最初は住んでる家の中のことが分かっていって、次は家の周りのことが分かって、と行く散歩道が分かって。今のぼくはもう、フロストケイブのほとんどが分かっている。どこに行けば誰がいるか。どこまで行けば何が見えるか。大丈夫、危ないとこには行っていない。どこからが誰の領域かもぼくは分かっている。

 それに最近はぼくが行かなくても、向こうから遊びに来てくれるようになった。
 家の近くで雪が盛り上がってラインになる。イノムーだ。彼が進化する前からの友達。イノムーが深く積もった雪に隠れてぼくの家の周りを走る。それは追いかけっこが始まるサインだ。
 ぼくは息巻いてイノムーを目で追った。

 体の大きさが変わってもすばしっこいイノムーは、ただ追いかけただけじゃつかまらない。頭を使わなくては。ぐるぐると動き回るイノムーの行く先を予想して、ぼくはゆきなだれを連続で起こす。
 イノムーの近くに上手く落とすと、イノムーは進路を変える。よし、上手く行ってるぞ。ぼくは自分も動きながらゆきなだれを続ける。興奮して、口の中がざわついた。
 誘導されてきたイノムーがだいぶ近くなってきた。ぼくは弾かれたように飛びかかった。

(捕まえたっ)

 雪の下からイノムーを掘り起こしてひっくり返してやった。慌てるイノムーがおかしくて、ぼくはお腹から笑った。起きあがってすぐ、悔しいというようにイノムーがたいあたりしてくる。けれど、ちっとも痛くなくて、またぼくは笑った。


 ひとしきり笑って、息を吐いた時。ぼくはぼくの異変を感じた。体が、うずうずする。ものすごく。背中からトゲでも生えそうなくらいにかゆい。自分の足のかたちが分からなくなっていく。足だけじゃない、自分のことなのに自分のことが分からなくなってゆく。
 なんだろうこれ。変でおかしい。だけど、ぜんぜん気持ち悪くない!
 むずむずをもっと、感じ取りたい。自分の中から沸き上がる感覚を追って目を閉じた時だった。

 カァンカァンという、家の出入り口からぼくまでしっかり届く、大きい音。かたいもの同士がぶつかり合った破裂音。
 がフライパンをお玉でたたいた音だった。

「ま、間に合った……」

 びっくりしたのと、なぜがそんなことをしたのか不思議なのとで、ぼくはうずうずを忘れてしまった。

(一体何のつもり?)

 ぼくが頭でつっつくと、は申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね。もう少し、そのままでいて」







「博士! 僕には納得出来ません!」

 ずっと前に女の子を連れてきたあの人が、またに会いに来ている。前と違うのは、女の子がいないことと、あの人の言葉にが喜んだりしないことだ。

 ぼくは曇った気持ちでとその人を見てる。
 あの人とが近づく度に、前はいやな気持ちになっていた。でも今になって気づいた。本当はが笑って嬉しそうにしているだけで良かったんだ。
 どうかふたりが仲良くして欲しいと思って。今日のぼくはとその人の間に立っている。

「どうして今更研究を投げ出すようなことをしたのか、分かるよう説明してください」
「……もう私が関わらなくても問題無いもの」
「確かに発表に必要なものは研究所に全て揃っている。でもそのほとんどを提供してくれたのは博士じゃないですか。だからこそ、次の発表は必ず参加、いや博士自身が行ってください! じゃないと手柄をとられますよ!」

 と違ってその人はせっぱ詰まった表情で畳みかける。なのには何も伝わっていないみたいに無表情だ。

「……、貴方何も聞いてないの? もっと好き放題言われてるものだと思った」
「え……?」
「正直興味無いのよ」
「ああー、もう! 興味有る無しの問題じゃないのは博士なら分かってるはずだ。ちゃんと評価を受けなければ、補助金だって降りてこない。そしたら次の研究だって……」
「補助なら研究所宛てに出るからそれで良いじゃない。それに、アマルスの復元についてはもう一切を手放すことに決めたから」

 どうしよう。難しい言葉が多すぎて、二人が何で言い合っているのかぼくには分からない。

「だからどうして! そこを聞いてるんですよ!
 あんなに時間も手間も何もかもをかけていたのに……!」
「代わりに得るものがあるから、良いのよ」

 間に入れなくて立っているしか無かったぼくを首の根本から、はそっと抱き寄せた。

「ね、アマルス」
?)

