夜。外の世界は、この時間が一番静まりかえる。夜が得意な生き物たちも、やっぱり息を潜める。だからぼくとのいるこの部屋はこの辺りで一番、音で溢れかえっている場所だ。がパソコンでかたかたする音。本のページをめくって、が背中を丸めて考え込むとイスがぎぎぎと言う。そんな音たちが、夜になるとはっきりと聞こえるようになる。
でも今夜は特に騒がしいと思う。なぜって、がしゃべる声がする。ここにいるのはぼくとだけだけど、話の相手はぼくじゃない。は、受話器を耳にあて、誰かの声にしきりに頷いていた。
夜の食事が終わってすぐ、死んだ表情でパソコンに向かっていたを呼びつけたのは、一本の電話だった。はものすごくだるそうに受話器へ手を伸ばした。なのに、すぐに顔色を変えると、の瞳が煌めいたのを、ぼくは見たんだ。
「はい、はい……。そうですか。いえ、わざわざありがとう……。うん、うん……」
急に赤くなった顔に潤んだ目。の横顔を見つめて、ぼくは何の声も出せなかった。
「また連絡ちょうだい。お願い。待ってるから……」
受話器を置いた。熱いものを無理矢理飲み込んだ時の表情に似ている。
ぼくの知らないになったみたい。ううん、ぼくが知らなかっただけでこんな顔するは最初からいたのかも。どちらか分からないけど、の足下にいたぼくは、急にさみしい気持ちになっていた。
それから、ぼくたちの家に何度も電話はかかってくるようになった。
壁を突き抜けるように電子音が聞こえると、ぼくはどうしても暗い気持ちになってしまう。何があっても、は電話を一番に優先して、走っていってしまうからだ。パソコンを見ている時も、ぼくと遊んでいるときも。電話が鳴ればはそっちに一直線だ。
それに、はぼくと散歩に行きたがらなくなった。多分出かけてる間に電話が来るんじゃないかって心配してるから。いつ鳴るか分からない電話を気にしてるなんて、それは、ものすごくつまらないことだ。
今日もは呼びかけるぼく。返事はしてくれるけれど適当で、パソコンに向かっている。そうやってぼくのことはいい加減にするのに、電話のベルだけは別みたいだ。
ぱっと顔を上げて、受話器に飛びついたの目はいつも、少しだけ遠くを見て、しきりに髪をさわる。それがなんだか、僕には嬉しそうに見える。
(ー)
「……いえ、ごめんなさい。アマルスよ。そう、そう……」
(ぼくのこと呼んだ?)
「え? 平気。いいえ、問題は無いの……。ただかまって欲しいだけだよ」
名前を呼んで、前足をひっかけてみてもにかわされてしまう。意識のほとんどはここにいない人に向けられているんだ。
外の、ぼくの知らない誰かと繋がったを見てると、ぼくは走り出したい気持ちになる。決して良い気持ちじゃない。走り出して、何かに全身をぶつけてしまいたい。ぶつかった結果、何かが壊れてもしまっても構わない。そんな乱暴な気持ち。
電話が終わった後、たまにはぼくを抱きしめる。ぼくを可愛がる時の抱きしめ方じゃなくて、何か堪えられない気持ちをぶつけるようにぼくの首に手を回す。
「アマルス……」
そうやってぼくの名前を呼んでくれるけど、はぼくじゃない別の何かを見ている気がしてならなかった。
ぼくはとっくのとうに、電話が大嫌いだ。
ある日、ぼくはもっといやなものを見てしまった。が、町のある方向をしきりに気にしている。雪ばかりが積もる下り坂を見つめる# name1#の目は、まるで電話に出ている時とそっくりだった。
電話はかかってきていないのに。ぼくじゃない、ここじゃない、何か別のものを熱っぽく待つの様子に、ぼくは落ち着いてなんかいられない。
お尻のあたりが浮き上がるみたいな感覚が気持ち悪い。そわそわしているぼくには全く気づいてくれないのだから、気持ち悪さとむかむかが一緒になる。
