ナマエは僕の婚約者だ。幼い頃から親同士が取り決めた仲で、僕らはそのことに特別な感動も、けれど婚約を解消するほどの嫌悪も抱けずに今に至る。
 “僕ら”。つまり僕だけじゃなくナマエも、同じような考えを持っているということだ。僕を束縛したり、婚約者の立場を主張するほどには好きになれず、けれど嫌いにもならなかったようだ。彼女は今、暖かなテラスで僕の向かいで微笑を浮かべ、南風に吹かれている。

 木曜日のデートは僕たちの習慣だ。前述の通り、お互い特別な気持ちは無い。彼女も半年くらい僕に会わなくたって平気だろう。けれどあまりに会わないと「終わったのか」と判断され、世話を焼く人、やっかんでくる人がいるのだ。お互いにそれもまた面倒で、こうして定期的に会う習慣が生まれた。
 土曜日、日曜日に重ならない。次の日があるから大した無理もできない。そういう木曜日に僕たちのルールは着地した。
 といっても会うだけだ。同じ場所で息をして、あとはお互いに別々のことをする。僕は石を愛でて、ナマエは本を読んだり、友達にメールを書いたりする。
 今日の彼女は、どこからか連れてきたエネコを愛でている。

「なに?」

 顔はエネコに向けられたまま、瞳だけがこちらを見上げる。その時、初めて自分の手が止まっていたことに気づく。

「いや、ナマエらしいなと思って」
「エネコが? そうかもね」

 そうかもじゃない、そうなのだ。彼女の周りには何かと柔らかいもので溢れている。膝の上で丸くなって寝ているエネコを見下ろす、その耳から溢れる毛束さえ、緩やかな弧を描いている。
 それは彼女が、着るものひとつにも気を使われた良家のお嬢様だからだろう。長く華奢な手足、少し硬そうな体つき。その硬さを包み隠すように、何かから守るように、柔らかく、たるみを見せるような衣服を纏っていた。
 幼い頃からの積み重ね、簡単に言ってしまえば“育ち”によって今の、何かを包み込みそうな彼女に成ったのだ。

「お庭の真ん中で鳴いていたの。みー、みー、って」

 僕がエネコの存在を不思議がっていると思ったらしい。ナマエは不意にそう説明を始めた。

「その声があんまり可哀想で。近づいてみたら逃げないし、声をかけてお水と木の実をあげたら、すぐこの有様よ」
「やせいのポケモンだろ? 本当にエネコから膝に乗ってきたのかい?」
「ううん、わたしが勝手にだっこしたの。だって、さわり心地がすごく良いんだもん」

 そう、ナマエはいたずらっぽく笑う。やはり彼女自身も柔らかいものが好きなのだ。だから彼女の周りも同質のもので溢れ、庭先に人なつこいエネコなんかを見つけたりするのだろう。

「君のポケモンにするの?」
「……、分からない。今はこうして眠ってるけれど、元気になったらどこかに行っちゃうかもしれない」
「そんなものかな。すっかり懐いているように見えるけど」
「それはこの子が疲れてるからよ」

 エネコの気持ちは分からない。ナマエはそう言う。自分がエネコを手に入れたいかどうかを棚に上げて。
 本当はエネコを気に入っているんじゃないかと、僕は思う。触って、膝に抱き寄せたくらいだ。エネコの眠りを妨げないようにしながらも、撫でる手つきが止むことは無い。

 暖かく、柔らかいもの。彼女が抱き上げ頬をすり寄せるのにふさわしいのはそういうもの。けれど僕が一番に良いと思って、あわよくば彼女に捧げたいと思うものは硬く冷たいものばかりだった。いつだって。
 そういう噛み合わなさが僕たちを本当の結婚まで連れていってくれない。

 これは彼女には一度も言ったことが無いことだけど、ナマエは、実は冷たくて硬いものだって似合うんじゃないかと思っている。彼女の周りに柔らかいものが溢れている中、ひとつ温度の違うものがあったら。形を変えられないものが、キラリと光ったら、それはナマエの体つきのように人の目を奪うのではないかと思う。

 だからふとした時に考える。僕の好きな石をプレゼントしてみたい。あるいは僕がしている指輪と似たようなものを、つけさせてみたい。きっと似合うだろうから。
 考えるだけだ。どれだけ似合ったとしても、それを彼女が気に入って、笑顔で受け取るかどうかは別問題だからだ。

 実際に彼女は、僕が石の話をすると口元では笑みを浮かべつつ眉を寄せる。十数年の仲なのに、未だ僕の石好きに反射的に嫌悪感を抱いてしまうらしい。そして彼女自身もそんな自分を引け目を感じているらしい。
 ……だからなんだろうな。ナマエが時節、僕を突き放すようなことを言うのは。他の女の子と付き合えば良いなんて言葉を、ナマエは平気で言えてしまうのだ。
 僕から木曜日を奪い続けているのは他の誰でもないナマエだというのに。ダイゴの幸せを願っての事だからと、そういう発言もできてしまうナマエを見ると、僕は出来損ないの手作り料理を出された時のような、曖昧な気持ちになる。

「ダイゴ。何を考えてるの?」
「ううん」

 僕らはまた木曜日に会う。その度に僕たちはだめだなぁと思うだろう。けれど懲りずにカモフラージュのデートを繰り返すだろう。そして実ることのない開花の季節に、時間を費やすだろう。
 終わりもいつかやって来るだろう。それは僕たちが夫婦になる日ではない。僕よりももっと、彼女を幸せへ導く者が現れるその日に、僕らは晴れて解散の日を迎えるのだ。

 未だエネコへと伸ばされる手のひら。背中の丘を下って、ふわりと浮き上がって、エネコの首に降り立つ。また浮き上がった手を、僕は捕まえた。
 内に骨を感じて、思ったよりは硬い。

「ダイゴ?」
「………」
「何かあったの?」

 案じるように何度も名前を呼ばれるけれど、僕はいつまでたっても、返事を出来なかった。