少し食べ過ぎたようだ。ふやけていたサンドイッチが胃の中でさらに膨張している。胃のムカつきを抑えるためにも、はこの後にある夜の逢瀬、それからする運動に期待をかけた。熱いコーヒーを煽りながらウインドウの外を見やる。待ち人の影を探したけれど、夜闇の中、燃えるような赤い髪の男は見つからなかった。

 二週間ぶりだ。とワタルとこの店で落ち合うのは。10日あまりという間隔はなんとも二人の関係に的確な長さだ。恋人としては間が開きすぎて、友人としてはマメすぎる。が尻込みをする内に、先に連絡をくれるのはいつもワタルの方なのだから、これがワタルの望むペースなのだろう。そう信じては今回も二週間の待ち時間にめいっぱいの恋しさを募らせた。
 ワタルと友人でも恋人でもない間柄として関わり始めて、はすっかり運命のいたずらというものを信じるようになった。出会い、ワタルから火遊びへの誘いがあり、それにもしたことのない赤ら顔で応じてしまい。過ごしてきたのは言葉にして並べるとごく簡素な過程であるが、未だになぜ自分が? という気持ちをは拭いきれない。出会った当時から彼の魅力は遠目からでも突き刺さるように伝わってきた。だが相手はワタルだ。その時は彼の眩しさは、遠い非現実のものとして感じられ、強く切迫したものでは無かった。逆にワタルがフスベシティの町娘でしかない自分を第一印象を記憶に残しているどころか、認識しているとすら思い寄らなかったは、無意識にワタルを恋の対象として枠の外へ追いやっていた。その彼が、火遊びの相手にを選び、今宵もこれからを迎えに来るというのだから、やはり何か超越した者からのいたずらがあったのだと、そう考えるのがの精一杯であった。
 ワタルが自分を迎えに来る。それも男として。意識してしまい、少し顔が熱い。女である自分が異性を求めるのは男性が同じことをする以上に過激な行為である気がしては今でも一人恥ずかしくなる時がある。段階も踏まず事に至ったのはワタルもお互い様なのだが、はどうしても自分ばかりがとんでもなくいやらしい人間になってしまったようで羞恥に消え入りたくなることもしばしばだ。
 カップを持っていた指が細かくふるえる。そういえば一口も飲んでいない。はひとつため息をついて持ち上げたままのカップを降ろした。代わりに手で包むとコーヒーのぬくもりが指先に伝わってくる。髪をかきあげ、前髪を指先ですく。すん、と鼻が鳴り、は自分の鼻が赤いのではないか、危惧した。化粧室に立とうかと迷ったとき、待ちわびた声がの後ろからかかった。

「やあ、待たせてすまなかった」

 ざらりとの座るソファのへりで、指の滑る音。そしてワタルはマントまで器用に折り込みながら対面の席に座った。二週間ぶりのワタルにはこっそり目を走らせて存在を確認する。すぐに運ばれてきたコーヒー。ウエイトレスにお礼を言うありがとう、の声ではなんだか心が緩むのを感じた。

「あー……、予想外に遅くなってしまったよ。かなり待たせたんじゃないか?」
「そんなこと無いですよ」
「そうか」

 ワタルに言われ、は時刻が明日に迫っていることに気がついた。

「ほんと、いつの間にか良い時間なんですね。飲まないなら行きませんか?」

 どうぜ会えばすることはひとつなのだ。なるべくならワタルに煩わしい気遣いをさせたくない。そう思いから提案したが、ワタルは首を縦に振らなかった。

「いや。いや……、飲むよ」

 そう言い押し黙るワタル。彼の指がカップへ滑り、しかし持ち上がることはなかった。入れ立てのコーヒーがぽくぽくと白い息を吐いた。

「そうだ、何か食べないか」
「私は大丈夫です。さっき食べましたから」
「ケーキとか、甘いものとかは」
「すみません。夜に少し食べ過ぎたみたいで。ワタルさんは? 何か食べたいんだったらどうぞ」
「いや、俺はいいんだ。俺も、もう食べたから」
「そうですか」

