昔なじみで可愛がっていたヒョウタくんが友人だと言って紹介してきたのが最初だった。長身で、帽子の鍔と黒髪の下で静かな目がしっとりと光ってた。なんだか知らないけれどその人はするりと一人暮らしのわが家に入り込んで、いつの間にかルカリオ共々同じ卓でご飯を食べていた。
 大きな男が一人ぶん増えたというのに、どうも自分の家が狭くなった気も、彼といることで自分が削れていく気もしなかった。お金のヘルプもしてくれたし、私は大きなペットを手に入れた感覚で彼を許してしまった。

 彼の、ゲンさんの存在が家の幾ばくかを占拠して、もうすぐ半年になる。
 そう何ヶ月も前から。私はゲンさんとの名前のつけられないアンバランスな関係の中になぜか安定を見つけて、同じ屋根の下で眠りについている。







 季節はずれの風邪にやられてしまい、私は昨夜からぶ厚い布団の中に逃げ込んでいる。全く起きあがれなくなってしまったのは何年ぶりだろう。体燃えるように熱いのに、体の中心では寒さがうずくまっていて、頭まですっぽり潜り込んで体を丸めていた。
 ドアが開く音がして、枕元から低い男の声がする。



 布団を通り抜けてくぐもった、私を呼ぶ同居人の声。ただ単に呼びつけるような声色が、友人のようで、不器用な父親のようでもあって、反応に困ってしまう。私には、ゲンさんのことを友人や父親のみたく思えない。
 返事出来ないでいるとゲンさんの骨ばった手が、布団の中に滑り込んできて、何かを探すようにぱたぱたと暴れた。爪の先が私の髪に絡まると、それを手繰り寄せて私のつむじへ到達した。そして、よしよしと撫でてくる。
 なによ、ゲンさん。そのまま優しさに甘んじるのがなぜか怖くて、わたしはふりほどくように頭をよじった。

「起きてるのなら水分だけはとりな」
「……、ん」

 のそりと布団から這い出る。
 午前の光が目に痛い。眼球までが茹でられたように熱く、生理的に潤む視界で、ゲンさんは笑っていた。いつもより少しだけ悲しげな表情で。
 私は、この人をこんな光の中で見たのは初めてだと、ぼんやり考えていた。だっていつも日中は、共に別行動してる人だ。

 のっしとベッドが傾く。ゲンさんがベッドの端に腰掛けたからだ。

「昨日からだいぶ熱上がってしまったね」
「うん……」
「最近かなり疲れを溜めていたようだし、これを機にしっかり休んむんだよ。食べれるかい?」

 ゲンさんの膝に乗せられた白いお皿には、一口サイズにカットされたフルーツ。そのうち2、3個にはつまようじが刺さっている。
 きっと冷たいのだろう。みずみずしいフルーツは、腫れたのどをするりと通って一瞬、痛みを忘れさせてくれそうだ。

「ゲンさんが、切ってくれたの」
「まあ」
「こんなのあったっけ」
「買ったんだ」
「………」
「私もそれくらいするよ」

 ナイフの扱いが出来ないと、思っていたわけじゃない。ただいつも、どちらかと言えばこの人を甲斐甲斐しく世話するのは私の方だった。

 ゲンさんは私より年上で、体もしっかりしてるし、いつも物静かなのにポケモンバトルも強い。なのに私は、この年上かつ五体満足の彼を仕方のない人だなってため息つきながら、手助けしていた。三食食べられるか心配して、清潔なシーツやタオルを提供して、いつも洗い立ての服を着られるようにしていた。
 ナイフの扱いが出来ないと、思っていたわけじゃない、のだけど。

 フルーツを目の前にぼんやりしているのが、たぶん物欲しそうに見えたのだ。ゲンさんがつまようじに手を伸ばしひとつ、私の唇に差し出してくれた。けれど私が目を奪われたのは目の前の冷たい果実ではなく、ゲンさんの指先だった。
 つまようじをとった指に、ばんそうこうが張り付いている。昨日は無かった傷。手を伸ばし触れてみる。ばんそうこうの下には少量の血が透けて見えていた。

「ああ。少し指を切ってしまってね」
「………」
「大丈夫。明日には治る」

 ゲンさんなら本当に、明日には治してしまうだろう。寝て起きたら傷はくっつき、明日の夕方にうっすらかさぶたをつくる。ゲンさんはそうやって元に戻っていく。

 飲み込んだフルーツはやっぱり冷たかった。歯が痛むくらいに。
 飲み下して、何もなくなった口の中を見せればおかわりをくれた。

「ゲンさん」
「ん?」
「今日……、どっか、行く?」

 私が家を出る間、ゲンさんも同じようにどこかへ出かけていく。詳しく聞いたことはないけれどこうてつ島か、それ以外のどこか。たまに上機嫌だったらそれは大体どこかでバトルして勝利した時だ。ゲンさんのせいでトレーナーとはたいそう自由な生き物であるとのイメージが染み着いてしまった。

