「もう耐えられません」
用意したばかりで湯気のたつお夕飯の前、箸を握りしめ黙り込んでいた彼女は急に固い声を出した。声が震えていることは全身で感じ取っていたが、僕が何を言う前に彼女は二の句を告げる。
「この家から出ていきます。さようなら、マツバさん。今までお世話になりました」
お浸しの小鉢、白いご飯、三つ葉の浮かぶ汁物、野菜の揚げ物。全て残して上着も羽織らず僕の奥さんはこの家から消えた。月の丸い夜のことだった。向かいに座っていた人間がいなくなりがらんどう。居間が呆けている。箸の先はお椀に沈みたっぷりと汁に濡れていて呆然と引き抜くと滴が垂れ沈殿した味噌の塵を巻き上げた。
その椀の中の小爆発を呆然と見てふと顔を上げるとのいた場所にゲンガーがいた。赤く濡れた舌を垂らして苦く笑っている。彼は主人が失態を犯したことをよく分かっているようだ。
「もう耐えられないと言っていたね」
突然であった。突然でありながら分かっていたことでもあった。お嫁さんが家を出ていく。それは僕が察しが良すぎる人間であることを差し引いて想像し得る出来事であった。なぜならと僕は恋愛の果てに結婚した夫婦ではなかったからだ。打算的に軽率に愛情を抜かして、代わりに酷く世間体を気にして婚姻関係を結んだ非常に誠実を欠いた間柄であった。こっくりこっくりのどを大きく揺らし小鉢の中をすっかり片づけながらも僕の考えを占めるのはやはり奥さんのことである。
僕との生活はさぞ息苦しかったのだろう。元々お互いに理解の足りない間柄のまま一つ屋根の下へ住みその足りない理解を埋める時間を過ごさぬまま程々の距離を保つことで家庭の調和を試みた、そんな夫婦だ。現に僕は彼女が何かに耐えていたことすら気づいていなかった。お互い深くに関わりすぎないということが僕らの間で保つ秘訣であった。お見合いの時僕は彼女へ訊ねたのだった。なぜあなたのような人が――あなたのようなと言ったのは、僕の目にはどうも彼女が恋を知る乙女に見えたからだ。年齢もまだ若かったしお見合いで結婚を急く理由が僕には察しがつかなかった――お見合いをしようとしたんだい、大人しく座って僕にこうして笑んでくれているところを見るともしかして自分で望んだことなのかいと。はけらけらと笑って言った。惚れたはれたは自分の柄ではないが結婚をして親を安心させたい。つまりは体よく風避けをしてくれて落ち着ける場所を探しているのです。僕はそれにのっかった。利害関係が一致していると踏んで彼女をひっかけた僕は商人のように調子が良かった。
とどのつまり僕ももそれは利害関係を一致させた卑しくも心地良い共同体。同盟関係と言って良い。盟約はこうだ。二人で結婚して煩わしい世間の目をのらりくらりかわしましょう。形式に縛られた本人達の意志を無視した婚姻はすでに過去のものと多くは言うが、このような夫婦関係を結ぶことで僕らは生きるに易い方へ流れたのだ。
しかし互いに承知で選び取った夫婦生活は、僕がすぐ近くに居る生活は彼女にとって生き易いものではなかったようだ。
ゲンガーの目が小鉢に移っている。十分な食事を与えているのに赤い目が食欲を宿していた。
「残しておいてよ。彼女の分だから。食べに帰ってくるかもしれない」
そう言うとゲンガーはすうと姿を消した。
そうさ帰ってくるかもしれない。僕は箸を置き彼女を待った。しかし玄関の戸は音をたてない。
例えこれが破綻の始まりとしても今はまだ僕はの夫なのだから出ていった彼女の行方を確認すべきだ。義務感に動かされ僕は久しく彼女の実家へ連絡を入れた。女性が出ていく場合身を寄せるのは大方生まれ育った家だろう。そう踏んでのことだったが応答した義母は何も知らない様子であった。「マツバさん、いつも娘がお世話になっています」から始まり我が子の良さと短所という名の彼女の愛嬌をとくとく語るのみであった。
