いまさら言葉にするのですか/10



 雪の積もった斜面を、ほとんど滑るようにして俺はシロガネ山を降りた。
じんじんと痛む足。雪で擦れたひじ。この時俺は、リザードンに乗るという方法は頭からすっ飛んでいた。楽な方法を考えることも惜しんで、ただ足を動かし、たどり着いたのはポケモンセンター。俺が下山したのはを追いかけるためじゃない。センターにある備え付けの電話を借りたかったからだ。
ジョーイさんの珍しいものを見るような顔で見てくる中、俺は受話器をもぎ取った。


「グリーン、俺」
『レッドか!? ちょ、ちょっと待て!』


悪いけど、ちょっと大事な電話だから、うん、めったに捕まらないやつから連絡がきたんだよ、すげえ重大な用事な気がするんだ、ごめんまたな、埋め合わせするからさ! そんなやりとりが電話越しにかすかに聞こえた。はやくしてくれ。その時間も惜しいというほど、俺は焦っていた。
はやく、ここから抜け出したい。情けなくてもなんでも良いから、吐き出してしまいたいことがあった。


『で、どうしたんだよ』
「もう無理だ」


矢継ぎ早とはこのことだ。グリーンが言い終わらないうちに、その語尾にくっつきそうなくらい早急に、俺は言葉を接いだ。


『…………ほんとに、どうしたんだよお前……』


グリーンの嘆くような声。でも、嘆きたいのは俺の方なんだ。


「グリーン、聞いてくれるか?」
『聞くだけ聞いてやる』


受話器から伝わってきた少し挑戦的な声。それを聞くことができたことが嬉しい。


「ようやく分かったんだ」


石でも飲み込んだみたく痛むのどと胸で、俺は柄にもなく目が熱を持っていくのを感じた。


「俺はがすごく好きみたいなんだ」






 バトルをしましょうと、彼女から持ちかけられたとき。鏡が俺を映し出すように反射的に思ったのは、“の中で俺はただのトレーナーなんだ”。
そんな当たり前のことだった。

 もちろん俺と彼女は同じ道を行く者同士だ。俺とを繋ぐのは紛れもなくポケモンだ。けれど、その当たり前のことに計り知れない嫌悪感を俺は持った。
こめかみに絶望がまとわりついて、のどまで嫌な気分がせり上がってきて、実は吐きそうになった。

“もっと、特別だと思っていた”。

次に顔を出した本音は自惚れにまみれていた。
にとって俺は、悪くない位置づけにいると思っていた。バトルには応じてくれないけれど、よく俺の近くに来てくれるし、帰りたくないと別れを惜しむような仕草に俺は期待を膨らませていたんだ。
その自惚れが、否定された気がした。しかけられたバトルに、わたしたちはトレーナー同士、それ以上でもそれ以下でも無いでしょう。そう言われた気がしたんだ。

それ以上なんだよ、。俺にとってはただのトレーナーなんかじゃない。
もう君がポケモントレーナーかどうかなんて関係無いくらい、特別に想ってる。
もっと近づきたいと思った人間はが初めてだよ。

ようやく気づいたんだよ。彼女が勝ったとか俺が負けているとか、そんなことはこの気持ちとは別のものなんだということに。

反射的に自分からバトルを断った理由も今なら分かる。俺はに、トレーナーとして求められたくなかったんだ。もっと違う関係を創りたかったんだ。競い合う者同士にはもう成り下がりたくない。俺はもっと特別に扱って欲しいって、彼女に望んでいたんだ。

ねえ、始めて会ったときは確かに君はひとりのトレーナーでしか無かったのに。いつの間に俺からこんな感情を引き出したんだ? いつの間にと思う反面、こうも思う。あの瞳を焼け付きそうだと鮮やかに感じたのは、ただ久しぶりに会うトレーナーだったからではない。彼女だったから。だったから、俺は痛いと感じたんだ。

 俺がグリーンに想いの全部をしゃべることは無かった。
たくさんの気づきが渦巻いていたけれど出てきたのは、俺はがすごく好きみたいだ。この一言だけ。

本当は受話器をとるまでは、全部吐き出してしまおうと思っていた。けど、グリーンの憎たらしい声を聞いたとき、ほんのひとかけらの冷静さが戻ってきたんだ。こいつはライバル。友達とはワケが違う。頼れるやつだけど、弱みを無闇にひけらかすこともない。


『おっっせー……』


 虫の羽音みたいにか細いグリーンの返事。声色には疲労がもたついていた。


「やっぱり、気づいてたんだ」
『大体はな』


そんな気はしていた。だって、答えはこんなにシンプルなんだから、グリーンが気づかないはずがない。俺だから、時間がかかっただけだ。


「……すごく単純だよな」


 単純にが好きなんだと分かったときは愕然とした。
好き。言葉にすれば見覚えのあるものになった。そんな簡素な感情に俺の心はのたうち回っていたのかと思うと、苦い気分になる。それでも心情的にはすごくマシだ。
俺の心情を拾ってグリーンは言った。