「私がかい? どこにも行かないよ」
「どっか、行ってもいいよ」

 熱はまだ下がらない。頭ものどもズキズキと痛む。けれど、ゲンさんに「そばにいて」と言える気分では無かった。むしろこうやって隣で時間を潰されるのが落ち着かない。
 いつもゲンさんを甘やかすのは私だったのに。それが逆転して、ひどく不安定な気持ちだ。

「どこにも行かないよ」

 黙り込んだ私の頭を、ゲンさんは撫でた。指の腹が髪の中まで入ってくる。私が熱すぎるせいで、ゲンさんの体温が冷たくて気持ち良い。

「行っても、いーのに……」
「そんなつれない事を言わないで。今日はずっと家に居るよ。心配なんだ」

 涼しい顔でそんな事を言うゲンさんに、私はちりちりと怒りを燃やしていた。この人に弱った時、優しくされるては困る。ゲンさんはきっと私の心境には気づいてくれない。けれど結局、怒りをぶつける勇気も、それに体力もなくて私は枕に逃げた。

「……寝る」
「おやすみ」

 そっぽを向いてもやっぱりゲンさんはこの部屋を出ていってくれない。再び潜り込んだ布団の中で、不思議なことに、いつの間にか枕は濡れていた。






 絶対に、あの風邪の日が契機だった。あの日からゲンさんの様子がおかしい。

 何がおかしいって、ゲンさんと妙に視線が合うのだ。同じ家に住んではいたけれど、どちらかというと私には、自分がゲンさんを見つめていた記憶しか無い。
 リビングにしっかりとした胴が寝転がっているのとか、窓から落ちてる陽の下で寝てしまってる様子だとか、ポケモンを可愛がっているところだとか。記憶の中ではやはり視線はいつも一方通行だ。
 何か私には掴みきれない変化がゲンさんには起きている。違和感を覚えながら、ゲンさんに質問をぶつける勇気はどうしても見あたらない。

 家の電気を消して過ごすお昼間。今日もゲンさんはわが家にいる。いつもなら出かけている時間なのに何をするでもなく私と同じ空間にとどまって、こちらに意識を向けてる気配すらする。
 細い息を吐いてからゆっくり顔を向けると、すでにゲンさんはこっちを見ていて、案の定視線が合う。やっぱり聞けないな、と思う。

「体調は?」
「もう、もう治りましたよ。昨日もなんともなかったし、多分全快してます」
「本当に?」

 問いかける瞳には、社交辞令を優に超えるの感情が含まれている。視線を感じるだけじゃない。あれからゲンさんは妙に私に優しかった。

「本当です」

 ゲンさんの言葉選びが簡素なのは最初っからだ。静かで文句も言わないところは一緒でも過ごしやすい。けど、今の私には心を揺らす毒にしかならない。

「ゲンさんは指、治りました?」
「いや」
「え、治ってないんですか?」
「なんだか傷がふやけてしまって」

 よく見ると、ゲンさんの指先からばんそうこうは消えたもののぱっくりと指の肉が割れたは健在だ。

「何ともないよ」

 ゲンさんはそういうけれど、ぱっくり割れた指先は痛そうだ。たとえ小さくても、傷口。それもゲンさんについたものと思うだけで悪寒が腿の付け根から背筋を走っていく。生理的な嫌悪に顔をしかめて、思わず手で口を覆った。

「大丈夫? 気持ち悪いのかい?」

 傷の無い方の手で背中をさすってくる。ほんとゲンさんどうしたんだろう。優しくされたら困る。今までの事が変わってしまう。アンバランスの中どうにかバランスを保ってた私の生活が、崩れてしまう。

「っやめてよ!」

 気づけば私はゲンさんを追い出していた。


 ゲンさんを、追い出した。ごく、個人的な理由で。
 ゲンさんは今怒っているだろうか。それとも呆れているだろうか。ここにいない人の気持ちなんて分からない。わたしは、空に向けてわーんと泣いてしまいたい心境だ。

