バトルはしなくて良い。苦し紛れでに伝えたその言葉の効果は、ばつぐんだった。
次の日から彼女は数日の間隔をあけながらも、俺のところへ訪れてくれるようになったのだ。
ほら今日も、ザクリ、ザクリと人の足が雪を圧する音がする。すぐにだと分かった。最近、の足音のリズムを覚えてしまった。今日はいつもよりゆったりと歩いている。一歩が重たげだ。
足音と一緒に視線も届いてくる。目を合わせるとそらされてしまうと知っているので、視線には振り向かない。
ぶるぶると奮う呼吸をこらえようと、俺は目をつぶる。
「今日は、誰が雪を見たいの」
自分から問いかけてみる。がいつも携えてくる“ここに来る理由”を。
俺と会うとき、はいつも同じ手順を踏む。
自力で俺の元にたどり着くとまず、はすぐに俺を見つけて近寄ってくる。そうしたら「今日はドンファンを倒したい気分だから」「わたしのデンリュウが雪を見たがったので」なんて、別に俺に言わなくても済むようなここへ来た理由をぽつりぽつりとこぼす。俺が「そう」と返すと、は俺から数メートル、距離をとる。そこで俺のピカチュウと戯れたり、たまに図鑑をいじってみたり。ただ指のやり場を探すだけの、何ともなしの時間を過ごして帰っていく。
きっと今日もその繰り返し。
パターンをなぞり返す時間に、今のところ文句などは思いつかない。
の仕草が一昨日見たものと同じだとしても、俺の胸をいっぱいいっぱいにするには十分だからだ。彼女と二人で居るシロガネ山はまだ俺にとって特別な空間で、飽きるような日常とはほど遠い。
「雪なんて、誰も」
そう、とだけ俺は返す。
彼女がここに来る理由。それが有っても無くてもどっちだって良いんだと気づいたのはいつだろう。
もう俺は、がわざわざ置いていく理由に、中身が大して詰まっていないことに気づいている。むしろ、会う理由がくだらなくて小さいほど良いと感じるようになった。だってその方が、の理由付けは建前なのだと分かるから。口にしているのとは別の理由を隠し持っているんだろうと、感じられるからだ。
が隠し持っている方の理由は決して言葉で伝えられることはないけれど、が虚ろな建前で包み込んで隠しているもの、その片鱗を見つけることがある。
その一端は、たとえば別れ際に姿を見せる。
夜が差し迫って、彼女が町へと降りる時間が近づいている。そんな時、必ずは立ち尽くす。モンスターボールを取り出しては収め、また取り出す。初めの頃、俺が追おうとするたびに、ひらりと逃げていった行った彼女が今ではこうだ。何かに迷って動けない。ためらう彼女は、いつもギリギリまで時間を延ばして最後、後引くような視線で去っていく。
ここから簡単に離れていけない背中は両腕で包みたくなるけれど、そのときわずか、変わって見せるの表情は胸かくようなもっと強い衝動を俺に抱かせる。ぐっと鎖骨の下に押し当てて、むさぼりたくなる温度を持っているんだ。
今日も“手順”通りにが離れていった。
が背を向けた瞬間に、俺は視線を彼女の方へ戻す。開いていく距離。顔見知りな関係にしては近く、友達としては遠い、そんな名付けようのない距離をはとる。
彼女なりに適度な距離ができるとそこではポケモンたちを遊ばせ始める。これが大体の流れだ。
わざわざとられる距離にもどかしくなる時もある。けど、自分から近づいてみようなんて思い始めてしまったら、頭はすぐにこまごまとした疑問でいっぱいになる。
近づいてどうする、そんなことするのってなんだか怪しくないか、どのタイミングで踏み出せば良い、右足からか左足からか。まず、声をうまく出せる気がしない。そして俺はを足じゃなくて、目で追いかける方を選ぶ。
今日も、の指先の相手はピカチュウのようだ。俺のピカチュウはずいぶんになついた。も、慣れた手つきでピカチュウを肩へと招くようになった。
ピカチュウの赤いほっぺを触ろうと、が手を延ばした瞬間にチラツいたのは腰につけられた六つのモンスターボール。俺は慌てて下を向いた。火種から目をそらす。紅白の連なりに点火され、くすぶり始めた火をもみ消そうと、俺は自分の前髪を握った。
バトルはしなくて良い、とは言った。けど内心は、と戦いたくてしょうがない。はあまり気にしていないようだけれど、俺はあの黒星が悔しくて仕方がないんだ。負けたことも、その相手がという女の子であることも俺は悔やんでいる。
それに、負けたトレーナーとして彼女の前に立つのは勇気がいる。
