彼女と俺は相性が悪いのかもしれない。俺を恐れて去っていった背中が胸にひっかかって、俺はそう思い始めた。会わなければのことが頭に溜まっていって苦しい。だからといって会えば、俺はの機嫌を損ね、とたんに彼女は去っていく。
(うまく行かない……)
彼女をできるだけ長く自分の前に引き留めて、のことじっくり考えてたいのに、はそうはさせてくれない。見つめたぶんだけ視界から逃げてく。なぜかもの悲しい。近づこうとしたぶんだけ逃げられてしまうのはなんて空しいんだろう。こんな空虚な感じ、できることなら感じたくないと思う。でも、俺はまだ彼女のことをあきらめてない。俺はあと何回に逃げられるんだろう。それでどれだけ空しい気持ちに襲われるんだろう。うんざりしてしまう。何回繰り返せば、この息苦しさはなくなるんだろう……。
変になってしまった自分をかみ砕く作業もいっこうに進まない。イヤになるくらい、堂々巡りしている。助けを求め、俺は目の前の男へと口を開いた。
「グリーン」
「ん、なんだ?」
「俺、変なんだ」
瞬間、グリーンはブッと紅茶を吹き出した。その反応はちょっと心外だ。すごく体力をとられるような、深刻な悩みなのに。
「………」
「悪い、ちょっと意外すぎて驚いただけだ」
「………」
「ほんと! ほんとだからそんな目で見るなよ!」
「………」
ゴホン。話を切り替えようぜ、の意味を込めてグリーンがひとつ咳をした。
「なんだっけ。最近調子悪いんだったか? それっていつからの話してるんだ?」
「いつからって、最近に決まってるだろ」
「だ、だよな」
そう、本当に最近。と出会ってしまってから、どうやっても俺の周りは以前に戻ってくれない。前までは、こんなことに悩んだりはしなかった。
「変ってどういう風に?」
「余計なことばっかり頭に浮かんでくる」
ほんと、余計なことばかりだ。ポケモンにぜんぜん関係ない自身のこと、がいるであろうシロガネ山じゃない場所のこと。バトルには必要無いからと、今まで切り捨ててきたことばかりが目の前でうろついて、俺を悩ませる。彼女のことだって本当は俺に必要無いもののはずなんだ。だけどいつの間にかあの存在は、俺の中にするりと入ってくるんだ。
「一番、自分で驚いたのは」
「うん」
「シロガネ山を降りようかと思ったこと」
「マジかよ……」
どうやら今の話で事の深刻さが伝わったようだ。リラックスしきっていたグリーンは紅茶を飲むのをあきらめ、足を組み直した。
そうだよな、すごくおかしいことだ。と出会ったそれだけのことで、シロガネ山を降りるかどうかなんて話に発展しているんだから、ものすごくおかしい。
「……どうして、降りようって思ったんだよ」
「たぶん、寂しいから。シロガネ山が」
あと、寒い。そう付け加えると、グリーンは驚愕の表情をさらに深めた。
「マジかよ、つーかシロガネ山が寒いとか今気づいたのかよ、遅すぎだろ……」
「前からこんなに寒かった?」
「当たり前だ!! どう見てもめちゃくちゃ寒いだろ!! 極寒だろ!!!」
「そう」
ぜんぜん気づかなかった。そうか、昔からここはこんなに寒かったのか。雪がたくさん降っているな、とは思ったけどそれ以上のことを気に留めたことは無かった。
「……オレがあんっなに言っても反応なかったくせに」
「ごめん」
「いいよ別に。気にしてないから」
そうは言いつつも、グリーンは大きくため息をついた。うなだれる姿に、やっぱり申し訳なくなる。
グリーンがずっと俺のことを気にかけてくれてたのは、すごく分かっている。グリーンは俺に、いろいろな言葉をくれていた。家に帰ってこいとか、誰が心配してるとか、無茶はするなだとか。俺から聞かなくっても、母さんが元気にしていることを教えてくるのも、グリーンの気遣いのひとつなんだと思う。
ずっと届けられていたグリーンの言葉。だけど俺の考えを動かしたのは、別のものだった。との出会いという、ほんとうにちょっとしたことだった。
「なんで、なんだろう……」
「そりゃあ、おまえ、す……。いや、何でもない」
「す……?」
「本当に何でもないから気にするな」
彼女と出会った最初の頃はすごく良かった。目が合った瞬間はビリビリと体が震えた。
負けた瞬間も、別に苦しくなかった。彼女とバトルをしていられた俺自身が、今では羨ましい。
苦しくなったのは、ごく最近なのだ。俺とをつないでいたバトルというものが終わって、をすごく遠く感じて、そしてふと、自分はに捨てられたんじゃないか、なんて思い始めてからだ。それからはずっと苦しい。
これもまた、すごくおかしい話だと思う。だって、「に捨てられた」なんて自分の想像でしかない事柄にしばられているのだから、おかしいに決まってる。
そもそも捨てる以前に、は俺を拾ったりなんかしてない。は最初からずっと、俺のことなんて……。
(………)
また、訳の分からないことが起きた。
