あっ、と声にならない声が出た。丹念に撫でていたイーブイが膝の上から跳ね出て、ダイゴさんの方へ行ってしまった。手を伸ばした先の視界で、イーブイがダイゴさんに飛びついて、こともなげにダイゴさんはそれを受け止める。ひとりと一匹。また机の上に広げたものに夢中になったしまった。
 ダイゴさんが夢中になるもの。それはもちろん石である。こうなると何もすることが無くなってしまって、わたしはソファの中にますます沈み込む。
 ポケモンって良いな。石を前にしたダイゴさんの世界に無邪気に入っていける。ダイゴさんと石だけの世界。それを目の前にするとわたしはどうも遠慮してしまう。ふう、と息を吐く。

 ふとカバンの中からポケナビを取り出すと新着情報を知らせるランプが点いていた。
 早速開いてみると、エントリーコールがいくつもついている。中には最近会っていない、ホウエンの反対側にいるトレーナーからも入っていた。トウカの森の入り口でバトルをしたおじょうさま、それにカナズミへ続く橋の前で待ちかまえていたミニスカートさん。
 育てやさんの前をシダケ方面にずっと行くと会えるポケモンブリーダーさん、とはついこの前もお話したばっかりだけど、また会ったって良いよね。
 考えているうちに自然と作ってしまった笑顔でポケナビでのぞき込む。次の土曜日も日曜日も何かしらの予定は入ってるけれど、時間見つけて会いに行こう。


「え、あ、はいっ」

 堅い声で名前を呼ばれて、反射的に顔をあげると、ダイゴさんの腕を蹴ったイーブイが見えた、と思ったらすぐ、そこは一面イーブイの色。驚いた拍子に思いっきり息を吸い込んでしまって、舌にイーブイの毛の感触がある。

 そっと鼻をかすめる香り。続いてソファが男の人の体重を受けて揺れて、わたしは気づく。
 ダイゴさんはバトルが強くて、ふらりといろんな場所へ出かけては見つけた石を見せてくれる人。周りから変わってると言われることも多い。けれどやっぱりこの人の土台は育ちの良いお坊っちゃんだ。
 何が言いたいかというと。ソファを揺らすこんな乱暴な座り方をダイゴさんならしない。だから、もしかしたら隣に座ったダイゴさんは機嫌が悪いかもしれないと思うのだ。

 甘えて頭を乗せてきたイーブイを数センチ持ち上げて、そろりと横を見る。
 そこにいたのは予想通りむくれたダイゴさん。だけど予想外の表情をしている。

「……そんな顔もするんですね」

 思わずそう言ってしまった。とがらせた唇。整った輪郭とその頬が、空気を溜めてぷっくり膨らんでいる。まるで子供みたいだ。

「ここにはちゃんと僕しかいないからね。いつもより素直な僕なんだよ」

 喋り終わるとまた膨らむ頬。ちょっとつついてみたいなと思うけれど、この状況でそんなこと言い出せない。

「で、二人しかいないここで、ちゃんは何を見ていたのかな」

 言葉に促されて膝の上に置きっぱなしのものを見る。

「ポケナビ、ですね」
「そう」
「ごめんなさい」
「僕がいる時は僕だけ見てなきゃ……っていうのは僕のわがままだって分かってるんだけどね」
「ダイゴさんが石見てて楽しそうだったから」
「楽しかったけど、ちゃんが来ればもっと楽しかったのに」
「邪魔しちゃいけないかなって」
ちゃんを邪魔だなんて思わないよ」
「ごめんなさい」
「僕もごめん」

 ダイゴさんのほっぺたが元に戻って、唇が緩やかな弧を描く。許されたのかな、と思ってわたしも安心して笑う。
 いきなり首から胸のあたりに収まっていたイーブイがじたばたし出す。不器用にわたしの胸から降りると、柔らかくなった二人の雰囲気の間にイーブイは入り込んで、ちょうど、わたしとダイゴさんの間に値転がる。しっぽはダイゴさんの太股に思いっきり乗せて、頭はわたしの膝に乗せて、ひとつあくびをした。

「イーブイ、最近すごく表情が良いよね」
「そうですね。わがままも言うようになりました」

 イーブイはわたしにも慣れたけど、ダイゴさんにもすごく慣れた。今もイーブイの頭を後ろから撫でるダイゴさんの手を受け入れている。

「ダイゴさんはこういうポケモンの扱いも上手なんですね」
「ちょっと慣れないけどね。柔らかくてふわふわしてて。力加減に迷うよ」

 そうは言うくせにダイゴさんのイーブイを撫でる手つきはとても優しい。茶色の毛並みを滑る、長い指とかたちのきれいな爪。実際にイーブイも気持ちいいみたいで、目が細められていく。
 きゅう、と鳴いたのはなんの言葉だったんだろう。分からないけれど、気持ちいいとか寝ちゃいそうとか、そういう小さな幸せの言葉なんじゃないかと思う。

「実はさ、ちゃんのイーブイもそろそろ進化の時期じゃないかと思って、進化の石を見比べていたんだ。せっかくだから良い石を使ってもらいたいし」
「そうなんですか。進化の石にも、良いものとそうじゃないものがあるんですね」
「ううん、僕の好み」
「………」
「進化の石と言えど、ひとつひとつ形が違うからさ。それによって光の取り込み具合も色味も違って見える」

 視線の先に何かを思い浮かべて、ダイゴさんは本当に楽しそうに語る。言葉の節々にじんわりと熱がこもっていて、やっぱりダイゴさんと石だけの世界はあるんじゃないかと、少しだけ壁を感じてしまう。

「ダイゴさん」
「うん」
「ごめんなさい、この子はブラッキーにするつもりなんです」
「えっ、なんで?」
「メタグロスにばつぐん取れるんで」
「………」
「というのは冗談で、ブラッキーに憧れているからです」
「そっか」
「でもどれかひとつください。ダイゴさんがくれるものは何でも嬉しいですから」

 イーブイはブラッキーにするつもりだし、しかもダイゴさんがくれる進化の石だから、きっとそれは一生使わないで鞄にしまう宝物になるだろう。

「っ山ほどあげるよ!」

 またソファが揺れる。ダイゴさんが急に顔を近づけてきた動作で。ジャケットと膝の間に挟まれてしまったしっぽをイーブイが引っ張った。

「ひ、ひとつで良いです、さすがに」
「じゃあ僕が一番好きな石をあげるよ」

 ソファのスプリングが大きく跳ねる。今度はふたりで立ち上がったから。わたしはイーブイを抱き上げて、ダイゴさんのすぐ横を歩いていって、机の上の石たちをふたりでのぞき込んだ。



 あ、そうだ。さっき、むくむくとわいていた小さな願いを思い出す。

「ダイゴさん、ほっぺた。ぷくっとしてください」
「? うん?」

 わたしは空気を口の中に閉じこめて見せると、ダイゴさんも訳を分からないなりに真似をした。
 油断と隙だらけの両手で包んでつぶすと、はじけたようにこぼれた息。間抜けな音にすぐ、二人して笑いだした。



(ぱせりさん、ありがとうございました~!)