が求める物はまだ、丘の向こうには見えないみたいで、ふうとため息をついた時だった。
「博士ー!」
遠くから聞こえたその声にが振り返る。あの、電話がかかってきた時みたいに一直線には走り出した。
ぼくよりも遅くて、細い足で雪を踏みしめていく。
「博士、お久しぶりです」
「そうね。久しぶり」
雪をかき分けぼくたちのすみかにやってきたのは、メガネをかけた男の人間だった。とは違う低い声、よりも大きな体。まあぼくの方が立派だけれど。
ぼくはそっとに一歩近づいた。
「元気だった?」
「すみません、遅くなりましたぁ。いやー、この辺りはやっぱり雪がすごいですね。底冷えすると言いますか……。やあ、アマルス! 久しぶりだなぁ」
ぼくに話しかけてくる声で、その人が電話越しにと話していたのと同じ人だと気がついた。
「こんな雪の中、わざわざありがとう」
がその男に向けた笑顔で、確信する。やっぱり、家にたくさんの電話をかけてきたやつだ。
「良いですよ、これくらい! たまにはこうして運動しないと」
「そう? コウジンの周りも良い自然のアスレチックがあるじゃない」
「そうなんですけどお、結局研究室に籠もりっきりになってるから意味ないんですよ、あははは! 僕一人じゃあなかなか洞窟の奥まで行けないですし」
「とにかく入って」
「あっ、おじゃまします!」
ひとり人間が増えるだけで、なんて騒がしいんだろう。家のドアを開けながらがぼくを振り返る。
「アマルスはどうする? 外で遊んでても良いんだけど……」
ぼくがどうするか様子を見てるみたいだ。
もちろんぼくはに着いていく。よく知らない人とがこれから何をするのか、すごく気になるからだ。
「貴方にはちょっと寒いかもね。ごめんなさい。さっきまでアマルスとが同じ部屋にいたから暖房は控えめにしてたの。今暖かい飲み物を出すね」
「はぁー、なるほど。こうやって博士はアマルスを観察していたんですね! さすが博士、意気込みが違います」
「私は……、アマルスと気ままにやっているだけ」
ふたりのやりとりでなんとなくだけど、この人間、に気に入られたいんだなと気づく。
ぼくもに気に入られたい、もっと好きになってもらいたいと思うことはよくある。けど、こいつとは違う。ぼくのはもっと、彼女が好きだという純粋な気持ちから来てる。
「何を言うんですか。あの緻密なレポートを、毎週毎週毎週毎週……」
「週に数回だもの。毎日じゃない」
「また謙遜を」
「そういうの慣れてないんだからやめて」
そう言ったは、かすかにだけど嬉しそうに顔を赤くしている。その人が口を開いて何か言う度には表情を変える。。
ぼくだって鳴き声だけでにこんな顔をさせてみたいなと、思った。
「照れないでくださいよ」
「……つまらない話は後にしましょう。私、早く見たいのよ」
「分かりました」
が真剣な顔になると、男の人も興奮したみたいな声をやめた。
「これです」
「これが……」
二人が見入ったのは机の上で開かれたスーツケースの中だ。ぼくも首を伸ばしてみると、中身が見えた。それはひとつのモンスターボールだった。男の人がそれを取り出す。なぜかぼくに笑いかけながら。
「良いですか?」
「ええ」
「それでは、博士。これが世界で二番目のアマルス、です!」
投げられたモンスターボールから出てきた生き物にぼくはびっくりした。
まるでそこに鏡が出来たみたいに、ぼくとそっくりの女の子が出てきたからだ。
「きれい……」
が息を飲む。ぼくも息を飲んだ。
「これが……」
「はい。今まで報告の通り、女の子。とても健康です」
「ちょっと、見てみて良いかしら?」
「もちろんです」
はゆっくりとその女の子に近づいた。そして手を延ばす。
