※ヒロインが失明していく話





夢を見ている。急な引っ越しを決めたわたしを、皆がいぶかしげな目で見てくる。ある人が言った。
突然どうしたの? わざわざ何もないところに行くなんて。何か心境の変化でもあったんでしょ、話してみない?

良いでしょ、良いでしょ、何だって。
向けられる優しさに怯えてわたしは笑顔で固めて自分を守る。

不便だとか仕事はどうするだとか、引っ越し先の悪条件は聞こえないふり。笑顔を張り付けて強行させようとするわたしに今度は大家の物好きを見てくる視線。大家が呆れた様子で言った。
無理に止めはしませんがね、この物件の噂はご存じで? 出るんですよ、夜な夜な人ならざる何かが。ええ、幽霊。何人もの方が見たそうです。貴方にも見えてしまうかも。良いんですか。

良いですとも、良いですとも、何だって。
だってどうせわたしは直に失明するのだから。

お願いです。わたしをどうか止めないで、放っておいてください。秘密を抱えて逝くと決めたのです。

夢を見ている。まだ視界に色と形が残された、私の目が見えていた頃の夢。





一口に失明と言っても視力を失う過程は人によって違うらしい。生まれつきか、事故や病気などによるものか。ある日突然視力を失うか、それともゆっくりと見えなくなっていくか。
とりあえず、神様がわたしに与えたのは、生まれつき体に潜んでいた要因によってゆっくりと目が見えなくなっていく。そういうパターンの絶望だった。

失明の訪れをただ待つしかない時間の中、わたしはどれがよりマシか、どの組み合わせがより苦しかったかとぐるぐる考えた。
事故などで突然見えなくなれば良かったか。それとも最初から見えなければ良かったのか。見えなくなるのを誰かのせいにしたいような、誰も責めずに済んで良かったような。
何度も考えるけれど、どれも見えなくなるという終着点に変わりはない。

この目が駄目になると知ってすぐこの町を離れようと決めた。既に視界の端が灰色に犯されはじめた時のことだった。人々がどんな目でわたしを見るのか。それを想像するだけで震え上がるほど怖かった。どうせ人の顔なんで見えなくなるくせに、向けられるであろう視線の事を考えるとわたしは体の震えを止めることが出来なかった。だから誰にも何も告げず、わたしは自分と関わる人々の前から姿を消すことにしたのだ。

不審がる人はいたものの、取り憑かれたように僻地への引っ越しに執着したわたしを止める人はいなかった。寂れた森の洋館への引っ越しは成功した。人々から姿を眩ます計画は大成功を納めたのだ。

もう周りには誰もいない!
初日、いくつかの段ボールが積まれた部屋の中、わたしは久しぶりの達成感にうっとりと冷たい机に頬をつけていた。

チン! 音がした、舘の奥で。

わたししか居ないはずの家に響いた音。
オーブンが「できましたよ、さあドアを開けて!」なんて告げるアレの音。わたしの勘違いかと思ったが、大家の言葉が思い出された。

(ええ、幽霊。何人もの方が見たそうです)

ついに出たかと思いキッチンに行くと、ちょうど、オーブンがひとりでに開くところだった。

立ち上がるのは甘い、チョコレートの溶け出した匂い。
はっと気づいてわたしはキッチンに置いておいたお菓子の箱をたぐり寄せた。後でおやつにするつもりだったチョコチップクッキーの箱が空になっている。
キッチンに立ちこめる溶けだしたチョコの匂い。そしてさくさくと何かが咀嚼する音。
それが出会いだった。


「いるんですか? 幽霊さん」


バタン! 激しい音がした。オーブンが口を噤んだ音だった。


「幽霊さん?」


バタンバタンバタン。再び呼んでみるとオーブンのドアが暴れ出す。


「ゆ……」


バタンバタバタバタ、チン! チン! チン!
オーブンが自分を壊しそうな勢いで暴れ出した。そろそろ戸が外れて飛んでいってしまいそうだ。
話には聞いていた現象に不気味に思いながらも、せっかくのオーブンを壊されては困るという気持ちの方が勝った。押さえようと手を伸ばすと、手に、ビリッと走った。電気のようなもの。
きゆうぃん、と耳鳴りにしては柔らかい音が家の中を駆け抜けて、それっきりオーブンは動かなくなってしまった。
クッキーは、一箱丸ごと食べられていた。


