過ぎていく日々の中で、私は彼を忘れるべきだと結論づけた次の日。再会は青空の下だった。

 私の中で彼の印象は雨の中現れた奇人である。真っ白な肌をしていて、自分が自分じゃなくなればと夢想する、頼りない人間。
 だから改めて彼が私の目の前に現れた時は、あの時の彼だと気づくことが出来なかった。

 知らない人間が堂々と私の前に立ちはだかるので何事かと思った。あの日々の彼と、まず服装が違った。私はシャツ姿で雨に濡れた彼の印象が強かったが、再会した彼は黒いスーツをしっかりまとっていた。赤いスカーフはふんわりと空気を含み、それに少し窮屈そうなベストも決まっている。あの日の彼も姿勢は良かったが、それ以上に彼に満ち溢れる自信が彼の体躯をよく見せていた。
 思わずあんた誰? と言いかけたが、彼を思い出すヒントになったのは髪の色だった。彼の乾いて流れ出す髪の艶と色は私の中に焼き付いていたのだ。彼がまるで別人のように自信満々な表情を浮かべているとしても、髪の色は変わりようが無かったのだ。


「やあ」
「……どうも」
「あの時はありがとう」
「別に」
「そっけないな。必ずお礼しに来るって言っただろ」
「そうでしたっけ」
「忘れたのかい」
「覚えがないですね」
「君、寝ぼけてたから」


 彼曰く、早朝雨が上がったのを見てそのまま家を出ていくことにしたらしい。


「何も言えないくせに迷惑かけてたことはそれなりに申し訳なく思っていたんだよ」
「そうですか。でも、帰って良かったんじゃないですか?」


 不意をつかれた様子の彼に苦笑しながら、私はここ数日考えていたことをぶつけた。


「あなた本当は、すごい人なんでしょ」


 彼と別れた日以来、私は雨に閉じこめられた日々のことを何度となく思い返していた。そこで受けた言葉の無い彼を、何度と無く思い出し、彼の残像にすがっていた。


「きっとあなたを探す人が山ほどいるって思ってた。だって、愛される顔をしているから。もしくは、愛されてきたような顔をしているから。あなたを見つけたときからそう思ってた。本当は人に囲まれるような人なんでしょ。ずっと一人でいた人の顔なら、もっと私みたいな顔してるはずだもの」
「当たってる。総合的には」


 そう彼は含み笑いで、含みのある言い方をした。


「でも細かい部分ははずれてる。迷ったけど、君に僕のことを教えるよ」
「迷うくらいならやめておけば? あまり、興味ないし」


 助けてやったのに、何も教えてくれない。あの時はそれが非常に不愉快だった。けれど今は反対に、彼の素性を知りたくないと思っていた。

 今まで彼に向けてきた不遜な態度は、やはり彼が見知らぬ人だったからこそ出来たのだ。
 私は関係を緩和するような冗談を言わなかった。冷たい皮肉を彼に向けた。彼を雨の中追い出しもしなかったが、別に歓迎していたわけでもない。ただそこにいることに文句を言わなかっただけのことなのだ。
 この人の本当の立場を知って、今まで通り接する自信は私には無かった。


「あなた、言ったじゃないですか。“僕を何者でもなく扱ってくれてありがとう”って」
「うん」
「ここであなたがあなたのことを語ったら、わたしはもう、あなたをあなたとして捕らえることになる」
「うん」
「もう何者でもないあなたはいなくなるんですよ」
「僕のこと、よく理解してくれるね」
「そうでもないです」
「確かにあの時間は尊かった。僕が名も無き僕でいられなくなることは損失だ。でも、自分のことを教えてくれない人に心捕らわれているのは辛いと思うから」


 心捕らわれている。その台詞の主語は誰だろう。まさか彼のことだろうか。やはり私のことだろうか。

 私が今日まで彼を思い出していたことを、彼は見抜いているのだろうか。


「まさか、私への同情で今日ここにいるわけじゃ無いですよね」
「うん。同情じゃない」
「だったらさっきの言葉は、あなたのことを指してるって言うの?」
「期待してくれて良いよ」


 心の内を教えてしまう言い回しに私は驚き、直立不動。彼は胸を膨らませ、笑顔を模した。


「僕はツワブキダイゴ。勤め人で、ポケモントレーナーだ。トレーナーとしてはリーグチャンピオンまでは極めた。父はデボンコーポレーションの社長。僕自身はいつか会社を継ぐだろう。今はメガシンカの謎を追い求めている」


 ずらずらと並べられた彼の肩書きに、私がそれ以上何も言えずにいると彼は眉を悲しげに潜めた。


「ね、まあ気づいてないのかい。僕が君に名前を教えなかったように、君も僕に君のことを教えてくれなかったね」
「………」
「僕のことはとりあえず教えたよ。言っただろ。自分のことを教えてくれない人に心捕らわれているのは辛いから、君の名前をそろそろ教えてくれよ」


 彼の手がこちらへ伸びてきて、顔の横の髪をすくい耳にかける。ああ、そういえば、彼が、ダイゴがいなくなった早朝のこと、冷たい布が私の頬を擦り、誰かに髪を触られたなと思い出した。おぼろげで記憶としてカウントしていなかったが、あの指先の主は彼だったのだ。
 あの時頬をかすめたシャツの袖は今は無い。袖よりも先に頬に当たるのは、彼のスーツにつけられた金属の装飾。なんて、冷たいのだろう。


「これ、邪魔ですね」
「でもこれが、僕なんだ」
「じゃあ仕方ありませんね」


 黒のラインが入ったスーツがぐっと近くなり、視界を越える。背中に彼の腕が回る、彼の袖のシルバーも私の背骨をなぞる。

 雨に閉じこめられた家の中ではかけらも触れ合ったことが無かったのに、今、解放された晴天の下で抱き合っているなんておかしい。


「……、何から言えば良いですか」
「君の名前を教えてよ」
「なんか怖い。名前を言ったら、あなたに私が見つかってしまうんだって思うと」
「だから必要なんだろ」


 全くその通りだ。告げてしまえば彼は、誰でもなく私を見つける。おぼつかない手でわたしも彼の背中に手を置いた。


「ダイゴ、さん」
「うん」


 そして私は呪文を呟く。彼の中に私の存在を確定させるための呪文。私の名前は、です。