ぼくはちょっと後ろからそれを眺める。
「所内で少しずつ育てて、最近はとっしんも覚えました。アマルスのぶつかったところに凍った形跡がありましたので、やはりフリーズスキンのとくせいを持っているようです」
「性格は?」
「今のところの診断では“おだやか”です。種族的な傾向もあるので、もしかしたら違うかもしれませんが」
「少し見せてもらうわね」
話を聞きながらは女の子をのぞき込んだ。女の子は初めて会ったの、指に少し気が引けているみたいで、不安そうにぼくを見てくる。だから、ぼくは一声かけてあげる。
大丈夫、その人はぼくたちのことよく分かってるよ。ぼくがずっと一緒にいる人。
「いいこ」
ふたりを見ているぼくは不思議な気持ちだった。ぼくもあんな風に撫でられているのかな、ぼくもあんな風に優しくされているのかな。いつもの傍にいるぼくは、あんな風なのかな。
「どうですか?」
「うん。良い感じ。見た限りで個体差以上の異変も無い。私の目から見ても復元は成功していると思う」
「良かった! やっぱり研究所よりも調子が良さそうですね」
「そうなんだ。まぁコウジンは生きる環境が違いすぎるものね。古代のアマルスたちは、生きやすい環境から外に出る必要が無かったのかもしれない」
「なるほど」
「……アマルス、おいで」
ぼくに似ている女の子と、女の子の横からぼくを見てくる。その横に立つ、知らない男。
ぼくはなぜか怖さを感じてしまった。
「ようやく、貴方に同じ種族の友達ができるのよ。貴方ならきっと仲良くなれる」
に呼ばれるけれど、ぼくの足は動かなかった。
女の子も不思議そうにぼくを見ている。
「どうしたのアマルス?」
「緊張してるのかな」
「いつもは楽しそうに野生のポケモンと遊んでいるんだけど……。何も怖く無いのに。おいで、アマルス」
女の子の横から離れないまま、がぼくを呼ぶ。ぼくは一歩後ずさって、お尻がイスにぶつかった。
「どうしたのかしら」
「まあまあ。無理させる必要はありませんよ」
「時間が必要なのかも。ごめんね、アマルス」
ようやく女の子から離れて、はぼくの元へ戻ってきてくれた。
「アマルスは博士が一番みたいですね」
近くで見たはぼくを心配して、ぼくと目線を合わせると首を撫でてくる。落ち着くように、って手のひらが言っていた。
その後ふたりは机を挟んでずっと話していた。ぼくはなんだか具合が悪くて、ずっとの足下でうずくまっていた。同じように男の人の元でおとなしくしている女の子と、時々、机の脚ごしに目が合う。彼女が悪いわけじゃないんだけど、彼女を見るとぼくの胸はじくじくと痛んだ。
「大体話せるとこは話したかしら」
「そうですね。他はまだ未確定な要素が多いですから。これ以上はやっぱり憶測でしか無いですね」
「こんなに話したの、久しぶり」
「今回、運が良ければアマルスたちでたまごを……と思っていたんですが」
「そうなの? こちらでもう一匹預かることも可能よ。もちろん研究所が良いのなら、だけど」
「いえ。そこは急ぎません。
もしたまごが見つかり、繁殖が成功すれば今回の復元としては、もう……。けれど、僕はアマルスの意に反することはしたくありません」
「え? 確かに二匹の反応は良くなかったけれど……。少し様子を見てみたら?」
「きっと時間を置いてもたまごは見つかりませんよ」
「どうしてそう思うの?」
なんだかぼくの話をしている。気になってふと首を伸ばす。
机の水平線の向こうで、男の人はぼくを見る。そして笑顔で何か言った。
「アマルスは博士が大好きですから」
ずっとばっかりを見ていたその人は、初めてぼくのことを見た。男の人の目線は思ったより、ぼくの深いところまで届いた。
「……そうね、アマルスはよくなついてくれてる。でも私は人間。あの子たちはポケモン同士だから、何かきっかけを掴んで……」