お見合いの席で親を安心させたいと告白したの声と義母の娘の幸せを信じてやまない声とがまた僕を責めた。また彼女の行き先が実家でなかったことに僕は落胆した。そして動揺した。もしや他の男の元へ行ったのか。
僕が動けないでいる間も時間は過ぎる。ぼおんぼおんと時計が零時を告げた。日付が来ると諦めがついてくる。そうか彼女のいない生活が始まるのか。やはり僕は呆然と食事を再開した。耐えられないと表現したのだから何か、僕に落ち度があったのだろう。しかし彼女の作ったものを咀嚼燕下しながらぽつぽつと考えたが、彼女の悲しみを理解することには笑って仕舞うほど繋がっていかないのだった。因果の因を突き止める手前、彼女が出ていったという事実に僕の思考は躓く。食器を下げ部屋を移るとひとつ分の布団が敷いてあった。ああ食事の前に彼女が用意してくれば僕の寝床だというでも良いことを思いながらその白い波に身を投げた。
翌日僕は至極凡な一日を過ごした。朝は乾麺を茹でて食べた。変わらず決まった時刻に家を出た。僕が平常通りであれば仲間だって態度を変えることは無かった。夕方になれば僕は彼女のいない生活を冷静に見据えていた。夜も乾麺というわけにもいくまい。もう彼女が帰ってこないことを考え十分な蓄えを得て僕は帰宅した。
はまだ連絡が取れない。だが実際僕は彼女無しでも十分にやれていた。
嘘だ。至極凡な一日というは真っ赤な嘘だ。昨夜から僕の日々は非常の日々だ。
他の男の元へ行ったのかというはたと思い当たれば瞬時裏切られたのだろうか懸念があちらこちらへ残響し、昨夜僕は急須を割った。その破片を片づけている間、指をざっくり切り痛みにおののいて体を引いた時に湯呑みまで割った。思い返す中で己は裏切られたという想いを抱く資格のない夫だったことを思い知り吐き気に襲われた。ふらふらと廊下を行き来しては裸足で外に駆けていき彼女の名を大声で叫びたい衝動に身悶えた。戸を開けては閉めて部屋にがいないことを知っては胸が掻き毟られるような思いに駆られ夜は眠ることなどできなかった。呆然と朝を迎えて見つけた乾麺にすがったが鍋を吹きこぼし台所を盛大に汚した。そして僕はが冷蔵庫に残されていた丁寧に外皮の剥かれた果実に舌を慰められた。周りの気遣う感情その波に僕が気づかないわけがない。彼女手製の弁当を持たない僕を気遣って皆は弁当を電話でとってくれたのだ。皆、僕が平常通りでいられるよう振る舞ってくれていた。帰宅の途、僕が買い込んだものを誰か見てくれ。全てが好きだと教えてくれたお菓子なんだ。
何が耐えられなかったんだ。何を耐えていたんだ。想いの量はいつのまに天秤を壊したんだ。この人と結婚して良かったと思っていたのは僕だけなのだ。なぜこの人が僕と結婚するに至ったのかは分からないが何とも引き換えようの無い幸運な巡り合わせを得たと思ったのも僕だけか。家族になることを夢想したのは。他の誰でもなく僕の横に落ち着いてくれたことに感謝を唱えたのは。僕だけか。
彼女は僕にもう幸せを与えることに飽きてしまったのだ。この思いどうしてくれよう。何でもない日々に募らせた想いがここへ来てずくずくと脈打つ。僕から逃げていくのなら彼女を痛めつけることもいとわないと、一晩で僕の感情は激動していた。
どうして別れがこんなにも彼女のことを僕に刻みつける。夕食を抜いて彼女の好きな甘露を胃がむかつくまで食べて糖が回って、ぐわあんぐわあんと脳をかち割らんばかりの痛みが広がっても甘露をむさぼって僕は意識を手放した。
僕が目を覚ましたのはしっとりと冷たいシーツの上だった。毒が回ったように手足の神経が鈍っている。静けさから時刻は深夜だと思われた。居間で昏倒したものと思ったけれど僕は自力で布団まで戻ったらしい。裸足のつま先を動かすとぴんと貼られた布地の上を指が滑っていく感触で、僕は、は、と水を打ったように意識を取り戻した。
