その次の日も、雨はよく降った。この地の歴史に刻まれるほど、よく降った。

 男を同じ屋根の下に泊めたのだから、何が起きてもわたしは自分の愚かさを笑う予定でいたが、朝目覚めた時、わたしのパジャマに乱れは無かった。彼は与えた毛布とともにソファで静かに眠っていた。
 食事は朝と昼をまとめて摂った。家の中で、大して動くことも無いのでそれで十分こと足りた。有り合わせのふたり分の料理を分け合って食べる中、彼はぽつりと言った。


「何もかも、流されてしまいそうな雨だ」


 また次の日も、雨は降り続いた。彼とすでに何十時間を重ねたが、私は今日も彼の名前を知らずにいる。
 しかしその何十時間の成果か、私は彼を名も無き男として捕らえることにだいぶ慣れてきていた。
 名前がなくとも、彼の人柄を伝えるものは山ほどある。例えばモンスターボールを大事に扱う仕草。目を瞑ったまま、手慣れた様子でボールのボタンに指先を合わせるのだから、それなりにトレーナー歴が長いのだと思った。

 私はそうやって伝わってくる“彼”に暇つぶしに拾っては適当な分析を加えていく。
 彼は彼で、心も表情も色めかせること無く私と共に雨の音に耐えている。


 昼前には少し雨足が弱まったのだが、おやつ時には晴れるかという期待を裏切ってまた息もつかせない豪雨に戻ってしまった。マンションの一階はもう水没しているかもしれないなと想像すると、笑いがこぼれた。それだけは乾いていた。

 体が冷えてきたところでふたりで食事にした。なんかの時のために買いだめていたカップラーメンをふたつ出した。今朝もカップ麺だった。一人暮らしの中、いつか食べるものに困る日が来ると思い用意していものだ。自分ひとりで食べていくための数だけをストックしていたものが、ふたつずつなくなっていく。それが少なからず驚きだった。

 目の前で麺をすする彼の素性を、私はやはり知らない。名前だけじゃない。何をする人なのか、石を持っていた理由すら。
 ただ、随分この男の造形に見慣れてきた。股下の長さ、ふくらはぎ、体の姿形。彼が座った時、ソファの上のどれくらいの空間を占拠するか。

 今はカップ麺が似合わないなとは感じている。彼の食事の作法は一食150円程度のものを食べていては鍛えられないであろう静けさを持っていた。しかし肉体はやはり男のようで一杯を軽くたいらげてしまった。私も焦って麺をすする。


「ごめん」


 人が食べている間だと言うのに、彼は急に口を割った。一生懸命口の中を空にしてから返事をする。


「……、何が」
「素性が明かさないというわがままを言ったことだよ」
「明かせないじゃなく、明かしたくないんだってことは前にも聞きました。ぐだぐだ言うのは女々しいですよ」
「うん。僕は女々しい」
「雄々しいところ、見たことないです」
「そうだね。でも普段の僕は違うんだよ」


 急に彼はよく語った。さすがに三日、狭い空間に閉じこめられていれば気持ちに変化があったのだろう。


「ただ、こんな雨だから」
「雨、関係あります?」
「あの日あんな雨の中立っていたのは、雨が僕の何もかもを流し去ってくれると期待したからなんだ」
「………」
「僕じゃない僕になれる気がした」


 気持ち自体は私も似通ったものをこの雨に抱いていた。


「あー、分かります。私も職場流されてないかなって思います」


 何もかもを流す雨。私の職場は低地にあるので、この雨で流されていたらと内心期待している。収入の元がなくなるのは困るが、職場はストレスの元でもあるので、綺麗さっぱり流されていればそれはそれで快感だと思うのだ。


「私のせいじゃなく、雨で流れてしまえば、責任感じなくて済みますし」


 私が職場が流されていればいいなと思うのと同じく、彼も嫌なものが外的要因によってどこか遠くへいったら良いなと願っているのだろう。そして、彼が流して無かったことにして欲しいのは彼のアイデンティティなのだろう。


「なんていうか……、ドンマイです」
「どんまい?」
「なれる気がした、なんて言い回しだから。なれなかったのかな、って」


 私は彼を哀れんだ。きっと彼は“僕じゃない僕”にはなれなかったであろうから。

 何も知らずに一緒にいる私ですら、彼をどんどん知っていくのだ。
 仕草、身なりにも彼の今までを感じる。それに部屋の隅に置かれた石は、彼自身をよく表している。
 石という、大切なものを捨てられなかったのだ。彼のアイデンティティは流されず、あそこに重く居座っている。


「うん。やっぱり僕は僕だ。正直がっかりした。でも全く得るものが無かったわけじゃない」
「そりゃ良かったですね」
「うん。良かった。君が、僕を何者でもなく扱ってくれたから。名前を呼ばれないこと、無関心でいるのに、僕の存在を許してくれたことが嬉しかったよ。ありがとう」
「……別に」
「ありがとう」


 彼は繰り返して感謝を伝えてきた。


「何もかもは流れなかったけど、悲しみは薄れた」


 浮かべられた笑顔は弱々しい。けれど一昨日より、随分血が巡っている。声にも言葉にも表情にも、彼が今まで生きて来たすべてが宿っている。
 真っ白の死人みたいだったというのに。こんな鬱屈した部屋の中だというのに。彼は何かにけりをつけたみたいに彼は存在感をみなぎらせていた。

 雨が一体いつ止むのか、私は知らない。だが、この人は直に出ていくことは分かった。彼はもう、どこか遠くを見ている。
 方向だけは同じ方向を見つめるが、私には彼の見ているものが見えない。
 彼はもう、大丈夫になってしまったのだなと思うと、胸がちくんと痛んだ。

 案の定次の朝、彼は忽然と姿を消していた。私が貸した服ごと消えて、残されていたものと言えば丁寧に畳まれた毛布くらいだ。もちろん石も消えていた。
 そういえば、彼と共に雨雲も消えていた。余談だが私の職場は健在。流されてはいなかった。残念だ。