「そんなこと言ったら、アマルスが可哀想ですよ!」
「え?」
「な、アマルス!」
「……急にどうしたの?」
「男同士だから分かるんです」
はぁとため息を吐いたのはだった。突き放すような視線をその人に投げていたけれど、次には寂しそうな顔をしていた。
「じゃあ、もうその子は連れて帰っちゃうのね」
「それが最前かと思います」
「それも、そうね」
「残念そうな顔しないでくださいよ。博士が一番大事にしなくちゃいけないのは、そのアマルスですよ」
「そうね……」
「二匹目のアマルス、研究員一同で大切にしますから」
「よろしく頼みます」
「それじゃあ遅くならないうちに……」
「ええ。ふもとまで送るね」
ふたりをぼんやり見つめていたぼく。向かいに座る女の子は、ぼくよりも状況がよく分かってるみたいだった。
彼女はモンスターボールに戻る寸前にぼくを見た。机の下のかげの向こうで、彼女の丸い目に星みたいな光が落ちていた。彼女は笑って、とても気軽に言った。
(ばいばい)
そして、ぼくはあんまり彼女を歓迎したり出来なかったのに、彼女はこう言った。
(また会おうね)
(……うん、また)
それがちゃんと届いてから、彼女は体を縮めてボールの中へ戻っていってしまった。
このおうちのお客さんを、ぼくとはふもとの町まで見送った。
帰り道を振り返ると、オーロラが光ってた。
「ちょっと歩こうか」
の一声でぼくたちは夕暮れの散歩に出た。はぼくが横にいることを確かめながら歩く。でも全く何か、別のことを考えているみたいだった。
歩くのはぼくも賛成だ。ぐるぐると、うまく言えない気持ちが、ぼくのお腹の中いっぱいになっている。
ぼくたちの家から少し離れた、丘の上にふたりで登った。見上げると、星がどんどん増えていくところだった。
適当なところで、と一緒に座り込んだ。
別に、星空を見たってぐるぐるとした気持ちの答えは出ない。けれど、あの星みたく悲しさが遠くなっていく気がした。
も同じみたいだ。ぽつりぽつりとした喋り声はなんだか遠い呟き。
「アマルス。ヒレのかせきの復元、もう少しで実用化なの。このまま調整が進めば、カセキ研究所で一般からも復元を受け付けるようにしていくって。
そしたら、かせきを見つけた人なら誰でもアマルスに出会えるようになるの」
の言うことの全ては分からない。ただ声は、これからの未来を願う音をしている。
「いろんな人がアマルスと出会って、きっと旅をする。あなたたちの遺伝子は様々な景色を見る。あなたたちを手に入れたトレーナーは、あなたたちが存在する景色を見ることになる。私はそれが楽しみで仕方ないの」
はぼくを抱きしめる。ぼくを可愛がる時の抱きしめ方じゃなくて、何か堪えられない気持ちをぶつけるようにぼくの首に手を回す。
「私の夢がひとつ、叶うんだよ」
は嬉しそうなのにぼくは喜べない。あの女の子のアマルスを優しい瞳で見つめたにぼくは思った。
にとってぼくって何?
愛して優しくしてくれるのは、ぼくがぼくであるからだと思っていた。
なのに今日、のいろんなものがあの女の子のアマルスにとられてしまった。それはあの女の子がぼくと同じように“アマルス”だったからだ。
ぼくは気づいてしまった。
この雪山にぼくみたいな生き物は、ぼくだけしかいなかった。だからこそ、の優しさは全部ぼくひとりだけのものだったんだ。
「アマルス……」
その声は、本当にぼくだけを呼んでいるんだろうか。
この世界にぼく、ぼくという種族はたった一匹。それを寂しいと思ったことなんて無かったのに。
、。君が優しくするのはぼくだけが良い。もし君がぼくを見なくなったらそれは、世界にひとり残されるより寂しいことだ。