好きな女の子がえっちだった。だって彼女の方から僕を襲ってきたんだから、普通を外れてえっちだ。僕がホウオウに認められるという夢に破れて、ホウオウを諦めたわけではないけれどこれからはもう少し普通の人間として生きていくことになるかもしれないと告げたその日の夜、彼女は勝手に家に侵入した。そして僕は俗に言う夜這いをかけられた。
 布団で眠る僕の上に、のっしと乗ってきた誰かにいきなり寝間着を闇雲に引っ張られたのだから驚いた。
 ぼんやり目を開けると必死になって僕を脱がそうとするちゃんが映った。


ちゃん?」


 彼女は返事をしない。
 暗いせいで顔がよく見えないのだけれど、う~っ、と唸る声が湿っている。と思ったら口づけられた。えっちだけどキスは上手くない。鼻がぶつかる、子供らしいキスだった。


「どうしたの?」
「我慢できないのっ」


 我慢できないからってこんな行動を起こせるものなんだろうか。
 そもそも何で我慢できなくなるほど溜めたんだか。だって彼女には同い年のつきあっている男の子がいるはず。なぜ僕をわざわざ襲うのだろう。


「彼氏は? どうしたの?」
「それは……」
「上手くいってないの? 話、聞くよ?」
「黙って。マツバくんが、いいのっ」


 そう、とだけ反応して、僕は彼女がしたいようにさせてあげることにした。
 どうやら僕が彼女が求めているのは良いお兄さん役ではなく、もっと実質的な男性というものらしい。

 彼女は力任せに僕の胸元を外気にさらすと寝苦しさと驚きとでじっとり汗をかいた首筋を舐めてきた。うええ。男の首って美味しくなさそう。

 前なら強く「だめだ」と言えていたんだろうな。不本意ながら終わった僕の役目、遠ざけていた物事が僕を飲み込む。
 これが、まっとうな人間の入り口、だったりするんだろうか。



 ちゃんをなんと説明したら良いんだろう。近所の女の子、っていうとちょっとそっけなさすぎる。小さい頃から知っているけれど、彼女はいつつも年下。幼なじみとは思えない。
 人には言いづらい表現だけれど、ちゃんは“僕を好きだった女の子”。そういう分類。
 何かと近くに寄ってきて、僕に力いっぱい飛びついてくるような女の子。僕を見つけたら、にんまりと笑いながら横に座って、手のひらを合わせて「マツバくんの指、長ーい!」なんて発見で無邪気に笑う女の子。目が合うとキスを待つ顔するおませな女の子。突然「マツバくんの愛が欲しい! 結婚して! わたしは真剣なんだからね!」とか、言い出す女の子。その頃のちゃんを思い出すと、僕は一緒にムウマの仕草を思い出す。ちゃんはムウマっぽいところがあるからだ。それがちゃんの初期。

 中期ちゃんは、突然僕を好きでいるのをやめてしまった。相変わらず僕を見つけるとすぐ近くに寄ってきて、勝手に横にちょこんと座ったりはするんだけど、抱きついたり僕の手をとったりしなくなった。言うことも変わった。「彼氏がね、」。それが枕詞。どこかで彼氏を作って、ちゃんもその人の彼女になった。
 ちゃんはいつの間にか僕以外の人を好きになったらしい。僕と結婚したいというのも言わなくなってしまった。代わりに、つき合っている男の子のことをたくさん教えてくれた。

 僕はちゃんのこと、最初は可愛い、と思っていた。ことあるごとに笑顔を向けて、僕のタレ目を引っ張って遊んだと思ったら何かがツボったみたいで畳の上笑い転げたりする。
 僕のちょっとしたところばかり拾い上げて、勝手に幸せそうな表情を浮かべる、口を大きく開けて笑う。その幼い顔を次第に愛しくて大事なものだ、って思うようになった。でもその次の感情を持つことはしなかった。
 ちゃんのことは嫌いじゃない、むしろ好きな方だと思うんだけれど、僕はちゃんと出会う前からとっくにホウオウのために生きることを誓っていた。そんな僕の人生に恋心は邪魔だと分かっていたから、決意の前にちゃんを好きな感情は頭打ちを起こしたんだ。

 好きなんだけど、どうでも良い。愛着があるんだけど、他の人にとられても心が動かない。僕の生い立ちは、そんな説明しても分かってもらえなさそうな感情をちゃんに抱かせた。

 だから、ちゃんがあっさり僕以外の人を好きになった時も、何とも反応しづらくて「そうなんだ」って味気ない返事ばかりしていた。そうするとムキになって僕の反応を引きだそうとするちゃんをやっぱり可愛い、とだけ思っていた。 僕のこと好きじゃなくなって、僕の愛ももう欲しくない女の子。ちゃん。だけど今僕を襲っている女の子。
 着物を脱がすのに疲れちゃったのか、お腹の上に頭を乗せてきた。


「これほどけない……」


 僕の腰紐が上手くほどけないらしい。暗闇の中、闇雲に引っ張ったせいで結び目が硬くなってしまったようだ。熱っぽいため息が当たる。おでこ、指先、ふともも、その他擦れ合う肌と肌。ちゃんの体温が子供みたいに熱い。


「どうしてそんなにしたいの?」
「………」
「やっぱり、僕話聞くよ。何か悩みとか、足りないものがあるんだったら、僕を代わりにするんじゃなくて、ちゃんとちゃんが満たされる方法を……」
「代わりじゃない!」


 大きな声がお腹に響いた。僕からは泣いている時みたく丸まった背中だけが見える。


「マツバくんは、代わりじゃない! マツバくんが欲しくて来たの!」
「………」
「い、良いでしょ……? 体だけでも繋がりたいの……っ」


 その言い方だと、まるでちゃんがまだ僕を好きで、片思いをしているように受け取れる。「体だけでも繋がりたいの」の言葉が僕の中で重く響きわたって、内側から体が熱くなるようだった。


「……ちゃん、彼氏は?」
「っ何年前の話してんのってカンジ!」
「そんなに昔? 上手くいってるんじゃなかったの?」
「どうして頭良いくせに嘘だって見抜けないの!? ばかっ!!」


 そう言い切るとちゃんは腰紐に噛みついた。ああ、僕の服がめちゃくちゃ。暴れる彼女の手首を掴んで、服から剥がす。お腹の下を触ってみるとちゃんが噛んだせいで濡れていた。
 僕は濡れていく指先に力を入れ、硬くなってしまった結び目をほどいてあげた。


「はい、出来たよ」


 それを見ていたちゃんに笑ってみせると、薄暗い中でも伝わったようだ。ちゃんは不意を突かれたような顔をした。あ、可愛い。僕の好きなちゃんの顔。
 肘をついて起きあがる。土台が勝手に動き出して、ちゃんも後ろに肘をついた。

 僕は夢に破れて、ホウオウを諦めたわけではないけれど、これからはもう少し普通の人間として生きていくのかもしれない。そう口にしながら、僕の心は僕を離れどこか浮遊して、ついてきやしなかった。

 次の朝が来たら、狭いところに閉じこめたままだった頭打ちの感情に、明るい方に出口があると教えてやろう。
 きっとこれが、人間らしい人間の入り口。

 ねえ、ちゃん。僕の愛を貰ってください。