一瞬、自分の中にひるみが生まれたのだ。爪の伸びた指で、胸をひと突きされたような痛みが走ったのだ。これは決して耐えきれないだろうと思ってしまう、一瞬の痛みが。
「なんとなくは感じてたけど、まさかそんなに重傷だと思わなかった……」
その言葉でようやく自覚が持てた。やっぱり俺、重傷なのか。
「でも、それ聞いて、オレは安心したよ」
「安心……? 重傷なのに?」
「ああ、安心。おまえも人間なんだなって」
「………」
グリーンは何を言っているんだろう。俺はずっと人間だ。最初から今まで、ただの人間。気持ちは目から読みとったのだろう、グリーンはやんわりと否定してくる。
「もちろんお前が生物学上、人間に相当するのは分かってる」
……なんかひっかかりのある言い方だ。まるで体は人間だけど中身がそうじゃないみたいに聞こえる。
「オレ、正直もうお前をマサラに引き戻すのは無理かと思ってた。でもやっぱり変わらないものって無いんだな」
「変わる、か」
「よく考えると3年経ってるんだよな。3年だぜ? フツー心境が変わってもおかしくない。むしろ変わるべきだろ」
変化は望んでいた。けどそれはあくまで強くなりたい、という望みだった。こういう風に変わってしまうのは全くの予想外で、正直いやだと思っている。
こんなにに狂わされて、知らない間に俺のいろんな部分がに捧げられている。俺の中で勝手に。はそんなこと、全く知らないんだろう。全部俺ばっかり。頭がいっぱいなのも俺ばっかり。俺ばっかりが変わらせられて、俺ばかりがを追いかけている。
彼女を求めても、それが俺の何になるっていうんだろう。
意味もないくせに、、って……ほんと、病気みたいだ。
「を知らなかったころに戻りたい……」
俺が変われる人間だというならいっそ、と出会う前の自分に戻りたい。
「それ、無理だから」
だよな。叶わないと分かってて口に出した言葉だった。ああ、また俺は、余計なことで頭がいっぱいになっている。俺はこんな、無茶なことを呟いてしまう性質は持ってなかった。
「今が苦しくたって、レッドはのこと、忘れない方が良いと思うぜ」
「そう?」
「ああ。レッドにはがいた方が良い。絶対に。というよりまず、オレにはおまえがを必要としてるようにに見えるけど?」
「俺には必要かもしれない、けど、」
「けど?」
「は違う……」
「そうかァ?」
「そうだ」
「どうして?」
「俺がに負けたから」
「………」
「にはもう、俺を必要とする理由が無いよ」
そう、あの三回目のバトルが切り替え点だった。
あの時俺が勝っていればもっと話は単純だった。勝ってさえいれば俺はまだ、あの爛々とした瞳の住人でいられたんだ。そしてポケモンバトルが俺と彼女を繋いでいてくれただろう。でもそれは断たれてしまった。
もう一度、その繋がりを持とうとしてもダメだった。二回バトルをしかけたけど、その二回とも拒否された。バトルが繋ぐ関係を、は明らかに拒んでいる。
お願い。お願いだから俺を拒まないでほしい。俺から逃げないで。俺の願いを受け入れて。俺とバトルして。そしてまた俺を目の中に住まわせてほしい。
バトルがしたい。
だって、彼女はトレーナーで、俺もトレーナーで。俺たちはトレーナー同士でしかない。それ以上でもそれ以下でもないじゃないか。俺からポケモンを、バトルを無くしたら、何が残るっていうんだ?
「なんにも、無い……」
何も、残らないんだよ。
「……全く、」
呆れたようなグリーンの声が俺の意識を暗いところから引き戻す。
ガシガシとその茶髪をかいて乱しながら、参ったと表情は言っていた。
「なんつーか、筋がね入りのトレーナーなんだな。おまえも」
俺を見るグリーンの目は優しかった。優しさの奥に、すこし悲しい色を持った目をしていた。
「レッド、教えてやるよ」
その悲しげな光はすぐに消えた。ぐい、と身を乗り出してきたグリーン。器用に方眉をあげる、憎たらしい表情でグリーンは告げる。
「もっと柔軟にやれ」
「じゅうなん……」
「あー……、つまり、簡単に言うとな、感じたままやれば良いんだよ。そう、素直にやれ! 相手がトレーナーだってこと、自分がトレーナーだってこともすっかり忘れた方が良い。ただの男に戻ろうぜ」
「………」
「不安になることもあるだろうけど……、まあ大丈夫だろ。おまえはズレてるところあるけど、別に頭悪いわけじゃないからな。そのうちどうにかなるって」
根拠のない、ちょっと無責任な言葉だった。けれど不思議な効果があった。
“どうにかなるって”。それはここ数日のモヤモヤした泥沼から俺の腕をつかんで引き上げてくれるような、落ち着かせるてくセリフだった。
「グリーン……」
「んー?」
「ありがとう」
まだ足首にはまとわりつく泥の感覚がある。だけど、少し救いが見えた気がした。
「どーいたしまして」
グリーンはニッ、と笑う。本当にグリーンは変わらないな、と思う。いつだって余裕そうな笑みを浮かべて、俺を待ってくれているところ、ほんとに変わってない。