オーブンが壊れそうなくらい暴れ出した理由が、きゆうぃんの声の持ち主が「幽霊さん」という呼び名に対する不満の声だったと気づくのはもう少し後のこと。暗くなると目の前の物も見えなくなってきた頃。

普段はお菓子を食べる側と隠す側という関係になっていたわたしと幽霊さんだが、幽霊さんの呼び名を変えるとその反応も違うことに気がついたのだ。


「幽霊さん?」


家のどこかでひどい音がする。
冷蔵庫が食材を全て吐き出していた。


「ゴーストさん?」


沈黙。今までと違う反応。と思ったら来客用の呼び鈴がジジジジジジジと響いて10分近く鳴り止まなかった。


「お化けさん?」


パリン、という音を聞いて移動すると広間の電球が破裂していた。


「いたずらっこさん?」


きゆうぃん、とあの鳴き声。家には何も起こらない。いたずらは無かったのでぎりぎりOKと判断して、この家にいる何かの呼び名が決まった。その時からわたしはその子を「いたずらっこさん」と呼ぶことになった。
これでいたずらは少しマシになるだろうか。ほっと息をついたのも束の間だった。トースターが暴れだし、あつあつ焼きたてのトーストが顔面にたいあたりしてきた。
油断していたわたしはものすごくうろたえてキッチンで腰を抜かしてしまった。ちょっとだけ嬉しそうなきゆうぃんの声。
不服に思いながらトーストを片づけようとしたが探しても探しても見つからなかった。いたずらっこさんが後かたづけしれくれたらしい。たぶん、お腹の中に入れるかたちで。




幽霊なんていようがいまいがどっちでも良い。どうせ見えなくなるわたしには関係無い。そう思っていたのだけれど、自分でも意外なことにわたしは得体の知れないいたずらっこさんを次第に好きになっていった。
勝手に家の機械を動かして、お菓子があれば真っ先に奪っていく。お菓子が隠してあったり、簡単に開けられない包みに入っていると、オーブンや冷蔵庫のドアを開閉させてわたしを呼びつける。仕方なく開けてあげるときゆうぃん。嬉しそうな声。
わたしといたずらっこさんの関係は基本、お菓子を提供する側とそれをせしめる側だ。いたずらっこさんは甘いものならなんでも好きなようである。何でも食べたが、トーストを二枚焼くと必ずジャムを塗った方から消えて無くなった。

勝手気ままないたずらっこさんは、きっとわたしがどんな人間なのかなんて関係無い。ただ甘いものが欲しいだけだと思っていたが、なんといたずらっこさんはわたしが目の不自由な人間だと分かっていたらしい。
ある日わたしは大事に保管していた写真を一枚一枚眺めていた。来るべき失明に備え、大好きな人たちの顔を思い出せるように写真をじっと見つめる。何度も確認し、記憶に刻もうするのは日課になっていた。けれどその日、わたしは写真を箱ごと床にぶちまけてしまったのだ。急いでかき集め、大半は拾うことが出来た。けれど、わたしの目では全てを拾い切れたかまでは分からなかった。その時は床という広い範囲を見続けることはもう困難になっていた。すぐに目が疲れてしまい、目を閉じたまま指先の感覚に頼って探し続けた。
まだ落ちているのか、もう全て拾ったのかも分からない、途方もない探し物。夜に近づくにつれ心が弱気に支配されそうになる。ついに泣き出そうかというわたしの顔に、風は当たった。そして写真紙の感触が指先をかすめた。
写真が独りでに飛んできた。驚いて目を凝らすと暗い視界をかすめたのは命を持ったかのようにぴょんぴょんと移動する扇風機だった。


「いたずらっこさん?」


返事はない。けれどまた風が吹いて、紙の舞い上がる音がした。


「あ、ありがとう……」


呆然とそう言うとまた風が一枚、もう一枚と写真が運んでくる。
6枚の写真を運んで室内の風は止んだ。きっと全ての写真を届け終えたのだ。わたしにはこれで全て拾ったかを知る力はない。けれど、いたずらっこさんを無条件に信じたいと思って、そして自分の思うままにした。