 すごく近いところでと目が合う。近すぎての口元は見えないけれど、優しく目が細められる。ぼくは、上手く言えないけれど、ふわふわと浮きそうな気持ちになっていた。

(何? どうしたの?)
「ううん」

 ぼくにとっての行動がよく分からないけれど、それは男の人にも同じみたいだ。ぼくたちをまっすぐに見つめてくる。さっきまでずっとに怒っていたのにそれもなくなって、苦い表情のままだけど何も言わなくなってしまった。

「これで良いんだよ」

 ついにその人は、に自分の言うことを聞かせられなかったみたいだ。
 男の人が渋々と帰る準備を始めて、はそれを手伝いながらぽつぽつと喋っていた。

「昔から、あまり感情が読めないってよく言われた。何を考えているのか分からないらしくて。きっと頭で物事を考えすぎるから、顔をどうこうするってこと、忘れるのね」

「でも、私がこの子を大事にしてることはみんなにも分かったみたい」

「研究所の人たちは実績が欲しい。研究所で全てを行われたという実績で、その他の必要なものも揃ってくる。そう、評価もお金もね」

「利害関係が一致してるの。私は欲しいのは……」

「小さなことなんだから。気に病まないで」

「心配してくれてありがとう」

「あともう少しなのよ」

 その人を町の入り口まで送って、もう別れようという時、はその人に手を差し出した。同じように、その人の手が握り返されるのをは待った。けれどその人はそのまま背を向けて、フウジョタウンへ降りていってしまった。






 暑いものは暑いってことしか分からないけれど、ぼくは寒さについてはたくさんのことを感じ取れる。強い寒さ、弱い寒さ、心地よさから気持ち悪さ。ぼくは寒さにはうるさい。
 その日の冷たさをぼくなりに言うとこうなる。緩んだ寒さ。空から降ってくる光は明るいだけじゃなく、暖かさを持っていた。

 緩んだ雪を踏みしめて、あの人が、またぼくたちを訪ねてきた。

「いらっしゃい」
「博士……」
「本当にこんな所までありがとう。でも貴方が来ると思ってた」

 慣れた様子でその人とは家のイスに座った。ぼくももう、その人に慣れてしまった。とりあえずの足下に近寄る。そこが収まりが良いからだ。
 男の人はじっ、とぼくを見て、それから暗い顔で口を開いた。

「素敵な報酬ですね」
「ありがとう」
「皮肉ですよ」
「分かってる」
「僕はやはり、博士に最後までやり遂げて欲しかったと思います。全ての評価は、博士に受けてもらいたかった」
「そう」
「ポケモン研究の未来のために、貴方にはこんなところで足踏みして欲しくなかった」
「そう」
「貴方を尊敬していますから」
「………」
「もちろん頭の良さや忍耐強い所や、実績もそうですが……。貴方がこのアマルスを復元させて言った言葉覚えていますか」

 それから男の人が言った音を、ぼくは覚えていた。

「『このアマルスは私たちの都合で蘇らせてしまったポケモンです。私たちには責任があります』って。
 覚えてませんか? 『このアマルスが今の世界を好きになって、ちゃんと、生まれて良かったと思えるように。責務を果たしましょう』って、貴方が言ったんですよ」

 驚いた。意味は分からないけれど、魔法の呪文のように、お母さんの歌のようにぼくが覚えている音を、なぜかその人が口にしたのだから。
 それはの言葉だったのに。

「……言い回しまではさすがに覚えてない」
「あれを聞いた時、貴方の中にも暖かい血が流れてるんだなって思ったんですよ」
「私も人間だよ」
「そうではなくて……、僕は嬉しかったんです。もう現代にはいないポケモンが蘇った。それが、愛情と責任を持った人の手によるものだったことが、新鮮で驚きでした」
「じゃあ聞くけど」

 そこではいったん黙ると、急に指先をもじもじさせた。

「貴方から見て、わたしは責任を果たせているかしら」
「責任という言葉は違うように思います。博士のアマルスに対するものはもう義務を越えていますよね? ……今日は届け物があります」

 机の上に何かが置かれる。ぼくが首を伸ばしてみると、前にも見た光景だった。置かれたのはモンスターボールだった。

 はそのモンスターボールを手に取ると、ぼくの目の前に持ってきた。今日はまたあの子に会えるのかと思ってまじまじと見つめる。いつまで経ってもあの時の女の子は出てこないし、ただのボールに見える。けど、はそのボールをものすごく大切なもののように胸の前で握りしめる。

「アマルス。これは貴方のだよ」
(ぼくの?)

 返事はくれないで、は背中を丸くしてぼくのだと言うボールを離さない。
 の表情は髪で隠れてしまっていて、見えない。だけど見たいと思ってしまうから、ぼくはますます強く引き込まれた。

「……じゃあ僕はこれで。アマルスのモンスターボール、確かに届けました」
「ええ」
「博士……、………」
「何よ」
「……いえ。研究所、もう少し自分で片づけられるようになってくださいね。きっと博士には一生、男の人なんて出来ないんですから」
「失礼ね」
「でもそうでしょ? きっとアマルスの全てが、博士をそうさせてくれません」
「……、そうね」

 いつも通りぼくたちは男の人をフウジョタウンの入り口まで送って行った。町がすぐ近くなる。そこがいつもの別れる場所。が手を差し出すと、男の人はそれをがっしり掴んだ。最後には二人で背中を叩きあっていた。
 あの人の背中がどんどん小さくなっていく。時々振り返るので、は律儀に手を振った。

