パキラ←ヒロイン←ズミ
しかもズミさんちょっと報われない
あの人が強い上に厳しく、そして一度怒りを買えばそれは恐ろしいことになるだろうと、初めて会った時にもう気づいていた。それでもこの人につけば、私は望んだものを手に入れられる。そう確信して、骨ばった苦労を映し出す白い手をとったのだ。
けれどもう、心は折れそうだ。
「どうしてこの程度のことも出来ないのですか」
ズミさんの元々切れ長の瞳が刃物のように鋭くなった。この人に睨みつけられると私の心臓はキュッと縮こまって速鳴りをする。
私はエプロンの裾を握りしめる。
「貴方にはこれくらいのこと簡単にやってもらわねば困ります」
「すみません……」
「貴方に教えることは山ほどあるのですよ。火を扱うということをただ“焼くこと”だと思われては困ります」
「すみません……」
涙が滲む。どうしてこうなったのだろう。
だって私は、ただ愛するパキラさんのために、料理の腕をあげたいだけだった。
招かれて行った広いキッチンのある部屋。ここでズミさんの怒りを買ってしまった私が何者かと言うと、パキラさんの付き人、のようなものである。トレーナーとしての彼女、アナウンサーとしての彼女、プライベートの彼女……。あの人の全てをサポートするのが私の仕事、いや使命だ。
スケジュール管理から荷物持ち。そこにパキラさんのオーダーがあるならば、私はそれを必ず叶える。私の全ては、パキラさんが最高の彼女であり続けるために注いでいる。
パキラさんにくっついてカロスを巡る日々なので、業者として特例的にリーグには出入りが許されている。そこで出会ったのが、四天王のうちのひとり、ズミさんだった。
きっかけをくれたのはズミさんからだった。四天王でも無いのにリーグに頻繁に出入りする私が目に付いたのだろう。パキラさんを待つひとりの時に、急に話しかけられたのだ。私は何者でもなく、ただパキラさんの付き人であるということを告げるとズミさんは納得したようであった。
それからも、リーグにお伺いするとズミさんは話かけてくれた。眉をしかめて近づいてくるので、最初は「何かお叱りを受けるのでは」とびくびくしたものだったが、今ではそれも慣れてしまった。だって、しかめっ面をしているのに、近づいてきたズミさんが話すのはたわいもない世間話なんだもの。
静かに何かを考え込んでいる様子でも、私に気づけばズミさんは礼儀正しく挨拶をしてくれる。私も礼の限りを尽くして挨拶を返すと、「今日は良い天気ですね」とか、「大量発生のニュースを見ましたか」とか。前髪を切った次の日、「少し雰囲気が変わりましたね」と言われたのには驚いた。さすが、四天王たりえる鋭い感性は、私のささやかな変化にも気づくのだ。
挨拶と世間話を重ねてきたが、これまでもこの方の笑顔を、私は見たことがない。それでも、私はズミさんの良いところを知り、今ではもうこの人の前でほとんど緊張することがなくなっていた。
そう、それで。世間話の傍らで私はぽろっとこぼしてしまったのだ。
「パキラさんの美と健康をサポートするためにもっと料理が出来たらいいなって思います」。そしてそんな言葉をズミさんは大変真剣に拾い上げてくれた。
ただ、この人の真剣は、レベルが違ったのだけれど。
「先ほどからすみません、すみません、すみません。そればかり。謝罪は必要ありません。他に反省は無いのですか」
「すみません……」
料理が出来たら良いという言葉は決して冗談じゃなかった。でも、ズミさんほどの真剣さも持っていなかった。
自分が情けない。ズミさんのように道を極める人の手前、軽々しく料理がしたいなんて言ったことが情けない。それに、せっかく教えてもらっているというのに、言葉の通りになかなか出来ない、自分のふがいなさ。
ここで泣いたら、ズミさんが悪者みたいになってしまう。だからこの目に張った水は落としてはいけない、のに。
