三日前、私が訪れた時には平常だった彼女がまた自らを粗末にしたことについて問いただせば、彼女は、三日前の出来事としてクレープを焼いたことをぽつりぽつりと話し始めた。
私はキッチンの中からそれを聞いていたが、話の顛末にはため息すら出なかった。のっけから、しょうもない話のような気がしていたが余りにもくだらない。
「失敗しちゃった。クレープすら、ズミみたいには作れなかったよ。ひっくり返すタイミングが分からなくて、結局めちゃくちゃに焦がした。フライパンもダメにしちゃった」
私の真似をして、クレープを焼いた。彼女にしては久しぶりに起こした前向きな行動が裏目に出たようだった。
彼女は最愛の人を失ったあの出来事以来、ひとつの失敗で自信の全てを失う。愚かなくらい、脆い人になってしまった。
「それが今回の自殺理由ですか」
自殺という言葉は全く過激ではない。たとえそこに死の意識が無いとしても、死へ向かっていくのなら、それにあらがおうとしなかったのだからそれは自殺だ。彼女は飲まず食わず自らの生命活動を放棄しようとしたらのだから、そこに自死の選択があったのは間違いない。
毛布にくるまり床に横たわる彼女を見ていると、罵りが口を突いて出そうになる。
「自殺じゃないよ。すぐそういうこと言う」
「三日もこの部屋に横たわっていた。何もしなかった」
「現代人にありがちですね」
「これであなたが趣味に興じていたのなら、私だって現代病で片づけました。けれどあなたは違う」
「……ちゃんと食べてたよ」
同じことを繰り返し伝えているのだから、彼女は私が何を言いたいかを分かっていた。自ら白状したのだから申し訳なさは感じているらしい。
「ズミが思うほど量が少ないだけ」
「生憎と、冷蔵庫の中身。位置が何も変わっていない。ジュースですら減っていない。ゴミも全く増えていないので買ってきたという言い訳も聞きませんよ」
「……お水おいしいもん」
「もっと早く来れば良かった」
「あと三日は保ったもん」
「減らず口が」
「本当のこと」
本気の悪口が出たというのに、はやり彼女は懲りない返事をする。
「このズミが、毎日来てあげても良いんですよ」
「え、それはいやです」
減らず口の、死に損ないが、自分の状況も分からず即答をする。
怒りが昇りきらなかったのは、私がそう返ってくることを分かっていたからだった。分かって、嫌がらせのつもりで出した言葉だった。
「なら、どうにかしてください」
「どうにかって」
「ちゃんと、私がいなくても良いと思えるあなたになってください。できましたよ」
何か言いたげである彼女を無視し、わたしは皿を出す。鍋から盛りつけてテーブルへ運ぶ。
床に寝ていた彼女は本当に人間の形をしたゴミのようなのに、こうしてイスに座らせると彼女は辺りに美しさを宿らせる。
光を吸い込む髪。白いがどこか影を内側に宿して見える肌。
表舞台へ出せば狂った人物ばかりを引き寄せそこで賛美を浴びたでろう。見せ物としての才を受けた生来の、哀れを誘う肉体の持ち主。それがだった。
明るく笑っていた頃の彼女、そして大切な人を失い変わってしまうまでの過程を知る私は、心の底から彼女の美しさを忌々しく思う。彼女は悲劇をアクセサリーのように身につける。不幸に彩られる。退廃をロマンスに変える。それを彼女が無意識に行っては私を誘うのだから、私の苛立ちは止められない。
彼女はどうしようも無い人間だ。減らず口で、かんに障ることばかりを喋る。前の男のことを未だに引きずっている。私の心を分かりやしない。
なぜ私はこの女が好きなのだろうと、よく腹が立つ。
しかし私は、この人に料理を作るのが好きなのだ。
私が自死寸前の彼女の前へ現れ、手間を惜しまない料理を振る舞うのは、半分は中途半端なものを作りたくないというプロ意識だ。
けれど半分は、わたしの料理を一番美しく食するのが彼女だと知っているからだ。
飢えた人は多くいる。私の料理を美味しいという人も多く存在する。しかし飢えながらも美しさを宿し、私の料理を必要としながら食事する姿で私の美意識を唸らすのは彼女だけであり、私はそこに確かな芸術を見いだしているのだった。
「ズミ」
「はい」
やがてスプーンを持つ手を止めたは震えた声を上げた。
「これ、おいしい。わたしにも作れるかな」
「あなたには無理です」
「そう、だね……」
無茶を言う。私が地反吐を吐いて手に入れた食材に対する感覚を、どうやっても彼女が身につけられるはずがない。
「ズミ」
「はい」
「どうしてわたしを嫌いにならないの」
「それは、……それは、私の言葉です」
忌々しい問いだった。あなたを嫌いになれないこの状態は、私が一番腹立たしく思っている。
ここまでしてやっているのに以前の男を忘れられず人間として堕落していく愚か者を、なぜ私は頭の中から追い出せないのだろう。
彼女が厄介な美しさの持ち主でなければと思う反面、唯一無二を持ち合わせた彼女に出会えたことを私は今でも感謝している。
私は、彼女の不健全故に宿る芸術を食い物にしているのだ。本当は離れなければいけないなと思うのに、私が彼女を忘れたことなど無い。
「ズミ」
「はい」
「クレープ。焦がしちゃった」
「迷うから焦げるのですよ。あなたは失敗を極端に恐れるから」
「ズミみたいになれなかった」
馬鹿馬鹿しい。彼女の考えは隅々まで全く馬鹿馬鹿しかった。彼女は私になれなかったと言うが、なれなくて当たり前だ。
彼女は、私が重ねた修行と努力を知らない。その上あなたから逃れられない私のことも知らない。あなたの存在に苦しみ、あなたでなければ救われない私のことも、彼女は欠片も知らない。
あなたは、無知のまま途方もなく高い理想、もしくは甚だしい憧れを掲げている。
「私みたく可哀想な人間にならなくて結構」
率直に言うと彼女は、悲しいモノを見る目をした。その目が涙ぐむ。充血するほど渇いているのに水分を捻り出そうとしている様を見ていると私は安息する。彼女の体にまだ血と熱と水が巡っているのが感じられその時ばかりはこのズミも、人並みの愛情を抱くのだ。