その子といると、世界がちょっぴり優しく見えた。僕に向かって、微笑してる気までしていた。

 ひとつ年上の女の子はその日、新品のランニングシューズを履いていた。それに「10才になったお祝いに買って貰ったの!」と何度も見せてくれたバッグ。ちゃんは元々動きやすい服装が好きだと言っていたけど、旅の服装もぴったり似合っていた。腰につけたモンスターボールまで、何もかもが新しかった。
 これからポケモントレーナーとして旅に出るちゃんは、身につけているもの全てがぴかぴかで、けれど表情だけは曇っていた。僕も少し前を歩くちゃんを、朝露みたいにまぶしく思いながら、けれど悲しくなっていた。昨日まであんなにたくさんの話をしたのに、今日の僕たちは喧嘩した後みたいに何も喋らない。

 町の真ん中でちゃんが立ち止まる。

「ミツル、もうここで良いよ。無理しないで家に帰りなよ」
「ううん。出口まで行くよ」
「そう? ……寒くない?」
「寒くない」

 本当は朝の風が冷たくて、僕の体の中まで吹きすさぶようだった。僕の体はその冷たさに負けそうで、体の奥がつきつきと痛むのを感じていた。けれど僕は意固地になって、滲むいやな汗も無視をして、町の出口までついていった。最後のぎりぎりの時間までちゃんといたいから。

「ミツル」

 立ち止まったちゃんがそっと僕の手に触れる。僕じゃなく目の前の道を見ながら。ちゃんの体温が僕の握りしめた手から緊張を取り去って、それからゆっくりと指を絡ませる。
 握りこぶしに入り込んでくる指。なんてあったかいんだろう。とくとく鳴っているこれが、これから走り出す人の血のめぐりなんだと思った。それを熱くてやけどしそうだと感じる僕の手は、なんて冷たいんだろう。

「旅は楽しみ。けど、本当はミツルのことが心配。ミツルも一緒にいけたら……」

 そこから先をちゃんは言わなかった。外で体を動かすだけで周りに心配をかける。そんな僕が旅に出るなんて、無理だと分かっているから。

「トウカにもなるべく戻ってくる。けど、遠くの町にも行かなくちゃいけないから……。でも何かあったらわたしを呼んで。すぐ戻ってくるから。いつでもメールして。寂しくなった時は電話しよ。わたしは旅に出るけど、ミツルのこと嫌いになったわけじゃないんだからね。ほんとはもっと一緒にいたい。だけど、行かなくちゃ……」

 さっき目の前の道を見据えていた瞳は、今はランニングシューズのつま先を見ている。行かなくちゃと言ったのにちゃんは僕の手を握ったまま。ああそっかと、胸に染み渡るように気づいた。
 僕がここにいるから、ちゃんは笑顔で出ていけないんだ。僕の体が弱いせいで僕の心配ばかりしなくちゃいけない。
 だから、嘘でも良いから言わなくちゃと考えた。

「戻ってこなくてもいいよ。僕は、ちゃんがいなくても平気」
「……、そっか」
「うん」
「そうだよね」
「うん。何ともない」
「分かった。ばいばい、ミツル。元気でね」

 熱かった指がついに離れていく。ついに正面から見られなかったちゃんの背中が遠ざかっていく。何ともないとついた嘘のせいで、上手に手が振れない。平気なふりした僕でいようとすると、胸がつまってしまう。

 その子がいなくても僕は大丈夫。ただ少し、これからの毎日が大変そうに見えるだけ。

 僕の強がりのせいか、それとも最後についた嘘をちゃんは本気にしたのか。ちゃんがトウカに戻ってくることはなかった。







 降りしきる雨の中で、ライボルトに襲われているトレーナーがいた。トレーナーはポケモンをかばうように水たまりの中へ倒れ込んで、勝負は決まっているのにライボルトは退こうとしない。それどころか体に電気を走らせてとどめの姿勢をとっている。
 助けなければ。僕はすぐにボールを投げた。
 先にサーナイトをライボルトの前に走らせて牽制をかけて、僕も走ってトレーナーとライボルトの間に入った。驚いたライボルトに一気にしかける。

