隙間からは草が生え、吹き付ける海風にところどころ欠けた。そういう石畳を何段も登る。彼に捧げる花束を抱えて。
少し息が上がる頃に頂上にたどり着き、崖の向こうに青い地平線を見る頃、わたしは少し汗をかいてしまう。海も空も天国の一部のように美しい。そういうところに、彼のお墓は建てられている。
彼に会いに、わたしは孤独でないと自分自身に言い聞かせるために、わたしはここへ通う。
「おはよう。良い天気ね」
眠り続ける彼の元へ毎日通うことは、楽だとは言わないけれど、苦でもない。会いにいく度に、彼が死してなお、私の安らぎは彼とともにあると再確認させられる。それに物言わぬ彼を目の当たりにするだけで、涙が自然と滲んできて、苦しみさえも悲しみに塗りつぶされてしまうのだ。
「この前の大雨は大丈夫だった?」
いつだって、内容はなんてことない。世間話だ。墓石となった彼からの返事は無い。
海風が吹きすさぶ。彼がいなくなって一年以上が経った。まだわたしは自分一人残されたことに、子供みたいに泣いている。
風で涙が道筋を変える。わたしはハンカチでそれを拭い、かたちばかりの笑みを作ってまた彼に語りかけた。
「相変わらずここは風が強いから、暑さをあまり感じないけれど、下や、わたしの町は結構な暑さだよ」
もちろんうんともすんとも言わないけれど、彼は話を聞いていてくれていると、ひっそりと信じている。
バカバカしい話だとわたしも思うが、今は亡き人の相づちを信じ始めたのにもきっかけがある。もう、半年前のことだ。
その日も、彼の眠る場所にすがるようにたどり着いたわたしは、海風の中で泣いていた。声も上げ、時々、涙を止めようと努力する。けれどこらえればこらえるほどひどいしゃくりになって、わたしは誰もいないのを良いことに、その日は特に激しく泣き散らかしていた。
息もままならないほどに泣いていたわたしの頭は、感情の波にぐらぐらと揺れ、前後の区別が分からないほどだった。よろめきながらも、かろうじて立っていた。けれど、風が吹いたのだった。最後の強がりを吹き消すような強い横っ風。
とても立っていられない。滲む視界で草のある方向を見つけ、せめてそちらへと倒れ込んだのだった。
『っ……』
けれど、思わず息を飲んだ。支えを失って倒れ込む背中に何かが当たったのだ。わたしは体はそれに少し跳ね返り、それからぱたんと草むらの中に倒れ込んだ。
すぐに上半身を起こして辺りを見回した。
さっき触れたのは? 草の感触でも岩肌でもない。温度は感じとれなかったものの、それはいきものの、肉体の感触だった。
けれど、誰もいない。ただ広がるのは空と海の青だ。
わたしは震える声で語りかけた。
『貴方なの?』
返事など無かった。けれどあの、いきものの感触だけは刻印のように肌に残っていて、わたしはそれ以来信じている。そこに、何かがいる、と。
半年前のその出来事以来、彼がわたしに触れてくることは無い。何か、彼の声があったわけでもない。けれど、不思議と、わたしは彼らしき存在を感じていた。ここへ来る度に、何か話をする度に。
空とわたしの間には何もないはずなのに、言葉がその空間へ吸い込まれていく感覚があった。どれだけじゃない。時に視線も感じるし、不思議なことにいない時は「いない」と分かるのだ。
気づけばわたしはそれを彼だと思って、打ち明け話までするようになっていた。過去も、そして今現在のことも同じくらい語った。
彼と思われる存在に話しかけるのは、ただ泣いているよりもずっと、わたしの心を慰めた。見えないけれど、彼がそこにいるかもしれない。そう思えば、なんで死んでしまったの、わたしを一人にしないでと泣きわめいたり、彼を責める言葉はいつしか姿を消した。代わりにたわいもない世間話と、わたしが思い出した彼のことを語る時間ばかりが増えた。
「あの子、結婚するんだって」
友達から結婚報告を受けたのは昨日のことだった。胸にぽっとランプが灯るような明るいニュースは、彼女のはにかんだ顔とともに告げられた。
「結婚式はもう少し、生活が落ち着いてからするって。……正直、そんなに進んでたなんて。本当に驚いた。ついこの前付き合ったばっかりだと思ってたんだけど」
聞けば、二年以上も付き合ったとのことだった。驚いたと同時に、二年という時の流れに気づけなかったことに呆然とした。
そう、彼と別れて、季節が一巡りしていたのだ。友人が結婚を迎えてもなにもおかしくないの時が流れたのだ。
「貴方がいなくなってから、時間が経つのが早すぎる……」
友人の放つ暖かい笑顔に、わたしはしびれたみたいになった。
彼女は幸せなのだと、頭で感じても、ねっとりとぬるい油ねんどを触っている時のような心地だった。
わたしの幸せは、ずうっと向こうの世界へと行ってしまった。そのせいか、人の幸せに触れても自分の幸せを思いだそうとしても、もはや何がなんだか分からなくて、わたしは自分の感覚が麻痺しきったことに気づかされたのだ。
急にとめどない寂しさに襲われて、鼻の奥がつんと痛む。こらえようと背中を丸めるも、足から力が抜ける。
彼の時は流れることを止めて、わたしも彼に習うように彼の死に囚われ続けていた。
人生において、彼の死以上にわたしを変化させたものはなく、実際にわたしは今も変われていない。まだ彼が一番好きだ。何よりも好きだ。
けれど、わたしの周りは容赦なく変化しているのも事実だった。彼なしでも世界は回る。友達の結婚報告は、そう改めて思わされた。深く息を吸う。
彼に手向けるはずの花束をわたしは胸に抱きしめて、一歩、踏み出した。
決して一方向へ吹かない風の音が、耳の中までごうごうと入り込むが、わたしの心は静かだった。
初めから分かっていたことだ。彼を失ったことは、わたしの人生何もかもにおける、決定的な欠落だった。彼無しでは成立しないことばかりだというのに、己はよくも一年以上生き延びた、と思う。
わたしの寿命はまだ残されているが、運命はもはや、尽きたのだ。
そろそろ崖が近づいてきた。あまりの高さに足がすくむので、わたしは無理矢理空を見上げた。薄い雲が流れる、晴れやかな空だった。
最期に。倒れるわたしにぶつかったのは、彼の墓前でわたしの話を聞いていたものは何だったのだろう?
