靴ひもを結びなおした世界では、様々なものが鮮やかだった。いつの間に景色は感情と表情を得たのだろう。顔を上げると、俺の視界の中であらゆるものが波立った。たとえばシロガネ山の肌にはやるせない感情が息づいている。吹きすさぶ雪は次から次へ舞い、落ち、ほかの雪と同一になっていく様子が無情だなと感じるんだ。それに肩を落としながら一つ、ついた息が、白を重ね塗りする。そうして濃度を増していく白色にまた、ため息が続いてしまう。
見える景色は様変わりした。俺が持ち合わせているのは以前と何も変わりない、同じ瞳なのにこうも見えるものが違うのはどうしてなんだろう。
俺の視界は色のまぶしさでいっぱいで、頭の中はなぜ、どうして、なんて問いかける興味でいっぱいだ。
たとえばどうして、この足は重苦しいんだろう。きっと踏み出すことが怖いからと思う。なら俺は、何を怖いと思っているんだろう。一番重くのしかかる興味は、が俺をどう思ってるかだ。気になってしょうがない。君が眼に映す世界の中で、俺はどんな風に見えているんだろう。少しくらいはただの男の子と思って見てくれただろうか。
誰か人間を、特別好きになるということ。その苦しさを俺は自分の呼吸に感じていた。頭の中で彼女の名前がちらつくだけで鎖骨と鎖骨の間が苦しくなった。彼女本人が俺の前にいるわけじゃないのに、どうしたって言うんだろう。
どうしても浅く、か細くなってしまう呼吸を抱えながら、踏み出すつもりで結びなおした靴ひもを俺はずっと見つめている。靴ひもは雪に濡れていて、ぐったりと冷たかった。それを触った俺の指も着実に体温を失っていった。
臆病者の心なんて味わったこと無かったな。これも、俺がを特別好きになってしまったために起こっているみたいだ。思えば今だけじゃない、ここ最近の俺はずっと臆病だった。シロガネ山に途方もない寂しさを感じたのも、結局はを好きになったからなんだ。
すべてをを好きになったせいにするのもどうかと思うけれど、俺にはそれしか原因が見あたらないんだ。俺をここまで変える存在なんて、そうはいない。
「レッドさん」
そして君は絶妙なタイミングで現れる。正直に言うなら、決意を固めたその時には現れたのだった。俺が待ちきれなくなったあたりで来るところが、本当に絶妙だ。
どんどんと臆病になっていく俺とは反対の方向に、という女の子の感情はうごめく。やっぱり君って良いな。うらやましい。俺と同じ生き物だなんて、思ったことが懐かしい。
俺の全神経を注がれているなんてことは知らないまま、彼女は告げた。
「お別れです」
別れの言葉を言いにきたのか。
ずっとつなぎ止めようと必死になっていた彼女が、さよならを告げようとしている。なのに俺は不思議と冷静だった。頭の中がすーっと晴れていくのを感じていた。
驚かなかったわけじゃない。さよならの言葉、予想できたわけがない。
ただ、自分のことがどうでもよくなっていくんだ。彼女の目の中に迷う表情を見つけて、足踏みするただの男なんてどうでもよくなる。俺の求めていたことがどうでもよくなる。ただの冷たい色した感情を取り去ってあげたくなる。
とっさにバトルを断ってしまったあの時と同じ感覚だ。まるで巻き戻されたかのように同じ。
「お別れって、どうして?」
「これから本当のことを言うから、です」
「………」
「ごめんなさい。でも、聞いて」
謝罪を口にするの顔は、もっと別の感情を浮かべていた。
涙ぐんでいる目に煽られるものを感じてごくりと生唾を飲んだ俺に、追い打ちをかけるようには続けた。
「レッドさんが好き」
受けた衝撃を、なんていう言葉なら表してくれるんだろう。
「初めてあなたの目を見たときから好き」
指先、鼻先、つま先に宿っていたかじかむような寒さが消えていく。体が体温を忘れていく感覚だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あなたにとってわたしはただの行きずりのトレーナーだって、分かってます。でも言いたかった」
「わたしはもう、レッドさんの前でトレーナーでいられません。どうしても、あなたの前ではただの女の子でいたいって思ってしまうんです」
「バトルなしに会っても良いってわかったとき、ほんとうに嬉しかった」
「好きになってしまって、ごめんなさい」
「わたしは、もう、だめです」
重ねられるごめんなさいの言葉を聞きながら思った。こんなやりとりを、どこかでしたことがある。
「気持ちが、ぐしゃぐしゃなんです……」
が溢れさせたどの想いも、俺は抱いたことがある。
「ねえ」
俺の声には肩を震わせた。小さく縮こまる彼女を見て俺は思った。これから告げることが君にとって暖かいものだと良いな、って。
に語りかけるのだと思うと、途端にほぐれていくのどで俺は告げた。
「全部おなじ」
そう、同じだ。鏡を見ているように同じだ。
初めての目を見たときからが好き。
自分はにとって行きずりのトレーナーでしかないだろうとあきらめたのも同じだ。
君は俺に何の興味も無いだろうと何度思ったか。
俺だってずっと、ぐしゃぐしゃな気持ちを抱えていた。
同じように俺は自分の気持ちを吐き出したくなってグリーンに電話をかけた。
もうだめだ、と自分を嘆いたところまでおんなじ。
「おなじこと思ってたよ。俺もが好き。好きだったぶん、すごく不安だった」
ただひとつ君と違うところがある。
「俺は、を好きになったこと謝らないよ」
苦しみも、きらめきも。君が持ってきてくれたものすべて、永遠であって欲しい。
「ありがとう、好きになってくれて」
想いのまま、俺は君を抱きしめた。