そして私は知りたくなった。
いたずらっこさんの正体を。


幽霊さん、ゴーストさん、お化けさん。いたずらっこさんはそんな呼び名を嫌がった。だから漠然とだけれど、正体はポケモンじゃないかとわたしは目星をつけた。
その頃のわたしはもう外に出ることが怖くなっていた。真っ昼間、体に当たる太陽の光は感じるのに、視界は曇り空の中を歩いているようだった。けれど限られた時間の使い道は決まっていた。

ポケモンに詳しい人に会って、聞かなければ。
きゆうぃんという感じで鳴いて、勝手に動かすのは必ず家電など電気で動く機械で、その子がいるらしき家電に触るとピリッと静電気が走ったようになる、いたずら好きなポケモン。
そんなポケモンいませんか、と。

答えを求めて、夏の、快晴の日を見計らって、わたしは隣町へ出かけた。この地方でポケモン博士と呼ばれるその人へ会いに行ったのだ。

ポケモン博士に会って、お話を聞いて、帰ってくる。単純だけどわたしにとってはとてつもない大冒険だった。実際わたしは汗をかいて、所々で何回も転んで、どろどろのボロボロだ。
だから無事に帰ってこれて、家のひんやりとしたドアノブに無事触れたとき、足の力が抜けそうなくらいに安心した。


「……ただいま」


しんと静まり返る家に投げかける。


「ただいま、ロトム」


ロトム。それがポケモン博士が伝えたポケモンの正体だった。電気の力を使い、機械に入り込んでは姿を変える。いたずら大好きなゴーストタイプのポケモンだと博士はわたしに教えてくれた。
本当にいたずらっこさんはロトムと呼ばれるポケモンなのか。一度もその姿を見たことがないわたしは不安である。けれど家電に入り込む性質からして間違えないと博士は言ってくれた。恐る恐るその名を口にする。


「ねえ、ロトム。他の人たちはあなたのことロトムって呼んでいるみたい。わたし、いたずらっこさんのことを知りたくてお話を聞いてきたの。あなたを知ってる人に会ってきたの」


これは独り言じゃない。きっといたずらっこさんは聞いていてくれてると信じて、わたしは空中へ話しかける。


「ねえ、わたしもこれからあなたのこと、ロトムって呼んでいいかな?」


いたずらっこさんは嫌なことがあれば必ず何かいたずらを起こした。数分待ってみて、家具が暴れ出すようなことは無いので答えはyesと受け取る。
ありがとう、と言ってみる。物を壊す音は聞こえない。大丈夫、と自分に言い聞かせた。


「家を留守にしててごめんね。その分のお菓子は置いていったんだけど食べてくれたかな。……研究所に行くのも帰ってくるのも本当に怖かった。何とか帰って来られて本当に良かった」


手を伸ばしてイスの背を探す。指に当たった木の感触を頼りにわたしはイスに崩れそうな体を投げ出した。
もう、しばらくは人がたくさんいるところに行きたくない。わたしは町の中で永遠さまよい続けるのだとまで思わせた、わたしを飲み込もうとした恐怖はまだ体に残っていて、背筋に冷たい息を吹きかけてくる。


「やっぱり一人ではちょっと無謀だったな。けど、これからちゃんと慣れていかなくちゃだね」


人の目から逃げる代わりに、怖いこと、大変なことをひとりで抱える。不自由の責任は自分でとる。そう、これがわたしの選んだ道だった。後戻りはもうできない。


「ロトム。わたし、もうすぐ本当に目が見えなくなる。だからお願いがあるの。最期が来てしまう前にロトムの姿をちゃんと見たい」


研究所で、ポケモン博士はわたしにロトムの写真やロトムを捕らえた映像を見せてくれた。知りたくてたまらなかった家電に入らないロトムの姿。
けれどもうわたしの目は、人の顔の差が分からないほどに悪くなっていた。写真も映像もひどくぼやけて、分かったことと言えばロトムの持つ色だけだった。
ロトムはどうやら青空に朝焼けが混ざっていくようなそんな色を持っているらしい。