(あの人、また来るかな?)
「ん? あの人が気になるの? 結構慣れたもんね」
(行っちゃうね……)
「またそのうち会えるよ」

 男の人の背中はもう見えなくなった。はそれでもそこに少し立ったまま、白い息を吐いていた。何か遠くのものを見るようだったは、白い息を長くふーっと吐いてから、ようやく歩き出した。
 歩き始めてすぐに分かった。この方向はまっすぐ家に向かう道じゃない。

 と寄り道が楽しみで、ぼくは少しだけより速く歩いてしまう。なんだか体が軽い。

 ぼくの体がかき分けた後をが歩く。ゆるんだ雪は不安定で、時々足が抜けなくなったにぼくはしっぽやら頭やらを差し出して引っ張った。
 今日のぼくは調子が良い。の後も先も好きなだけ行き来できる。
 どうしようもなく気持ちが高ぶって、ぼくが一声あげると、飛び出してきたのはバニプッチの群だ。相手がたくさんいてもぼくは負けない。やる気が俄然わいてきたぼくは、難なくバニプッチたちを追い払った。

 バトルが終わると、不思議な感覚が全身に走る。イノムーをやっつけた時に感じたあのむずむずだ。そうだ、あの時も戦いが終わるとぼくの体が変わってしまいそうなくらいにむずむずした。けれどが出した音で忘れてしまっていたんだ。
 を振り返ると、特に何もしないで、ただぼくを見守っていた。

 は、もうぼくのうずうずを止めなかった。

 目を開けたら、が小さくなっていた。ぼくの首の付け根くらいまでしかないが、ぼくを見上げて笑う。

「さすがアマルルガ。おっきいねぇ」
(アマルルガ?)

 アマルルガとは何のことだろう。あたりを見回すと小さくなったのがだけじゃないことに気づく。周りの木や、岩。木の陰に隠れているカチコールが木の実みたく見える。
 それにものすごく遠くまで見渡せる。

 そうか、ぼくはアマルスとして一人前になれたんだ。だから体も変わった。漠然とそう感じた。

、ぼく一人前になったよ)

 鳴いてみると声まで違うんだから驚いた。

(ねえ、どう? ぼくのことどう思う?)
「立派に成長してくれて嬉しいよ」
(すごい! 強くなれた!)

 と目を合わせようとすると今までは首を伸ばせば良かったのに、この体は違う。ぼくは首をゆっくり垂らして、下に持って行かなくちゃいけない。
 アマルルガ、とに呼ばれた。慣れないけど、成長をしたぼくのことを言っているんだと思うとこそばゆい。

「ずっと進化させてあげられなくてごめんね。今まではどうしても貴方は研究所のポケモンだったから。でももう、貴方はわたしのポケモン。わたしだけの貴方だよ」

 が手を伸ばしてくる。ぼくの頬の横を通り抜けて、そっとヒレに触れる。

「ずっと、貴方だけを手に入れたかった」

 に見つめられた今の気持ちを、ぼくはうまく言葉にできない。この気持ちの名前をぼくは知らなかった。
 ただ、がぼくを見ていることが分かって途方もなく安心した。

 化石からぼくになって、一番最初にに出会って、住む場所が変わってもぼく達は一緒で、たくさんの時間をふたりで過ごした。はぼくから目を離さないし、ぼくもをずっと見てた。本当はぼくたち、人間とポケモンで、生き物としてぜんぜん違うけれど、それでも一緒が良いってお互いに思えた。

 今が見つめているのはそんなぼく。他の誰でも、どんなアマルスでもない。たったひとりのぼくだ。





 ぼくたちは見つめあって、あっと言う間に山の向こうに消えていく太陽を見送って、一番星が見えても、動かないでそこにいた。雪の上に座って、ぼくたちはお互いを確かめ合っていた。
 それからどちらからともなく立って、帰り道へと戻っていった。辺りは暗いけど、ぼくには道がはっきりと見えた。それはぼくの体が大きくなったと同時に、ヒレも大きくなったからだ。

「私、今の時間が好き。貴方が放つ光だけで、雪の道を歩くの。人間ひとりだけじゃ危なくて歩けないのに、貴方の導きで私は歩けるんだよ」
(うん、ちゃんとついて来てね)

 ぼくはのペースに合わせてゆっくり歩く。するとぼくの光がを照らす。その横顔がどうしようもなく愛しい。

「ねえ、アマルルガはこれからどこに行きたい? 何がしたい? わたしの全てを使って叶えるよ」

 は、ぼくが何か言うのを待ってるみたいだ。
 ぼくも、が何か、たとえばぼくにして欲しいことを言ってくれれば良いのにと思う。強くなったぼくなら、きっとたくさんを叶えてあげられる。

「私は、一緒にいられたら良いなって思うよ」

 うん。ぼくもも同じものを持っている。気持ちを伝え合うのが難しいぼくたちだけれど、そこだけは間違いなく伝わっている。
 じゃあもうの心配はいらないよ。今日も、ぼくの願いは叶っている。