(………)
こんな風に人の目を気にしたことあっただろうか。の前だと、普段見かけない意地っぱりな部分がむくむくと顔を出す。そして底の浅い自分を見つける。
分かっている。結局俺はの前で良い顔をしたいんだ。でもその意地は、に無理強いしてまで通したい意地じゃないことも分かっている。
バトルへの欲を胸の奥へ押し込めて、まぶたを上げた。その視界に大写しになったのはだった。
(……っ)
心臓がひっくり返る心地がした。
なんで? さっきまで、そこにいたのに。とピカチュウの四つの丸い目にのぞき込まれ、俺は一瞬息が止まった。
口や顔の筋肉はあまり動かさないけれど、は行動力のある女の子だ。
ピカチュウみたくちょこちょこと動き回るし、風に自由にさせている髪の毛のおかげか見慣れてしまうことは無い。数メートル先のを追うために、俺の首もせわしなく動いている。首が忙しいからだろうか。にはたまに、目の前でじっとしていて欲しい気分になる。捕まえて、俺の前に座らせておきたいと思うことがある。
でも、いきなりこんなに近くに寄るのは無しだ。
「どうしたんですか?」
思ったよりの声が大きく響いて、驚きが少し肩に出た。
「別に……」
「わたし、言ってほしい」
装おうとした平静を暴くように、は声を通してくる。
「っレッドさんが、何考えてたか」
今、初めて名前を呼ばれた。
「知りたい、です」
唇のつやまで見られる距離の。堅くぶつかってくる声。名残なんて残さないで、すでに鼓膜を通り過ぎていった俺の名。それだけでもう、飲み込みきれないくらいの衝撃があるのに、感情の薄い目がつるりと光って、前かがみの体勢でのぞき込まれる。
追い打ちをかけられて、俺の何かは簡単に折れた。
「……“せっかく君がいるのに”って考えてた」
そう、せっかく君がいるのに。キーワードはそれだった。
せっかく君がここにいるのに、俺は見ているだけだ。せっかくがいるのに俺はバトルしようとも言えない。ピカチュウみたく笑顔にしてあげることもできない。グリーンみたいにの話を引き出して、聞いてやったりもできない。いろいろと欲するものはあるのに、何かすれば君が俺に愛想をつかして逃げていくんじゃないかとおびえている。こんなの俺らしく無いよ。でも俺らしいって何だっけ?
もともと誰かと無意味に一緒にいることは苦手だ。立ち止まって二の足を踏むのも性に合わない。バトルを我慢する日なんて、ポケモンリーグのバッジゲートで弾かれて以来だ。
でもの前ではその苦手をやらざるを得なくて、俺なりに精一杯やっていて。俺、今すごく焦っている。すぐにこの両手を上に挙げてしまいそうだ。
「じゃあ、」
そう言ってがした行動にまた、心臓が無理な方向にねじれた。
が腰のモンスターボールを取り出したんだ。そして俺に向けてくる。
続けられる言葉は無いけれど、それは正真正銘のバトルの誘いだった。
「……しないよ」
とっさに出てしまった言葉に自分で驚いた。
もう一度、彼女とバトルしたいと思っていた。なのに、今ボールを向けてくるを見てるとその熱はしゅるしゅると抜けていく。なぜ。のこと、もっと知らなきゃいけないのに。そしてだって求めてる。トレーナーとしての俺を求めてくれている。
「レッドさんが、のぞむなら良いです」
また踏み込んで、はボールを突きつけてくる。
「バトル、しましょう。わたしとレッドさんがいて、できること」
そんな顔、しないでくれ。
悲しそうな瞳。ほんとうの君は、そんな顔でバトルはしない。本気で戦いを望むときのが持つ、目の光を俺はよく知っている。
そんな目をされたら、俺にだって分かる。君が俺とのバトルを望んでいないこと。
「しない、そんなのしないよ」
君が悲しむことなんかしたくない。
それに、俺は、俺は、そうじゃなくて、君と俺は、俺がのぞむのは、君は俺のこと、ああそんな痛そうな顔を、俺も、でも、けれどこんな、だってこう思うのは俺だけで、できることっていうのは、見えないよ、やっぱり、止まれ、順序つけさせて、だって、ちょっと待ってよ俺たちは、そんな、けど、そうだとしても俺は君のこと……。
容量越えの言葉で目を白黒させる俺にごめんなさい。それだけを吐き出して、は唇を噛んだ。目元に当てられた手の甲に、雪解けのものとは違う水があった。
背を向けた。
君が散らかしていった雪原で、俺は見つけた。ひどくシンプルなものを。ほとんどもう、死骸だけれど。