 ゲンさんを追い出してしまった。
 するりと入り込んで、近くにいてくれたあの人は、いつも言葉選びが簡素で、物静かで、文句も要求も何も言ってくれなくて、今も分からないことだらけだ。
 けれどそれでも良いかなって、私は思っていた。そこにいる理由すら教えられないままの曖昧な関係でも。自分一人だけのために生きているよりゲンさんがいた方がずっと息がしやすくて、私より一回り大きい体が、彼のポケモンと共に生活に巣食っていた寂しさを埋めてくれた。

 だからこのままで良いんだって、今のままのバランスに慣れてきたところだった。変にこれ以上求めるよりは、今を大事に出来れば良いんだって自分をごまかすのに慣れてきたところだった。
 だから私は怖かった。あの人にちょっと甘くされるだけで、それらが全てひっくり返りそうだった。結局、アンバランスだ。意志が弱くていやになる。

 やっぱり、わーんって、子供みたいに泣いてしまいたい。と思ったときには、わーんとかいうレベルじゃない、わあああーって声がのどの奥から出ていた。


 涙と声と共にいろんなものが流れていって、私は気づけばからからに乾いていた。お腹も空いていた。それもそのはずだ。外の陽はすっかり傾いていた。夜ご飯の時間だった。

 キッチンの電灯を着け、私はとりあえず、冷蔵庫にお鍋のままつっこんでおいたスープを温めなおした。スープの匂いが鼻を通ってふやけた脳に染みる。鼻がつーんとなる。

「……っ」

 外の植木に水をやらなくちゃ。懸命に頭に日常をたたき込む。悲しい思考を塗り潰すにはそれしか無かった。
 コンロの火を止めて、私はじょうろを手に取った。開けようとしたドアが、ごつんと柔らかな何かにぶつかった。

「あ……」

 夕日を遮る、長身の人。家の中で顔を合わせるばかりだったから、紺のジャケットを着ているのも帽子を被っているのも、ものすごく久しぶりに感じられた。
 見上げると、帽子と黒髪の下で瞳が悲しそうに光っている。私はドアの内側でびくびくとゲンさんの様子を伺う。うなじは、見下ろすというよりはうなだれた時のラインを作っていた。それよりも気になるのは彼の手に握られた小さなブーケだ。私の視線に気づいて、ゲンさんは無言でそれを胸の高さまで持ち上げた。白や黄色の素朴なお花たちが新緑の色を保ったグリーンと重なりあって小さな花弁に精一杯のかわいさを宿している。

 小さく開けた扉を挟んで、沈黙ばかりが交わされる。何も言わないゲンさんに苛立って、私は意地悪をした。

「なんのつもりですか?」
「………」
「どういうつもりなのか、聞いてるんですけど」
「この花は、……今までの感謝をせめて伝えようと思って買ったんだ」

 私はもう一度、ゲンさんの胸のブーケへ目線を落とした。緑と白と黄。三つの色合いが急に寂しいものに見えてくる。
 今までの感謝を伝える花束。そんな言い方、まるで、これが最後みたいじゃないか。

「もうお別れってことですか……?」
「その覚悟はしていた」

 ゲンさんは、さよならを告げるためにここに戻ってきたんだ。ゲンさんの顔を見れなくなって、けれどブーケが目に入っても胸が痛くて、私の目線は玄関のタイルを泳いでいる。

「でも、さっき君の家からご飯の匂いがして、そしたらやっぱり仲直りしたくなったよ」

 思ってもなかった言葉だった。私は、ゲンさんが私を嫌いになったとばかり思っていたから。

「仲直りは違うな。なんと言ったら良いかな。また、前に戻りたくなったんだ」

 こちらも意外な言葉だった。だって、私たちの間の物事に変化をもたらしたのは明らかにゲンさんの方だったから。

「戻れないって、思ってるんですか……?」

 一度は言葉に迷って、ぎゅっと眉をしかめてそしてゲンさんは吐き出した。

「ダメだと言われても仕方が無いと思うよ」

 目の前のゲンさんは、私の選択を待っている。
 勝手に近づいて勝手に離れていく。ゲンさんはそういう気まぐれな生き物だと思っていた。主導権は私には無いと思っていたのに。

 ゲンさんが戻ってきたいと言っている。私はそれを迎え入れたいと思っている。
 けれど私自身は以前の、「これで良いの」と言える私に戻れるだろうか?