 ここまでの会話では気づいた。気づいて驚いた。ワタルが、話題を必要としている。すっかり二人は肉体言語を主軸とした間柄であり、ワタルもそれに満足していると思っていた。会話というオプションを求められたことが意外でならない。分かり合うだとか、コミュニケーションの煩わしさを省きたいからワタルはを恋人にしなかったのでは無かったのか。
 疑問はふつふつと湧いてくる。けれど求められるならばはそのほとんどを応えてきた。試しにワタルさん、と呼びかけると彼は不意を突かれたように視線を跳ね上げた。

「ワタルさんは夜ちゃんとしたもの、食べれましたか?」
「え……」
「私はサンドイッチだったんですけど」
「……俺も、サンドイッチだったよ。一応ちゃんとした夜ご飯だったと思うよ。それに座って食べられたし。生憎移動中で、そこら辺の岩がイス代わりだったけどさ」
「そうですか」
「まあ大自然の中のディナーっていうのも良いもんだよ。前忙しい時はカイリューの上で食べたこともあったんだけど、そうすると彼らは食べ物に反応して集中力が途切れるんだ。美味しそうな匂いが気になるんだろうなあ」
「……ふふ、可愛い」
「彼ら、自分がおなかいっぱいでも人間の食べ物は別腹らしくてよく俺のご飯は狙われてるよ。まあ大体味見くらいはさせてあげるんだが、俺の方はポケモンフーズには興味無いから、不公平なんじゃないかって」
「確かに。そうですね」

 が肩を震わせ笑う。ワタルも口端を綻ばせ、ようやくコーヒーを喉に下した。

「あのさ、呼び出しておいてなんだけど、今夜はやめておこうか。もうこんな時間だから、行くところも無いけど、さ」
「ど、っ……」

 思わぬ提案にどうして、と口を突いて出そうになった。問いただす言葉を抑えは心を隠せる代わりの言葉を繕う。

「どう、したんですか? 今日のワタルさん、いつもと様子が違うなとは、思っていたんですけど」
「……店に入る前に見た君の横顔がさ」

 は思わず姿勢を正してしまった。原因が自分にあるとは思わなかった。ワタルが見かけたという自分の横顔、とは。その時は自分はただワタルを待っていたはずだが。

「どんな横顔でした?」
「……なんというか」

 言葉を詰めらせ、視線を迷わせ、指で形にならない仕草を繰り返し、ワタルは吐き出すように言った。

「可愛かった」
「………」
「いや、俺は君に対してずっと可愛いと感じているよ。でもさっき俺が見たのは造形や装飾とか、そうじゃなくて、理屈抜きで可愛いと思ったんだ。滲むような何かが加わって見えた。それは例えば、色気、とか」
「はぁ……」
「ああ、もう言うよ! 君はここ最近でぐっと色っぽくなった! 子供だと思っていたのに、そんな大人っぽい横顔見たのは初めてだ。。君に好きな人ができたのなら、まじめに相手にアプローチをかけるべきだ」
「は……!?」
「俺はそのためならさっぱり君から手を引いて、応援する心の準備は出来ているよ」

 何を言い出すのだろう、この男は。果たして正気なのだろうか。そう思ってのぞき込んだ瞳が至極まじめだったので、は心にへっこみが出来たのを感じた。ワタルが見たという横顔。待ち合わせていた人はワタルだった。男性との逢瀬に、別の男性を想えるのはかなりの器用者だけが出来る芸当だというのに、ワタルにはどうも自分がその器用者に見えているようだ。顔を半分を手のひらで隠しながら、は小さくため息を吐いた。

「わたし、そんな誰かを恋しがってる顔をしてましたか」
「俺にはそうとしか見えなかった。実際どうなんだい」
「ひ、秘密です……」
「やっぱりケーキか何か頼もう。君の話、じっくり聞かせてくれ」
「いいいい、いいです!」

 もうさっさと今夜の本筋に戻りたい。が焦ってカバンを取り席を立つと、ワタルは願うように言うのだった。

。座ってくれ」

 名を呼ばれ、厚い唇から真っ直ぐと言葉を向けられる。重ねて、立ったに座ったままのワタル。彼の見上げる瞳がを縛り上げる。自分は何を聞かれるのか。何を答えれば良いのだろうか。分からない。戦々恐々としながらも、男の上目遣いに負けて気づけばは席に戻っていた。長い夜の始まりだった。