次の日。そっとカーテンの隙間から外を覗けば、やはりわたしの家の前にあの青い体が浮きながら眠っていた。
 ラティオス自身はとても繊細な感性を持っているようだ。閉じた目を急に開け、カーテンの中に隠れるわたしを見つける。そして目を細められる。
 わたしは窓から後ずさりしながら思った。
 なんて、気味が悪いんだろう。

 その後、わたしはさんざん迷うことになる。今日も彼に会いに、花を手向けに行くかどうかだ。
 彼への愛情とラティオスへの恐怖。何度もふたつを天秤にかけ、結局勝ったのは彼への愛だった。

 きっと外にはラティオスがいる。おそるおそるドアを開けると、やはりラティオスはわたしを待っていた。
 恐怖体験は昨日で終わりでは無かったらしい。やっぱりラティオスはわたしの近くに在り続けている。なおもするどい目でこちらを見据えるラティオスへ、わたしは吐き捨てるように言った。


「何のつもりか知らないけど、いい加減にして。貴方に追いかけ回される筋合いは無いんだから」


 ラティオスは、目を細めた。わたしの言葉を受け入れるというよりはあざ笑うように。そして水平線の弦をふるわせたような美しい声を一声、聞かせてくれた。

 昨日と同じように、ラティオスはわたしにぴったりつきまとった。 周りに人がいない時は姿を現してわたしを見下ろし、わたしが花屋で花束を買う時、町中を通る時は見事に姿を消す。
 見えなくはなる。けれど時々ここにいるんだと主張するように、ラティオスが触れる感覚があった。刻みつけられるようにすり付けられるラティオスの肉体。その度にわたしは戦慄した。

 彼のお墓が近くなると、人気があっと言う間になくなる。すうっと青空から浮きだしたようにラティオスは姿を現した。

 毎日通っていたのに、わたしの歩きはぎこちない。なぜならラティオスが隣にいるからだ。
 世間からしてみれば、彼はもう亡くなった、過去の人。熱心に墓を訪れるのはわたしくらい。この石畳の階段を誰かと登ったのは、前回が思い出せないくらいに久しぶりだった。


 彼の墓前についたと言うのに、わたしは彼を前にしても言葉が出てこなかった。彼の前に立って、風に吹かれていると「やっぱり」と思う。わたしが彼だと思い話しかけていたのはやっぱり、ラティオスだったのだ。
 いつも、姿が見えないながらも「いる」と感じていた存在は今、わたしの横にたたずんでいる。

 そして結局、隣で浮遊するラティオスへ話しかけるのだ。


「……昨日のこと、少しだけ後悔してる。せっかく結婚が決まったのに、周りに死人が出たらすてきなニュースに水を差してたよね。あの子はきっと悲しんでくれると思うし。とても、優しいから」


 でも、惜しかったという気持ちも少なからずあった。ラティオスさえいなければ、わたしは全てに終わりを告げることができたのに。
 二回目のチャンスは一体いつ、やってくるのだろうか。ひとまず、ラティオスがわたしの周りいる限りはトライすら出来ないだろう。


「わたしは彼に会うためにここへ通っていたけれど、ラティオスにも毎日会ってたんだよね。でも、物好きだね。意図的に彼のふりをしてたんでしょ……?」


 ラティオスはわずかにのどを鳴らした。それが同意なのか否定なのかは分からない。だが、ラティオスが意図的に彼を傲っていたことを、わたしは確信していた。
 わたしが身投げをするまで一度も姿を現さなかったのも、彼だと思わせるために思えてならない。


「……わたしがかわいそうだった?」


 ラティオスを見ないままそう問いかけると、横にたたずんでいた彼がそっと身を寄せる。
 羽の先がわたしの肩に当たった時だった。目の前がふわりと光を増し、気づけばわたしの前に、わたしが立っていた。

 鏡も無い場所にわたしの姿。すぐにラティオスが見せている幻だと気づいた。

 顔を歪めて思い出を語るわたしにまた気づく。今見せられているそれは、ラティオスが見ていたわたし自身だ。

 ラティオスの記憶の中で、わたしは姿の見えないものにすがって、語り続けるのだ。時々発作のように涙を流す。顔も服も濡らして、そこに居るのがラティオスとも知らないで。
 我ながら惨めな姿て、思わず失笑する。

 けれどすぐに笑いはひっこんだ。ラティオスが見ていたわたしは、最後に涙を拭って少し笑んだからだ。


『ありがとう、また来るね』


 まだ震える声でそう言って、かたちばかりでも、笑んで、背を向けるのだった。

 わたしがかわいそうだったか、という質問に対するラティオスの見せた幻は、階段を降りていくわたしを最後に消えた。



「……そのことについて、感謝はしてる。貴方の気配があったから、わたしは彼に向けておしゃべり出来たんだと思うから。
 いろいろと、ごめんなさい。話を聞いてくれてありがとう。あなたを縛り付けるつもりは無かったよ。あなたが彼のフリをしていた理由も、そう意地悪な理由じゃないことも分かった」


 あの幻を見れば分かる。ラティオスの行動の理由が意地悪では無かったことどころか、どこか優しさをはらんでいたことが。
 けれどそれを素直に受け止める余裕はわたしには無い。


