ズミと付き合って分かったことだけど、彼は芸術にこだわるあまり、感情に大きな優位性を持たせている。白と水を融合させたデザインのシェフ服をまとった彼は秩序を味方につけた、そんな澄ました顔をしている。なのに彼の本質は意外に感情的なのだ。
数ヶ月ぶりにディナータイムのデートなのに。ズミは向かいの席でむくれている。待ち合わせ場所に選ばれたカフェのテラスでズミはビジネスマンに負けじ劣らずのしかめっ面だ。
笑う機会が少ないぶん、彼の怒りや苛立ちの表情については、わたしはだいぶ見分けられるようになっていた。これは相当機嫌が悪い。
原因は分かっている。彼を待っている間に私に話しかけてきた男がいたのだ。彼の軽口に私が笑ったのが気に食わなかったらしい。
席に着いてから、ずっとこの調子だ。
「ズミ、機嫌を直して」
久しぶりのデートでそんな顔してないで欲しい。今日は貴重な休日だ。
下手につついて喧嘩に発展したら笑えないのでゆっくりと言葉を選んでズミをなだめる。
「知らない人だったし、これからも知らない人。今日限りの人だよ」
「でも貴女の名前を知っていた」
「相手が名乗ったからマナーとして返したまでだって」
あーあ。去り際に「じゃあね、」なんて呼ばれたのがまた彼の気に障ったらしい。
「少し話し相手になってくれただけだよ。彼も私が恋人を待ってる身だって分かってた」
「随分気を許していたように見えた」
「なんだろう。人なつこい笑い方する人だったんだよ。ハリマロンに少し似てて、ちょっと気を許しちゃった。ごめん」
悪い人じゃなかったんだけどな。
同い年か少し年下に見え、明るい色調のシャツとジャケットが似合っていた、笑顔の爽やかな人だった。でも少し赤らんだ頬が可愛いくて、年下っぽいと感じたんだった。急に話しかけられたことには驚いたけれど、私が随分一人だったことを知って、退屈を紛らわせようといろんな話をしてくれた。見知らぬ私にそんな気を回してくれたことが素直に嬉しかった。
悪い人じゃなかった。でもこれを言ってもズミの怒りに油を注ぐだけだ。
「不注意だった。これからは気をつける。ごめんなさい。でも、遅れたズミだって悪いよ」
これからズミが来ることを分かっていて、その人を追い払わなかった私は悪いかもしれない。でも、ズミは1時間も遅れてきた。遅れる、とだけ簡素なメールを一通よこして、それっきりにした。ズミにだって悪い部分がある。
「あの人、純朴そうな顔して随分口が上手くて、お世辞とか言われて、褒められればやっぱり嬉しい」
「………」
「けど、ズミが褒めてくれなきゃ意味ないよ。どう? 似合ってる?」
ストレートに聞くとそっぽを向かれた。でも視線をちら、とこちらに向けると、手で顔の半分を覆ってしまった。
「良いよ、言葉にしなくても。ありがとう。良かった。似合わないって言われてたらここで全部脱いじゃいたいって思ってた」
「なっ……」
「言ったじゃない、ズミが褒めてくれなきゃ意味ないんだって」
ズミの大きなため息。あ、ちょっとずつ機嫌が直ってる。
「今後、ああいうのとは一言も交わさないように」
「分かった」
「遅くなってしまって、すまない」
「いいよ」
妬いてくれたのは嬉しかったし。それをまた言うとズミが怖い顔をしそうなのでそっと伏せておくけど。
「お腹空いたね」
「ええ」
そう答えたズミが何とも言えない顔をした。眉を情けなく歪め、泣きたいようにも見える。ぎこちない、ズミらしくない顔。
「ズミ、どうしたの。具合でも悪い?」
「……なんでもない」
急に席を立った彼を追う。
「えっ? なになに? どうしたの?」
一向に答えてくれないで先を歩くズミの横に追いついて10秒後。気づいた。
ズミ、笑おうとしたんだ。
それも自分の笑顔じゃなくて、わたしが言った“爽やか”で“人なつこい”。もう出会うことおのないあの人みたく笑おうとしたんだ。
ハリマロンに似た笑顔のズミを思い浮かべて、わたしは一人笑い出しそうになる。そんなの全然、ズミじゃない。さっきのぎこちない笑顔のズミも、やっぱりズミじゃなかったし。
ほんと、器用なのか不器用なのか。
「あ、ごめん」
少し歩きが遅れた私をズミが振り返って待っている。いつも偉そうなくせして、いじらしいんだから。
春の夜風を受けて、ズミがくれたときめきに息を詰めて、私は小さなスキップで彼の腕に飛びついた。