発した。俺は彼女の声を聞いたことが無い。バトル中も彼女は声で指示を出したりはしなかった。なのに、俺は今彼女の声を聞いた。
「……しゃべった」
「わたしだって、しゃべりますよ」
今、初めて聞いた彼女の声。少し傷が多いけれど、芯のしっかりとしているその体に合った声だと思う。すごく心地が良い。
その耳障りの良さがまた俺の中に不信を生んだ。幻のほとんどは自分にとって都合の良いものだ。こんなに心地よく感じるのは、これが自分の作り出した幻だからじゃないのか。しかも、まだ知らないはずの彼女の声でもって、自分は本物だと自己主張してくる。これもなんだか自分に都合がよすぎて信じられない。
目の前にいる彼女は本物? それとも実体のない幻? どっちだろう。分からない。分かるのは、やっぱり目の前に彼女がいるとどこか息がしやすくなるということだけだ。
「どうしてここにいるの」
目の前の君がなんであれ、俺はそれが聞きたかった。
「……ここに来たかったから」
彼女はそう小さく言うと、さらに深く下を見て、顔は見えなくなってしまった。そのまま、しばらく無言が続いた。彼女も俺も自分の場所からは動かない。
下を向いたっきりになってしまった彼女とは逆に、俺はまじまじと彼女を見つめた。していることは雪空に描いた姿を見るのと同じなのに、妙に落ち着かない。乾いた小さな唇だけが少し伺える。
「ピカ?」
「………」
ここにいるどの生き物よりもピカチュウは行動的で自由だった。ピクピクと、とがり耳を動かしながらふたりの間で様子をうかがって、そしてピカチュウが彼女の手を握った。寒さをこらえるように強く握りしめられた小さく赤い手に。
「………」
彼女の手にふれたピカチュウに、彼女もこわばった指を開き、手のひらを返す。ピカチュウが彼女にふれている。彼女もピカチュウの頭をなでている。その光景でようやく、本物がここにいると思えてきた。
でも、なぜ。
俺と同じ世界に生き、静かに狂っている彼女だ。用済みの俺なんかを振り返るはずのない彼女。いったいどうしてこの場に戻ってきたっていうんだろう。
ピカチュウが彼女の手からとってきてくれた帽子を被りなおしながら考える。ひとつだけ、答えが浮かんだので口にする。ねえ、もしかして
「賞金?」
とりにきたの? そう聞けばたっぷりと間をとってから返事。また彼女の声。
「……そう」
なんだ、お金を取りに来たのか。自分で聞いておきながらその返答をつまらないと思ってしまった。お金になんて執着しないけれど、なんとなく気分がしょげる。財布、どこにやったんだろう。最近全然使ってない。
なかなか使わないものはやっぱりリュックの一番下に沈んでいた。想像してたより中身は入っている。賞金と言えばふつう、所持金の半額を渡すものだけれど、俺は財布の中身をすべてひっくり返し、彼女に渡した。彼女を相手にしたあのバトルの価値は金額じゃ表せないと思ったからだ。あの瞬間、久しく感じなかった興奮が胸に宿った。まるで火がついたみたいだった。
そう、あの時から俺に火がついた。今までポケモンたちに持ってきたものとは違う熱いものが胸の中にある。それは確かだ。
渡した金額を見て、彼女は「こんなに?」というような目をした。驚いた顔はふっと子供に戻ったみたいで、俺のピカチュウとも通じるものを感じる。頭を撫でたくなる表情だった。彼女が人間であると思い出さなければ手が出ていたと思う。
あっと言う間に用事は済んだ。どうせ彼女は去るんだろう。そう思ったらなんとなく彼女をあまり見ていたくなくて、俺はまた視界に白を入れることを選んだ。
「あの、これ」
そんな俺を引き留め、彼女が差し出したのはフレンドリーショップの袋に詰まったたくさんのきずぐすりだった。俺が驚いていると、彼女は必死に言葉を紡いだ。ポケモンとの間にも無言でいた彼女はこんなにしゃべる子だったんだ、と意外に思ってしまうくらい。
「あなた、あのバトルの時に薬を使うことを戸惑った。それはバトルが終わったときのことを考えたから。瀕死のポケモンたちの回復を頭に入れていたから。違う?」
たどたどしく俺の目を見てくる彼女。あの恐ろしく、狂い光っていた瞳は今はなりを潜めていた。今は一生懸命な子供の目をしている。
「あなたが戸惑わなければあなたは勝っていた……」
違う、それは俺の中で決まっていたことだ。俺はかいふくのくすりを使う回数を自分の中でルールとして決めていた。自分のルールのもと、それ以上は使わないで常に勝ってきた。
そして俺はあのバトルのとき、もう自分が決めた以上のきずぐすりをバトルに投じていた。彼女は本当なら自分は負けていたと思っているのかもしれない。けど俺の中で、俺は完全に敗北していた。
「あれは……、実力だ」
ちゃんと全力で戦った。君に失礼なことはしていない。そう伝えたいと思った。
「手は抜いてない」
彼女はかすかに表情をかえた。それだけだった。感情は読めない。その代わりに不思議な色が宿っていた。あの時は闘志で燃える表情がよく見えたのに。今は彼女がよく分からないしつかめない。
そこで俺は彼女のこと、よく知らないのだと気がついた。お互いに全てをかけたものをぶつけ合った。それで彼女の全てを見た気になっていた。けれど、久しぶりに人の感情ににぶい自分を歯がゆく思った。バトルの時ならもっと上手く行くんだけど……。
「げんきのかけらは要りますか」
言葉少なに、気をつかってくれているらしい。それを知って、俺の興味は別のものに移っていった。
げんきのかけらも役に立つ。でも、それよりも、
「名前」
「………」
「名前が欲しい」
そう、彼女の名前が欲しい。ずっとずっと君のことを考えているうちに名前を知らないのが不便だと思っていた。“あの子”とか“彼女”とか、回りくどくて仕方がない。彼女を自分の中でもっと捕まえるために、俺は名前が知りたかった。
「わたしの?」
当たり前だ。俺は頷く。たった一語で彼女は返した。
「」
「……俺はマサラタウンのレッド」
俺は満足だった。もう一度彼女と会えた。名前を聞けた。
けれど余計なことにも気づいた。
自分は、一度敗北したトレーナーを前にしてまだモンスターボールに触れてさえいないこと。いつもみたく戦いたいと、心が奮えてくれないこと。代わりに興味がいつの間にか、彼女自身に向いていたということを。なんだ、これ。生まれた戸惑いが、のどの奥で呼吸を圧迫している。