「サイコキネシス!」

 突然の強力な攻撃にライボルトはひるんで、あっけなく草むらの向こうへ退いていった。その音は聞きながら、けれど僕がライボルトを見送ることはなかった。水たまりの中の女の子から目が離せなかったから。

ちゃん……?」
「え?」

 ちゃんとは、僕の家かトウカシティの中でしか遊んだことがなかった。あの町の景色の中にはいつもちゃんがいて、僕の部屋にもちゃんが落としていった思い出がある。
 けれど、今、目の前。見たことのない景色の中に見慣れたちゃんがいて、ああ僕は遠くまで来たんだなと思った。

 ちゃんは水たまりの中に尻もちをついていた。まひ状態のポケモンを守るように抱えている。足を包むのは土に汚れた、とても柔らかくほぐれて足にフィットするランニングシューズ。あの日真新しかった旅の服装は少し色が薄くなった気がする。

ちゃんだよね?」
「う、うん」

 久しぶりに声に出して、届く距離で呼んだ名前。ちゃんは目をまんまるくして、水たまりの中から次々質問した。

「どうして? なんで、ミツルが? 今の、助けてくれたの? そのサーナイトは? トレーナーに、なったの? っ体は?」
「え、えっと……」
「ねぇ、ほんとにミツルなの?」

 どれから答えようか迷うくらいたくさんの質問が僕を通り抜けていく。けれど最後の問いかけだけは素直に答えが出た。

「うん、僕だよ」
「………」
「大丈夫? 立てる?」

 ちゃんを気遣って出た言葉。それは、さんざん僕がちゃんからもらっていた言葉たちだ。

「ごめん、ちょっと、足をくじいて……」
「じゃあ僕につかまって」
「でも」
「平気だよ。大丈夫、つかまって」
「………」
「とにかく雨がしのげる場所にいこう。体が冷えちゃう」

 ちゃんはようやくポケモンをボールに戻して、僕の手をとった。

「ほんとに平気……?」
「大丈夫だって」
「でも……」
「僕もここまで旅をしてきたトレーナーなんだよ。ちゃんを支えられないほど、弱くはないよ」
「……、うん……」

 肩にちゃんを抱える。女の子ひとりぶんの体重。それは思ったより軽い。ふと横を見ると、久しぶりのちゃんの横顔が近くにある。
 変わってない、けれど違和感が残る。歩きだした僕たちは、妙に歩調がきれいに合わさっていて、僕は違和感の正体に気づいた。ちゃんとの身長差が小さくなっている。
 昔はちゃんがゆっくりゆっくり歩いて、僕は息を軽く切らしてついていった。なのに今は自然に足を踏み出すだけで、僕とちゃんは無理無く歩けた。

「ミツル、旅に出たんだね」
「うん」
「知らなかった」
ちゃん、帰って来なかったから」
「………」
「驚いた?」
「うん、ものすごく。だって、わたしの知ってるミツルは、風が吹くだけで倒れちゃいそうだった」
「うん……」

 ちゃんの言うとおり、トウカにいたのは、風の勢いに時々負けそうになる僕だった。ちゃんを町の出口まで送るだけのも必死になってしまう僕だった。

「でも、やってみたら、僕にも出来たんだよ。ポケモントレーナー」
「………」
「いつかちゃんに追いつかないかなって思ってたよ。どこかで会えないかな、って」
「……っ」

 不意に、ちゃんの体が熱く強ばった。顔は下を向いて見えない。けれどかみ殺すような泣き声が、雨の隙間をぬって僕に届く。

ちゃん? 大丈夫? どこか痛い?」
「ううん、痛く、ない」
「じゃあどうしたの?」
「ただ、こ、こわかった、から。ミツルが、来てくれなかったら、って、……っ」
「もう、大丈夫だよ」
「うん、うん……っ」