「分かったから……。わたしは大丈夫だから。もう、着いてこないで」


 むげんポケモンよ、どうか自由で。人間ひとりのことは放っておいて。
 別れのつもりで、わたしはラティオスを振り切るように、そこを後にした。


 階段を駆け降りて、町を通り過ぎる間、わたしは願い、何度も念じた。
 ラティオスとは関わりたくない、ラティオスとは関わりたくない、ラティオスとは関わりたくない。

 わたしには、己がひどく惨めな人間だという自覚があった。未だ立ち直れず泣いてばかりいるのだから、弱い人間としての自己認識は間違っていないはずだ。
 けれどラティオスが教えた同情は、濡れた全身に吹き荒んだ吹雪のようだった。

 今は亡き人に成り代わって、その人の涙が止まるのを待つ、笑顔を待つ。そんな人間じゃない生き物らしい無垢な同情は、わたしにとっては毒だ。だからもう、


「ほっといてよ……!」


 町中で、人がいるのにもかまわないで、わたしは背後の気配に向かって吐き捨てる。
 崖の上での時間があるせいか、わたしはラティオスの気配をとてもよく感じられるようになっていた。そして今も、ラティオスの気配を感じるのだった。
 まだゆっくりと、着いてきている。

 ラティオスにはもう関わりたくないのに。
 彼の存在がわたしを追いつめ、混乱させ、わけも分からない熱い涙が溢れ出る。けれどそれを許さないとでも言うように彼の熱がわたしの頬とこぼれた涙を擦った。
 姿も、見えないまま。





 それからもラティオスは、彼の墓前を出て、わたしの生活のそこらじゅうで姿を現した。
 二人きりのときは赤い瞳を向けて、町へ出かける時は姿を消して、わたしの周りに居着くのだった。

 ただ着いてくるだけならば良かった。けれどラティオスは、ゆるやかにわたしを縛る。

 あの日、わたしの涙を咎めたのと同じように、わたしが町中で不意に孤独に飲まれて泣きそうになると、彼の肉体が頬を擦るのだ。
 彼とわたしが擦れる時のわずかな痛みが、やはり許さないとでも言うようで、はっと涙はとまってしまう。

 反対に、泣くことを許されているようだと感じる時がある。ラティオス以外に周りに誰もいない時。けれどラティオスの存在がそこにあると気づきながら、涙がこらえられない時。そういう時ばかりは、ラティオスはわたしに何もしないのだった。

 今日も姿を消しながらついてくるラティオスと町を歩き、そしてラティオスと家に帰る。

 ラティオスを認識してからのわたしを初めて見た友人は、わたしをこう表現した。「憔悴しきっている」と。
 すぐに友人の家に連れていかれ、ひざかけとあたたかい飲み物を手渡された。

 ラティオスは姿は消すことが出来るが、その体の大きさのため、家の中に入ることは出来ない。ほんの少しだけラティオスから離れることが出来る。そう思うと緊張が解け、わたしがゆっくり飲み物に口をつけると、友人も安堵したようだった。


「何かあったの?」
「それは……」
「聞かせて。この前の、予定をキャンセルした時も余裕が無さそうで何か思い詰めてるんじゃないかって思ったの」
「……ちょっと、追いかけ回されてて」


 どこまで話すかを決めきらないまま、わたしは口を開く。


「えっ、ストーカー?」
「ううん。少し違う。その、追いかけ回してくるのは人間じゃなくて、ポケモンなの」
「ポ、ポケモンかぁ……。……今は? どこかにいる?」
「どこかは分からない。でも近くにいるんじゃないかな」
の後ろをついてくるの?」
「うん」
はそれに驚いたんだ」


 驚いたなんてものじゃない。人間を背中に乗せられそうなくらい大きなポケモンに追いかけ回されるのは純粋に恐怖だ。ただ着いてくるだけじゃない。ラティオスはわたしを見下し、威圧してくるのだからたまらない。


「そのポケモンってどんなポケモン? 可愛い?」
「全然可愛くない」
「え、じゃあ怖い感じのポケモンなの?」
「怖くはない、かな。かっこいいポケモンだよ」


 ラティオスはかっこいい。そう自分で口にして、驚いてしまった。
 でも確かに恐れおののく思考の裏で、考えていたことだった。ラティオスの力を秘めた体のかたちがかっこいいと思っていた。


「へぇー……。そのポケモン、よっぽどのこと好きなんだね」
「好き……?」
「ついて回ってるんでしょ? に懐いて」
「懐いたとは違うと思う……。他の人間の前だと、隠れるし。わたしの前でだけ出てきて、なんだか怖いの」
は怖いんだ。でも相手はポケモンでしょ? 好き以外の理由がなんかありそう?」
「……、わからない……。ポケモンの言葉は分からないから」


 友人は「そりゃそうだ」と苦笑混じりに同意してくれた。

 ポケモンの言葉は分からない。けれど友人が何気なくくれた感情の名は、わたしに一筋の道をもたらした。



 友人の家を出るとやっぱりその存在の気配がする。わたしがすれ違う人もいない郊外までくればラティオスは、体に星空をうっすらと透かせて飛ぶ姿を見せた。

 ラティオスはわたしにつきまとい、冷徹な瞳で見下ろした。けれどわたしの愛する彼に成り代わり、彼のふりをしてわたしの笑顔を待ち、わたしの身投げを許さなかった。そんなラティオスが、わたしを好ましく思っている可能性がある?


「好きって……、まさかね」


 その時はきょとんとした表情を見せたラティオスだが、ややあってから、わたしのつぶやきの意図を知ったらしい。背中に今までで一番強い、たいあたりがあった。