「……っ」
ズミさんがうろたえて、言葉を詰まらせたこと。どうしたら良いか分からず、その白い手が宙をさまようのが、滲んだ視界で見えた。その、すまなさそうな顔にまたごめんなさいと自分が情けないと思う気持ちは膨れ上がった。
「す、すみません、本当に。こんなつもりじゃ……。あの、気にしないでください。構わずもっと怒ってください。私が、いけないんですから……、がん、が、がんばりますから……」
根性の無い、私がいけないのです。ズミさんの言うとおりに出来ない私がいけない。ぐいと涙を拭ってから包丁を握ると、その手をそっとズミさんがとらえられた。
「……、すみません」
なぜか謝られて、私は頭を横に振ったけれど、そのままズミさんの手が、私から包丁を奪っていった。
ズミさんはそのまま私の背をそっと押して、木製の椅子に座らせると、一杯の水を手渡してきた。切り子のグラスに、澄んだ水。それを見ているだけで、顔に集まっていた熱がすうっと消えていくようだった。一口飲むと、胃の中が冷えて、洗われていった。
「落ち着きましたか?」
向かいの席に座ったズミさん。さっきまであんなに突き刺さるようで怖かった視線が、今はまっすぐに見ることができる。それはズミさんのおかげでも、ズミさんがくれた一杯の水のおかげでもあった。
「ズミさん、ごめんなさい」
「謝らないでください」
「いえ、泣いてしまってすみませんでした。ずるいですよね、出来ないのは私自身なのに……。本当にごめんなさい」
「私も。あなたを追いつめ過ぎました」
「いいんです」
「……、私が怖かったでしょう」
「そんな。ズミさんの料理への情熱、とても伝わってきました」
「情熱もありますが……」
ズミさんは深く沈んだ様子でため息をついた。
「貴女なら出来ると思いました。だから、つい厳しく……」
「そうだったんですか。私、期待されていたんですね」
「ええ。先ほどはあんなに罵倒してしまいましたが、貴女の料理には良いところが確かにあります。その、技術的なことではなく、気持ちがこもっていて、美味しかった」
「ズミさん……」
先ほどの恐ろしい顔が思い浮かぶ。ほんの数分前まで、私を真正面から射抜いた厳しく鋭いズミさん。今では、恐怖よりもじんわりとした嬉しさが勝る。
「ズミさんに美味しかったなんて言われると、すごく心強いです」
「美味しかったですよ。好きでした、味が」
お世辞かもしれないと分かっているけれど、自分の心に素直になるなら、ズミさんの言葉が嬉しく仕方がない。自分の自信のなかったところを、尊敬できる人に褒められたのだからかぁっと体全体が熱くなった。
「優しいんですね」
笑いかけると青い瞳は反らされてしまった。
こわばっていた心はもう元通りの流れを取り戻していた。私はぐい、とグラスを傾け全ての水を飲み干した。それはわたしの手のひらでぬるくあたたまっていた。
「さん」
「はい」
「料理は本当にあの人のためだけに勉強を?」
「あの人というのがパキラさんのことなら、そうですよ」
「そうですか」
私が首を傾げると、ズミさんは慌てて言葉を接いだ。
「いえ、女性なのだから恋人のためというのも、あるのかと」
「そんな。恋人なんていませんよ」
恋人はいない。家族もいない。けれど、この胸に巣くって私の生きる理由となる人ならいる。私の目はズミさんの瞳をとらえる。彼といる今も見る幻影は炎の色をしている。
「私はパキラさんを愛していますから」
また体がぽかぽかと熱くなってくる。少し大胆な告白をしてしまった。でも、ズミさんになら言えると思った。見た目やまとうものが怖くても、その崇高な信念が他人を圧迫しているとしても、私はこの人と時間を重ねて知ることができた。
ズミさんは、良い人だ。本当に、とっても良い人だ。