 またゲンさんと一緒に暮らしたとして、私はその中で今までと同じくアンバランスの中に安定を見つけられるだろうか。これで良いんだと言えるだろうか。もうゲンさんの優しさが、愛しくてたまらないのに?
 そんなの、無理に決まってる。

「ゲンさんはそれで平気かもしれませんが、私は無理です」
「どうしても?」
「だって元に戻れるって思えない! もうぐちゃぐちゃなんです……!」

 涙をこらえようとして一度閉じた視界で、ゲンさんがリフレインする。あの風邪の日から、私を見つめるようになったゲンさんが。

「今までどうやってゲンさんとの距離を保っていたのか分からない。私がゲンさんといて何をしてたのかも分からない。そもそもなんでゲンさんと一緒に居られたのかも、分からないし」
「それは、私が寂しかったからだよ」

 ゲンさんの胸元で、花束を包むセロファンがくしゃりと音を立てた。

「初めて会った時、君をヒョウタくんから紹介された時からそうだった。と一緒に居ると寂しさが埋まっていくようで、だから惹かれて近づいたんだよ。
 そうしたら文句も言われないし、強く拒絶もされないから、甘えてしまったんだ。心地よくて自分から出ていくというのがどうしても出来なかった。だから、怒られるまでは良いかな、と。ごめんね。私はずるい人間なんだ」

 ゲンさんはいつも多くを喋らない。ほとんどの場合、受け流すように静かに微笑する。けれどそれは彼の悲しい性質だったんだ。今、ゲンさんの失敗作の笑顔を前にしてそう気づく。

「ずっと、追い出されるまでは、と思っていたんだ。追い出されたら、そこで諦めなければいけないと頭では分かっていた。けど、戻ってきてしまった」
「………」
「この花を持っていって別れの挨拶をしよう。そう自分に言い訳をしていたんだ。けど近くに来たら美味しそうなスープの匂いがして、帰りたいって思わされたよ」

 匂いだけですぐの家だと分かったんだ。そう言ってゲンさんは肩をすくめた。私は笑えなかった。

「けど、もうこれきりにするよ。ちゃんと区切りは着ける。今までいろいろ、ありがとう。感謝しきれないくらいだ」

 私が動かないのを見て、ゲンさんは花束を地面に置こうとする。

 とっさに思う。それをされたら何もかも終わってしまう。
 私はドアをはね飛ばし今の今まで握りしめていたじょうろを放り投げ、ゲンさんの手を掴んだ。私なんかの手じゃ包みきれない、大きい手のこぶしを。

 手放されたじょうろは中身をぶちまける。水浸しになった玄関は鏡のように茜色の空を映し出した。

……?」
「ゲンさん、なんで私にあんなことしたんですか……!」
「あんなこと?」
「ずっと居るだけだったくせに。ゲンさんが急に優しくするから、私どうしたら良いか分からなくなって……! 私、……」

 続きの言葉は自然と浮かんだ。胸の中、答えが生まれて、ああそうか、と思った。手のひらの中の、堅い手をもう一度しっかり握りしめた。

「私、初めての恋だから」

 もう前には戻れないと分かっていたから、伝えられた言葉だった。

 茜色が一番激しい時刻は過ぎていて、あとは冷えていくだけだった。玄関の水鏡はすぐに暗い色しか映さなくなった。
 ゲンさんのまとう色と同じ、濃紺の空の下で、私の体は熱かった。手の中の存在に、心臓が走ったままだ。

「……ゲンさん」
「は、はい」
「そろそろ返事、ください」
「え、えっと、……私も好きだよ」
「……ほんとですか?」
「本当だよ」
「いつから?」
「この前が風邪をひいた時。初めて求められているように感じた。必要とされて、嬉しかった。ずっと嫌われるまでは近くに居ようとしか思っていなかったのに、もっと求められたいと欲が出るくらいには嬉しかったんだよ」

 ブーケがゲンさんの元へ戻っていく。同じく私もゲンさんの元へ引き寄せられ、だめ押しのように頭の後ろに手が回った。
 そのままおでこが、ゲンさんのジャケットへ到達する。ゲンさんしか見えなくなってしまった。意識した途端に胸が苦しくなる。心臓が、口から出そう。思わず私はしっかり口を引き締めていた。


「はい……」
「お腹すいたよ」

 私がゲンさんを意識し過ぎて苦しくなっているのにこの人は。
 むっ、としているのになぜか笑ってしまう。

「ご飯、一人分しかありませんよ」
「え……」
「これからもう一人分増やすので、30分待ってくださいね」

 今度は私が、ゲンさんを引き寄せる。花束ごと。

「っうわ!」

 ゲンさんは体がしっかりしてるから。急に引っ張った程度じゃなんともないと思っていた。なのにふいうちが決まってしまったらしい。
 私たちは玄関で、バランスを崩して倒れ込んでしまった。フローリングに完全に仰向けになってしまった私と、ちゃんと手を床についたゲンさん。事故で重なりあってしまったのが、妙におかしく感じられ、初めて私はこの家のアンバランスを笑った。