昨夜一睡もできなかった僕は布団をぐしゃぐしゃにしたまま家を出たのだ。の喪失に直す気すら起きなかったことを覚えている。僕が混濁する意識の中布団に飛び込んだというのなら、シーツなど全て乱れ剥がれていれもおかしくないというのに僕は真新しいしわひとつないシーツの上に寝ている。おかしい。ふらつきながらも僕は起きた。まだこの家に彼女がいるような気がした。
真っ暗な家の中、台所の明かりがついていた。凍てつくつま先でおそるおそる近づきのぞき込んだ先に僕の奥さんはいなかった。けれど切り立ての青菜の張り付いた包丁。僕が暴食をした甘露の包みが捨ててあった。鍋を吹きこぼしたあともなく、彼女はここにいなかったという嘘には無理があるほど彼女で溢れていた。
「」
台所の奥、勝手口を少し開きその先に声をかける。
「そんな寒いところにいてはいけないよ」
夜風に吹かれるか弱い背中。求めていた姿にひきつる喉。一番に絞り出された声はを気遣う言葉を紡いでくれた。そのことに僕は酷く安堵した。嗚呼まだ優しい面の僕でいられる。
しかし出せたのは声だけで夜風の冷たさに顔を真っ白にさせたに駆け寄る足は僕に無かった。
「帰ってきたのかい。それとも、おつきさまみたく実はずっと隠れていたのかい」
後付けで考えた後者の方が僕には真実には思えた。彼女は実家にも帰らなかったし、ちょっと帰ってきたにしては僕が似合っていると褒めたスカートを履いていた。冷蔵庫に入っていた皮の向かれた果実は彼女が今みたく深夜に忍ばせたものかもしれなかった。
それならば彼女は僕の狼狽ぶりをよく見ていたことだろう。一部始終を見られていたとしても恥など感じない。あの無様な姿が君を失った僕のありのままなのだ。
「帰ってくる気はないのかな。僕は、そこまで聡い人間じゃ、ない。聞かせて欲しい。何が耐えられなかったんだ。僕の、何がいけなかったのかな」
蜘蛛の糸を求める僕には無言を貫く。何も言ってもらえないことほど困ることは無い。それは僕に出来ることなど何もないお前は救いようが無いのだ努力を重ねようと結果は変わらないのだと、暗に伝える手段なのだから。
「男女間で埋めようのない事柄かい。それとも、好きな男でもできたのかな」
僕が嫌になるくらい巡らせた考えを口にすると深く眉根を寄せたはしばらく何も言わなかったが決心したように口を開いた。
「マツバさんにこれ以上嫌われたくなかったんです」
乾いた唇。内側の粘膜がもっちりと開きそこに涙が入り込む。
「マツバさんのことだから気づいていたでしょう。マツバさんに好かれたくて嘘を重ね媚びへつらい始めた私に」
知りやしなかった。その考えは彼女が僕を好きだという前提に成り立つ。僕らを繋いでいたのは恋慕じゃなかったはずだ。
「僕たちは夫婦だけれど愛し合うような関係だったかな」
「ええ、違います。でも私は愛していました。マツバさん。驚いていますね。それもすごく。ごめんなさい、ほんとう軽率ですね。何もかも」
の言うとおりかもしれなかった。僕たちは時間をかければ恋人としての期間を過ごせたのだ。お互いを理解し、蜜月を味わい、僕は彼女の幸せを願い、幸せにすると囁きながら求婚できたはずなのだ。
「君のいない一日を過ごす僕を見ていたかい。もう二度と味わいたくない不幸せを感じながら過ごしたよ。君は、どうだった」
「隠れててもあなたのために過ごす時間が幸せで、ばかみたい。それでも私おつきさまになりたいと願ったの」
そんなのだめだ。おつきさまになったらだめだ。僕は裸足で駆けだした。君がそう言うなら僕に方法がある。彼女が月に戻らないようまじないを唱えるのだ。愛してる愛してる。僕に幸せをおくれ。