「わたしね、夢の中ならまだちゃんと色と形があるんだ。でも、このままじゃロトムの夢を見られない。夢であなたに会ってもロトムだってちゃんと分からない。そんなの悲しいよ。だから、ね。お願い」


必死に問いかける。どうかどこかにロトムがいますように。
見渡そうとして左右へ傾けた頬にパチッと電流が走った。


「っロトム?」


急いで顔を向けたがそこには何も映らない。
今、ロトムらしきの感触があったのに、辺りを見回しても何も見つけられない。
ジリジリジリ、と声を上げたのは家の電話だった。


「ロトム、そこにいるの?」


きっと電話の中に入って呼び鈴を鳴らして遊んでいるんだと思った。


「もう、いたずらっこさんめ」


そう笑い交じりに呼びながら受話器を取った。
繋がった通信の向こうにロトム? と問いかけようとしたけれど、声は出なかった。


!?」


それはついに引っ越し先を告げなかった、友人の声だった。


「貴方、目を悪くしてるって本当!? どうして言ってくれなかったの!? なんで何も相談してくれなかったの、どうして辛い状況にいるって教えてくれなかったのよ! 友達だと思ってたの私だけだったの!? 信じられない! ばか!!」


涙の滲む声で友人がわたしを叱っている。その案じてくる声が理屈抜きでわたしを泣かせる。申し訳ないのか、嬉しいのか、困っているのか分からない涙が目の中いっぱいに溢れた。

彼女の声を聞きながら、わたしは目の前の光に目を奪われていた。
もう輪郭を追えないほどぼやけていて、そこに涙を滴らせた、その雨雲の中のような視界を突き抜けて光が届く。
電話機の上で浮遊する輝き。青空に朝焼けを足したような色。最期の最期、目の奥まで届いた笑う光。それがロトムだった。








きゆうぃん。音がする。
ラジオが狂ったようにチャンネルを変え、点いては消える。わずかにニュースチャンネルの電波をかすったラジオが告げる。


『時刻は午前3時ごじゅ……』


そこまで告げたニュースキャスターの声がノイズでかき消える。またしばらくチャンネルをいくつか飛び回って、ポケモンこもりうたに着地した。

そっか、真夜中か。そんな気はしていた。

目が見えなくなったなら、もうきっと目覚めた時刻を知ることはなくなる。夜も昼も関係無くなる。季節がいつかなんて知ることも無くなるんだと思っていた。
実際過ごしてみると違う。日付も天気予報もロトムがいたずらするラジオで分かってしまう。ただチャンネルを回すのが面白くてやっているのかと思ったら、毎日必ずやるのだから、わたしに聞かせようとしているらしい。

扇風機にロトムが入り込んだらしい。うっすらと寝汗をかいたおでこや首に風が当たる。室内で風が生まれ、小さく開けていた窓からの夜風を誘い込んだ。深く呼吸をすると、風に乗った季節の匂いが肺に充満した。
太陽を吸った葉っぱの匂い、焼けた土の匂い、真夏の匂い。

うん、今は夏だ。ね、ロトム。


今度はキッチンから音がする。冷蔵庫の扉が開閉を繰り返す音。呼ばれるまま壁を伝ってキッチンに行くと手に何かが当たる。ミルクだ。

何にでも入り込んでいたずらをするロトムだけれど電気の通らないものだけは専門外だ。ガスコンロはそのひとつである。
ロトムにもできないことがあるとき、わたしは喜んでロトムのためになる。ロトムのためにわたしは鍋を取り、あまいみつをたっぷり溶かした甘いホットミルクを作った。
それを小振りなマグに注いで置いておくと、きゆうぃんという返事があった。


「ん。じゃあわたしもうちょっと寝るね。おやすみ」


わたしの見る世界では夜も昼も関係は無いけれど、わたしは今までと同じようなサイクルで生活を続けていた。わたしを助けてくれる人たちがいる。そんな優しい人たちに時間を合わせるためだ。
明日も友達がわたしの家へ遊びに来てくれる。
だからわたしは早々に眠ろう。明日、目覚めるために。

ロトムに出会えた夢の中に、もう一度繋がりますように。そう願って目を閉じた。