つい三日前のことだ。
ズミの真似をして、もったりとしたクリーム色の生地をフライパンの上に落とした。きっとできると思った。わたしは同じようにキッチンでクレープを焼くズミの姿をこの目に焼き付けていたのだから。
彼になりきれば、わたしだって芸術足り得るそれとはならずとも、近いものを作れると思ったのだ。
「でも失敗しちゃった。クレープすら、ズミみたいには作れなかったよ。ひっくり返すタイミングが分からなくて、結局めちゃくちゃに焦がした」
本日もわたしの家のキッチンに立つズミは、眉をひそめて振り返った。前を少しあけたシャツ。普段用の細身のパンツ。ただこの人の鋭い眼光は、バトルしている時も料理を作っている時も、オフであろう本日お昼過ぎも変わらなかった。
「フライパンもダメにしちゃった」
わが家からひとつフライパン消えたことはズミも気づいていただろう。あの子は、クレープと一体化してしまったので捨てざるを得なくなったのだ。
蒸気と昼間の光で曇る我が家。
床に寝そべっているわたしを、ズミは忌々しいもののように見下す。
「それが今回の自殺理由ですか」
「自殺じゃないよ」
確かに落ち込んだけど。ズミの選んだ言葉ほど過激じゃない。
「すぐそういうこと言う」
「三日もこの部屋に横たわっていた。食べることも飲むことも何もしなかったでしょう」
「現代人にありがちですね」
「これであなたが趣味に興じていたのなら、私だって現代病で片づけました。けれどあなたは違う」
ズミの眼が怖くて、ここから逃げ出したいと思う。けれど思うだけだ。わたしは逃げられない。それはズミの存在が特別な拘束力を持っているからじゃ、ない。
単純に、わたしは起きあがれないのだ。三日間、何もせずここで静かに、呼吸を捨てられないかなと思っていたわたしには、立って逃げ出す力は残っていなかった。
「……ちゃんと食べてたよ」
ズミと同じようなやりとりは何回もしてきた。ズミの言いたいことがどことなく分かっていた。
この肉体じゃ逃げられないので、わたしは言い訳をする。言葉で逃げるのだ。
「ズミが思うほど量が少ないだけ」
「生憎と、冷蔵庫の中身。位置が何も変わっていない。ジュースですら減っていない。ゴミも全く増えていないので買ってきたという言い訳も聞きませんよ」
「……お水おいしいもん」
「もっと早く来れば良かった」
「あと三日は保ったもん」
「減らず口が」
「本当のこと」
「このズミが、毎日来てあげても良いんですよ」
「え、それはいやです」
「………」
「………」
「なら、どうにかしてください」
「どうにかなってます」
「ちゃんと、私がいなくても良いと思えるあなたになってください」
キッチンがいっそうの湯気を吐いた、と思ったらズミも吐き出すよう言った。
「できましたよ」
ズミが作ってくれたのは丸く白い根菜を蒸し煮にしたものだった。
甘く蒸気が行き渡ったのに、その形を完全に残した、煮崩れる直前の野菜。傷ひとつなく、中から絆されたそれに、透明なスープがかけられている。
ズミはいつもこうだ。ダメ人間相手に妙に手間を尽くしたものを出す。神経の行き届いた料理を差し出して、以後は何も手伝わない。その三白眼でわたしが食べるのを監視するのだ。
スプーンを入れると、彼は中にソースを仕込んでいたらしかった。うまみを蓄えたそれが、とろりと根菜の溶けた肉体を伝った。薄黄のオイルが少量浮いたスープは、ほのかな塩味がした。三日間の投げやりな生き方のせいでわたしはカラカラで絞り出すものなんて無いのだが、わたしの目頭が、泣きたいと、言っていた。
「ズミ」
「はい」
「これ、おいしい。わたしにも作れるかな」
「あなたには無理です」
「そう、だね……」
ズミの言うとおりだった。
薄力粉を水と混ぜて焼くことすら出来なかったのわたしにはもう何も作れやしない。
「ズミ」
「はい」
「どうしてわたしを嫌いにならないの」
「それは、……それは、私の言葉です」
ズミの言うとおりだ。ズミは目を閉じる。いつも怖いと感じている瞳が姿を隠すと、わたしはその人に同情を感じる。
「ズミ」
「はい」
「クレープ。焦がしちゃった」
「迷うから焦げるのですよ。あなたは失敗を極端に恐れるから」
「ズミみたいになれなかった」
「私みたく可哀想な人間にならなくて結構」
全部全部ズミの言うとおり。
その後、わたしがスプーンを置いてもズミは許してくれなかった。代わりに彼がスプーンをとり、わたしの咥内へ料理を運び続けた。ごめんなさいと言っても、もう無理だと伝えても。採ったものの熱が血に巡り、体温を取り戻したわたしが彼の傍らで眠るまで、ズミは許してくれなかった。