昨夜のことだった。とっぷりと暮れて闇色となって事務室の窓を背に、支部長は笑む。
「一日早いけど、お誕生日おめでとう」
「え、ありがとうございます……?」
柔らかな彼が眼鏡越しに笑うと、ぽっと胸があたたかくなるようだ。少し照れつつ、けれど違和感を覚える。
確かに明日、わたしは誕生日を迎える。チャンピオンとなって二度目の誕生日だ。それに間違いは無いのだけど……。
わたしの戸惑いを読みとって、支部長は、今度は歯を見せるように笑った。
「その顔は、なんで今日言うのかっていう顔だね!」
「そう、ですね」
「いやぁ、僕、思うんだよ。明日、君は休んだら良いんじゃないかなって」
「それは……、誕生日だからですか?」
「いーや!」
ぐっと拳を握る室長。わずかながら血管の浮き上がる拳がぶるぶると震えている。
「明日は君へのプレゼントを捌くのに忙しくなるから……!」
支部長が何を言っているのか、一瞬理解するのが遅れた。けれど去年の様子を思い出して、わたしは手の先から冷えていくような心地がした。
だって、去年のわたしの誕生日は……。
「あー去年の今頃だったよなぁって。空に舞う、メールを持った300以上のキャモメやペリッパー……。綺麗だったなぁ……。一瞬映画のヒロインになったような気がしたよ」
「………」
「対策とかしてなかったから、捺印する指が、痛くなったなぁ……。伝票が僕の机まで侵食してさ」
そう、一年前のこと。チャンピオンとして求められるがままに行動してきたわたしは、ホウエンで思った以上に有名人になっていたらしい。
知らない間に公開されていた誕生日当日、これまた知らない人からたくさんの祝福を受けたのだ。
一番多かったのはメール、次は花束だ。プレゼントの山は見ると反射的に心が踊ってしまったけれど、手放しで喜ぶわけにもいかなかった。
まさかの事態にリーグ全体は大変な混乱で、職員たちはあわてふためいていた。
喜んだら良いのか、頭を下げたら良いのか。わたしはひたすら、リーグの隅っこでどうしたら良いかわからないまま、呆然としていた覚えがある。
「プレゼントのガイドラインもちゃんと作ってなかったし、ほんとあれは僕の不備だったなぁ」
「す、すみません……」
「いやいや! 今年はいろいろ考えてあるから大丈夫。備えあれば嬉しいな、だよ!」
「憂いなしですね」
「嬉しいなの方が覚えやすい! ——で、君はそうやってかしこまってしまうみたいだから、思い切って一日休めば良いと思ったんだよ」
去年のわたしを、支部長は見ていたのだろうか。あんなに大変そうに駆け回って余裕なんてなさそうだったのに、こういう優しさの部分でわたしはこの人に敵わない。
「リーグに来たいならおいで。でもとりあえず、休み扱いにしておくよ。ね? どう過ごすかは君の自由だ。だけど、リーグのことは気にしないで。明日がせめて君だけのために存在する一日であるように、願うよ」
「支部長……」
「だから今日言うね。お誕生日、おめでとう」
は、と息が詰まって、起きてしまった。時計を見ると夜明けの直前だった。
ばくばくと心臓が鳴っている。誕生日という言葉には不釣り合いな、痛みの伴う目覚めだった。
手足に寒さが忍び寄って、わたしはシーツを抱き寄せる。まだ起きる時間ではない。けれど意識ははっきりとしていた。ふーっと息を吐いて、この体から緊張が抜けていくように願って目を閉じた。
不意にカーテンを揺らしたのは鳴き声だった。低く、のどをふるわす鳴き声に、朝日に焼けた大地がうなり声をあげたのかと思った。
体を起こしてみると、窓からトロピウスがわたし見降ろしていた。
体や力はまだまだ現役なのに、目を細めてもまぶたにしわが残るあたり、彼は老人なのだと感じる。
また、鳴き声がわたしを揺らす。けっして大きな声では無いのにその揺れはぴったりとわたしの波長に合うようで、わたしの腹に大きく響き渡る。
「どうしたの?」
やっぱり低く、彼ののどが鳴る。窓越しの彼越しに、オレンジ色が差す。ああ、夜明けだ。
トロピウスが何を訴えているのかはわからないが、とりあえずわたしはシーツと、念のため目覚ましをつかみ、家の外へ出た。