『自分で気づけて良かったな』
「うん。でも、俺はもう……」


だめだ。


『っなんでそうなるんだよ!』
とどう接したら良いのか分からない」
『今まで、普通に会ってたんだろ!? 今まで通りで良いんだよ!』
「こんな余分なもの持って、には会えない」
『じゃあ何を持ちゃ良いんだよ』
はトレーナーだ」
『それが何だって言うんだよ』
「ポケモン抜きの俺にが会いに来てくれると思う?」


単純に好きだと思っているのは俺だけだ。
トレーナーとかバトルとか、男とか女とか。が全部を飛び越えて俺を好きになってくれたら嬉しいけれど、そんな夢みたいな話、簡単に叶いそうもないのはすぐ分かることだ。


『おまえってほんと、当たり前なことばかりが抜けてんのな』
「………」
『思うよ。会いに来てくれるし、おまえのこと見てくれる。絶対に』


嘘をつくときとは反対の声色で、グリーンは嘘みたいなことを言った。


『言っとくけど嘘じゃないからな!』
「なんで、分かるんだよ」
『それは言えない』
「………」
『でもなだって、ポケモントレーナーの前に人間だろ。まあ、ちょっと目がヤバい時もあるけどな』
「にんげん……?」
『おまえ……、まさか忘れてたとか言うんじゃ……』
「そういえば、……」
『だぁーーーー!!』


グリーンが頭をかきむしったんだろう。ひどいノイズ音が受話器越しに聞こえて、思わず受話器を耳から遠ざけた。


「グリーン、うるさい……」
『うるさくねぇっ!!』


耳から離した受話器から飛んできた怒鳴り声はすさまじかった。その鋭さに、ジョーイさんの笑顔が一瞬固まったくらいだ。


『あのな、オレは人間、おまえも人間! ももちろん人間だ! ポケモントレーナーって生き物なんかじゃ絶対無いし、ポケモンでも無いからな!!』
「そうだった」
『“そうだった”じゃねぇよぉ……』


 雪か? 雪のせいなのか? もっと早くに連れ戻すべきだったのか?
うまくは聞き取れないけれど、そんなような言葉をこまごまと、グリーンが垂れ流す。少しすると大きな深呼吸が二回聞こえて、またグリーンは話しはじめた。俺の脳に刻み込むような深い口調でグリーンは言う。


『レッドおまえ、いろいろ忘れ過ぎ。オレとおまえの間に最初っからポケモンがあったか? 違うだろ? 今はもうほとんどバトルしなくなったけど、オレとおまえはまだ繋がってるだろ?』
「うん」
『もっと言うなら、おまえとおまえの母さんの間にポケモンは無いだろ? ポケモンでつながってるわけじゃないだろ?』
「うん……」
『だからさ、おまえともポケモン抜きで向き合うことができるんだよ』
「できるかな」
『できる。おまえらなら、人間同士として付き合えるよ』
「………」


グリーンの声を聞きながら俺は思った。人間同士として付き合える。この言葉、すごく良い響きをしている。
がそういう風に近くなったなら。衝動のまま、たとえばその手に触れたなら。そんな想像だけで、目の前が少し明るくなる心地がした。


『レッド。この際だからもう一歩、前進しろよ』
「前進?」
『自分の気持ちが分かったんなら、次はの気持ちを分かってやれ』
「……はあまりしゃべらない」
『おまえが言うか、おまえが!!』
「じゃあ」


どうしたら良いんだろう。
の気持ちを理解する。自分に気持ちがようやく分かったばかりの鈍感な俺には、ひどく難しいことの気がする。


『良いだろ、別に。会話なんかなくたって。そこはおまえと、おまえのポケモンと同じだよ。人間も言葉なしに通じあったって良いだろ?』
「そっか」
『もし、にしゃべってもらいたいなら自分から話しかけろ』
「うん」
『つーか会いたいなら自分で会いに行けよ!』
「うん」
『むしろ男なら、トレーナーであることを利用するくらいの甲斐性見せやがれ!』
「分かった」
『……一回しか言わねえからな』
「ん?」
『応援してるぞ』


その言葉を捨て台詞にして、唐突にグリーンの電話は切れた。ブツリ、そしてツーツー。その音を後ろに聞きながら、グリーンの言葉を俺は反復した。
応援してくれてるの、知ってる。ただ、相手に持ってる感情を全部を口にする間柄じゃないだけだ。


“感じたまま素直にやれば良いんだよ。相手がトレーナーだってこと、自分がトレーナーだってこともすっかり忘れた方が良い。ただの男に戻るんだ”


それは以前、グリーンが俺にくれた言葉だった。今になってこの言葉が強く反響する。グリーンは最初から俺に足りないものを教えてくれてたんだ。


“感じたまま素直にやれば良いんだよ”

“ただの男に戻るんだ”


うん、やってみるよグリーン。俺は好きな女の子と、人間同士として向き合いたいんだ。そんな欲望を俺は叶えたいんだ。