彼と信じて何度も語りかけたそれが、焦がれる彼でないことにわたしはいつしか気づいていた。勘としか言えない曖昧な感覚で、決定的に別物だと確信していた。わたしが、彼を間違えるはずがないのだ。
錯乱した頭では信じられたそれを、偽物だと見抜けたのは、ある意味で、わたし自身が慰められた結果だったように思う。皮肉だ。わたしは自らを嘘で修復し、嘘が嘘であると気づいてしまったのだ。
そう、彼はここにいないのだ。どこにもいないのだ。だから自ら命を絶つわたしを悲しむ人は在っても、留め金となる人はいないのだ。
空を見上げたまま、わたしはもう一歩を踏み出した。
落ちる体が、何かの肉体にぶつかった時「まただ」と思った。半年前の感覚が如実に思い出される。あの時と同じ固さだ。
半年前と違うのは、一瞬でなく、今もお腹にしっかりとその存在が感じられること。息を忘れながら見張った視界に何者かが姿を現していたことだ。
青と白の流線型の体に、印象的な胸の紋章。
わたしはホウエン地方に住む人間として、そのポケモンの伝説を伝え聞いていた。
わたしが彼のように思って話しかけていたもの。それは伝説のポケモン、ラティオスだったのだ。
力の抜けたわたしの肉体を、ラティオスは肩の翼にひっかけて空へ飛んだ。保たれる速度で、わたしは“く”の字になってラティオスの体に張り付くしかない。
彼に引っ張られて空の中を飛び、気づけば草むらのなかに捨てられるように降ろされていた。体の痛みをこらえながら顔をあげると、なおもラティオスはそこに姿を現していた。
「……貴方だったのね」
実在するラティオスを見たのはもちろん初めてだ。そしてわたしが初めて見たラティオスの表情。それは、憎しみ、怒り、蔑みに満ちた、冷たいものだった。
人間であるわたしに、ラティオスの、ポケモンの気持ちなど分かるはずがない。けれど彼がわたしにマイナスな感情を刺さりそうなほどに抱いているのを肌で感じる。
わたしは死のうとしたのに、なぜポケモンに助けられ、そして冷たい視線を向けられなければいけないのか。わたしは怒りとともに、花束をラティオスに投げつけた。散る花びらの中でも、冷たい瞳に睨みあげられ、わたしは逃げるように石畳を降りていった。花束を彼に捧げずに戻ったのは、初めてのことだった。
家のドアをぱたん、と閉めると、怒りに沸いていた体に、また急激に寂しさが忍び寄ってくる。家の仄暗さに涙腺をゆるめながら、わたしはソファへと倒れ込んだ。
崖外へ踏み出した時の、足下がふっとなくなる感覚がまだ足に残っている。部屋の中は決して寒くないのに、あの時全身を襲った悪寒で全身が震えた。
きゅう、と胃の縮こまる感覚があって、眠りたいと思ったが、そういうわけにもいかない。今日はこの後に友達と出かける予定がある。一枚上着を羽織ってから外にでて、わたしは固まった。
家の外に流線型。先ほどのラティオスが浮遊していたからだ。
彼の鼻先がまっすぐにわたしを差す。
「もう姿を隠さないんだね……」
そう言うと、ラティオスはまた、瞳の光をぎらつかせた。なぜまだ、わたしを怒っているのだろうか。
自分より体が大きく力も強いものからの敵意を受けて、身がすくんだ。けれど意を決して、横を通り過ぎる。早足で通りを抜けて、人通りのある道で振り返ると、ラティオスの姿は消えていた。
「はぁ……」
そうため息をつけたのも、つかの間だった。どん、とわたしの背中を押す感覚。
姿は見えなくても、ラティオスが、いる。まだ
わたしを追いかけて来ている。
押されてよろめいた足のまま、わたしはまた早足で歩き始める。ラティオスから逃げるたくて。
わたしはラティオスを、あの崖の上でしか感じたことがなかったというのに。わたしがラティオスを見てしまったことが、何かを壊してしまったようだった。
そう、開き直ったように、ラティオスはその日からどうどうとわたしに着いて回った。
もう取り返しのつかないことになってから知る。
アレは、意図的に、死者のフリをしていたのだ。
あの冷たい瞳をしたラティオスが姿も見えないままついてまわるのが、気味が悪くて、攻撃されないこともまた怖くて、わたしは結局本日の予定をキャンセルして家に引きこもった。