ひんやりとした朝の空気の中で、トロピウスはわたしを待っていた。彼の意図が分からないまま家の外に出てきたけれど、あながち間違いでは無かったらしい。なんとなく、理論も裏付けも無いのだけど、トロピウスがわたしを恋しがっている気がした。
未だ薄暗い世界に座す大きな影。トロピウスの体に触れる。自然の中で生き抜く体、時に戦うための体は硬い。
わたしはその硬さに深い安心を覚えた。トロピウスの体を水が巡る音。彼の体が軋みながら駆動する音。新緑の羽がさわさわと揺れる音。そして呼吸する音。朝の静けさの中では、彼の生きている音がいつもよりはっきりと聞こえた。
彼の首がゆっくりと丸められ、わたし自身をはさみながら体を沿えられる。少しうなだれたようなそれは、彼の寝る時の姿勢だ。
わたしも、その首に寄り添ってシーツにくるまった。その上からまたわたしを覆い隠すようにトロピウスの羽が被さる。そしてわたしはトロピウスの匂いに包まれた。
トロピウスに触れる肌から、くすぐったい気持ちがせりあがってくる。
彼の、ゆっくりと大きな呼吸。吸い込む大量の息の中にわたしの匂いも混ざっているのかな。トロピウスが満足そうに感じるのが、とても不思議だ。
小さいものから彼へと近寄っていくのは分かる。わたしもその引力に捕らえられたひとつだった。けれど大きくて、立派で、わたし無しでも生きていた生き物。そんな彼が、わたしを傍らへと呼び寄せたのだ。
幸福は直にやってくる。
「……わたし、あなたのようになりたいなぁ」
わたしの初めてのポケモンとなったトロピウスは、大きな力でわたしを今の場所へつれてきてくれた。昨夜、わたしがリーグの人たちの優しさに触れた事だって、トロピウスがいなければ知ることのなかった光景なんだろう。
わたしもトロピウスのようになりたい。ヒワマキの森で王様のようだったトロピウスに。トロピウスみたいに尊敬と愛情を贈ってくれる人々を、優しさで包んで、愛して、そして強い力で新しい世界へ導くような王様に。
眼に、トロピウスの葉の向こうから訪れる朝陽がかかる。光の色としか言えないそれは空気中の何ものとも混じらなかったみたいに透き通っていて、なんて美しいんだろう。
眠りはしない。ただ、目を閉じる。いつもの時間に、目覚まし時計が鳴るその時まで。
支部長は願ってくれた。今日という日が、わたしのためだけに存在する一日であるように。
わたしは、何のために存在するのであろうか。
支部長の計らいにも関わらず、普段と同じように家を出発したわたしはトロピウスに乗ってリーグへ向かう道中、すでにメールを持ったキャモメの大群に出くわした。
「……去年より多いかも。今年も大変かもね」
朝陽の中、ひこうタイプのポケモンの大群と飛ぶなんて経験、滅多にできない。そんな珍しい光景のはずなのに、これがわたしの誕生日の度に繰り返されるのかと思うとまたわたしは不思議な気持ちになる。
喜んだら良いのか、頭を下げたら良いのか分からない。
不意にぐん、とトロピウスが高度を上げる。
「わっ」
大群よりも一段高い気流をつかんでトロピウスは滑空する。そして太い吼哮を上げた。わたしを叱っているみたいだった。
びりびりとしびれるような彼の気迫を感じて前を向く。
少し高さを上げただけ。なのに景色が違って見える。
今までわたしたちの横にいたキャモメたちが下に見える。見下ろすとあの大群は帯のようになって、空の中を揺れている。
「………」
わたしが引き起こしたすべての物事。それらを喜んだら良いのか、頭を下げたら良いのか分からない。けれど白い鳥たちの道は、そんなこと善悪とは全く別の次元に置き去って、綺麗だと、わたしの心に言わせる。
空の中、強い風を受けている。けれど夜明け前にもらったトロピウスの優しさは、わたしの中でまだ香っている。
「……わたし、笑顔でやる。そう決めたんだったね」
ついてきてくれるリーグの人たちに甘えてなんかいられない。むしろ、わたしが導こう。笑顔で堂々と向い受けて、なんでも無いよって顔で乗り越えて、なんでも無いよって思わせて、その向こうの景色までみんなを連れていこう。
ごめんなさいは言い過ぎない。それがわたしのトロピウスみたいな、大きな生き物のやり方だと思うから。
大丈夫、まだあなたの優しさが巣くっている。わたしは、笑顔でやるわ。
(魚子さん、お誕生日おめでとうございます。トロピウスでリクエスト、ありがとうございました)