 ちゃんの嗚咽は苦しそうだ。けれど、安心したからこんなにも泣いているんだと思うと、困りながら笑ってしまう。
 雨をしのげる木の下にたどり着いても、ちゃんは僕を離さなかった。むしろシャツをしっかりとつかんで、泣きじゃくった。
 雨粒と木の葉がぶつかる音にちゃんの水っぽい声が混じる。

「あのね、ミツル。ミツルが元気そうで良かった。元気そうどころか、ミツルがちょっと会わない間にすごくしっかりして、びっくりした……」

 ちゃんからのしっかりしてるという言葉が嬉しくて「本当?」と聞くと、「本当だよ」と返ってくる。また僕は嬉しくなる。

「本当にそう思った。ミツルの言った通りだったんだね」
「僕の?」
「うん」

 赤くなった目は、悲しげに細くなって僕を見る。

「ミツルは、わたしがいなくても平気だったんだね」

 すぐに、お別れした時の思い出がよみがえった。ちゃんについた嘘のことを。

 やっぱりちゃんはあの日の僕の言葉を信じたのだ。僕を疑わなかったことは嬉しい。だけど真に受けたちゃんが、歯がゆい。

 平気なわけがないのに。毎日一緒に遊んでいた女の子がいなくなって、今まで通りでいられる訳がないのに。
 僕は君がいないと寂しくて、世界も何かを失って見えて、一日を過ごすのが大変で。悲しい気持ちをやり過ごす方法がなくて、今までならちゃんがいたのにと思うともっと悲しくなってしまっていた。
 そんな日々をちゃんは知らない。

 僕にとって当たり前の感情はちゃんには分からないんだ。そう思うと、僕の中に走り出したいような気持ちが生まれた。
 走り出したい。けれど、何かが猛烈に歯止めをかけている。しちゃいけない、それをするとちゃんが驚くし、今までのことががらりと変わってしまう。
 もしかしたら嫌われてしまうかも。そう思うと留め金はしっかりと制止をかけてくるのだけど、僕が止まることは無かった。

「え、ミツ――……」

 降り積もった僕の感情が雪崩を起こしたみたいだった。こらえたぶん止めようの無い衝動で、したのは、責めるようなキスだった。

 あんなに触れたかった、ちゃんの女の子らしい部分に近づいて、離れる。それだけの動き。
 だけど僕は、これでちょっとでも届けばいいなと思っていた。僕の寂しさが、ちゃんを呼んでいた声が。

「嘘ついてごめん」

 僕は平気。ちゃんが僕がいるせいで旅立てなかったからそんなことを言った。
 でも今ならあんなの嘘だよと言っても大丈夫だと思えた。あの時は見送ることしかできなかった。けど今の僕なら、ちゃんと一緒に歩き出せるんだから。

ちゃんがいなくて、平気なわけないよ。ずっと会いたかったよ」

 また目をまんまるくしたちゃんは固まって、何も言えないで僕を見ている。

 仲は誰よりも良かったけど、そういう関係じゃなかったし。僕は好きだったけど、ちゃんの本当の気持ちはよく分からない。なのにキスしてしまった。嫌われちゃうかもしれない。
 でも、僕はなんだか目の前が晴れたようなすっきりした気持ちだった。あの日の嘘を、嘘だと言えた。好きな女の子を、こんなにも好きだったって、自分の感情を再確認できた。

 今、木の下で体を冷たくしている、僕より少し背が高かった、ひとつ年上の女の子。いなくなって、あんなに寂しかった。ずっと会いたいと思っていた。
 それに、僕の真横で、ちゃんが泣いた。それだけでやっぱり、世界が優しく見えたんだから。気持ちが雪崩れて止まないくらい、僕は君が好き。