朝起きると、お腹に妙な重さがあった。見るとラティオスの頭がわたしのおなかにのっけられている。
 ベッドの上から白い首が、初雪をかぶった滑り台のように伸びて、いつも浮遊している体が今は床に着いていた。


 ラティオスが、朝も夜もまるでわたしを見張るようにつきまとう生活が何日も続いて、日々が過ぎれば晴れの日も雨の日も台風の日もやってくるわけで。
 嵐の到来を感じさせた昨日の夕暮れ。さも当然のようにわたしの家の前で姿を蜃気楼のように消えようとしたラティオスを、気づけばわたしは呼び止めていた。

 ラティオスはその体の大きさゆえ、ドアを通ることは出来ない。仕方なく掃きだしの窓ガラスを開けるだけでなく、二枚ともはずすとようやくラティオスが通れるだけの入り口が出来た。
 わたしは船が入港するような気持ちで、ラティオスが家に入るのを見守った。

 窓ガラスを元に戻し、カーテンを閉めて。
 振り返ると、ラティオスは姿を現してわたしにすり寄った。

 わたしがラティオスを知ってしまった日から友人が何気ない言葉をくれたあの日から時は過ぎて、わたしはラティオスに慣れつつあった。
 慣れてくると、冷静な頭でラティオス考えることもできるようになり、よく分からないけれどラティオスはわたしのことを好ましく思っている。もうそれは「まさか」なんて笑えない事実になっていた。

 ラティオスはわたしを好きである。
 友人がこぼしたそれは魔法のようなひらめきだった。
 信じることが怖い。けれどその感情を挟むだけで、全てがそっと、あるべきところへ収まっていく感じがするのだ。

 ずっと、亡き恋人のふりをして話を聞いていたこと。
 わたしの自殺の、留め金になったこと。
 そして彼は何度もわたしに幻を見せた。ラティオスの視線から捕らえたわたしを、言葉の代わりであるかのように、何度も何度も見せた。



 目を閉じる彼は無防備だ。
 そっと撫でると、うっすらを目を開ける。細められたそこから覗く赤い瞳は挑発的な色をしている。


「おはよう……」


 そう言うとラティオスはぬるくあたたまった刃物のような声を聞かせた。

 わたしは以前とはまた違った意味で、ラティオスに恐怖するようになっていた。
 以前はただただ、このポケモンの得体の知れなさが怖かった。けれどラティオスというものがつかめてきた今、わたしの怖がらせるのは、このポケモンの底の知れなさだ。
 いつか、このポケモンに飲み込まれる。そんな予感がわたしにはあった。








 そう。時が流れて、「しばらくしてから結婚式をあげる」という友人の言葉はつい昨日、現実になった。
 しばらくと表現するにふさわしい時が流れたのだ。友達の結婚式をわたしは笑顔で見送ることが出来た。あの時は油ねんどのように感じていた新郎新婦の感じている幸せを、わたしも同じように共有することが出来た。

 人々の笑顔を見送りながら、結婚報告を受けたあの日とは、全く別の心境で思った。


「もう、どうなってもいいや」







 明くる朝、わたしはいつものように石畳の階段を登る。花束を持って。いつもと違うことは、より少しだけおしゃれをしたことだろうか。わたしは持っている中で一番の大切にしていた服を来ていた。今日のために。

 花束から一本花を抜いてから、やはり今日も眠る彼に花を贈り、それから、崖の方へと歩く。
 海の縁が見えると、ぞくりと背筋がふるえた。

 わたしの隣にいたラティオスは流れるようにわたしの前に出て、向かいあったところで浮遊する。
 そして悲しそうな目でわたしを見た。

 海と空と地平線。その景色の中で見つめたラティオスは今までにない表情をしていた。特に瞳は切なげにきらめいている。


「……あなたの、大切なものに捧げる。あなたは今まで、わたしを大切にしてくれたから」


 花束から一輪を差し出したものを、ラティオスに向ける。彼の特長的なつのにひっかけようと手を伸ばせば、ラティオスはそれをあっと言う間にくわえ、わたしの髪にさした。


「ありがとう……。ねぇ、どうしてそんなに悲しそうなの?」


 そう問いかけると、ラティオスは幻を見せて答えを提示する。
 今度ラティオスが見せたのは、あの日のわたしだった。同じようにここに立ち、空を見上げて一歩を踏み出す。そして落ちる、わたし。


「ああ、そっか。そういう風に見えたのか」


 特別な装いをしてここを訪れ、そして崖の淵に立った。ラティオスにとってそんなわたしは、また自分の身を投げ捨てに来たおろかものに見えたらしい。


「違うの。ごめんね」


 確かに昨夜、わたしは虚空へ向かってつぶやいた。もう、どうなってもいいや。それは人生を諦めたための言葉ではない。
 ラティオスが髪にさしてくれた花に触れる。落ちないようにしっかりと、差し込む。


「ねぇ、ラティオス……」


 願いを言いかけた時、急にびゅお、とわたしの後ろから大きな風が吹いた。
 吹き飛ばされないように足に力をいれたわたし。それを、花束が追い越していった。先ほど、彼に捧げた花束は強風に飛ばされて、それこそ涙のようにぼろぼろと花びらをこぼし、崖したの海に飲み込まれていった。

 いくつもの花束を捧げた過去。それを見送り、やはり思う。
 もう、どうなってもいいや。もう、戻れないとしても。


「ラティオス。どこでも好きな場所に連れていって良いと言ったら、あなたはどこに連れてってくれる?」


 青と白を見つめ、崖からなにも無いところへ一歩踏み出す。旅立ちという名の、ある種の死を、わたしから迎えに行くのだ。










 風が吹いている。音はあるけれど少ない。冷たい水の音と植物の揺れる音と、わずかなポケモンの鳴き声。

 ラティオスがわたしを連れ出したのは人間のいない孤島だった。さきほど一体だけラティアスを見かけた。ここはラティオスと、そしてラティアスの住む場所らしい。

 誰もいない。静かな場所で、わたしは草原の上に寝かせられ、ラティオスはわたしを相変わらず見下ろしている。
 つきまとわれている間、ラティオスの様々な表情を見てきたが、今わたしに多い被さるラティオスは見たことの無い表情をしている。

 わたしにはラティオスが笑っている気がしてならなかった。三日月を思い出す目を細まり。それは好きなものを手に入れたときの愉悦に見えてならなかった。

 のどを鳴らすラティオスの下で、わたしはぽろりと泣く。流れるのは昔の恋人のための涙だった。
 あの崖から飛び出し、別れを決めたけれど、まだ傷がなくなったわけではなかった。

 ラティオスに気にした様子はなく、むしろわたしに優しく体をすり付けた。慰めのようだった。

 前からそうだった。ラティオス以外に周りに誰もいない時。けれどラティオスの存在がそこにあると気づきながら、涙がこらえられない時。そういう時ばかりは、ラティオスはわたしに何もしない。


「まだ泣いていて良いの?」


 そう問いかけるとラティオスは幻を見せる。それは今のわたしだった。孤島の草原に寝そべり、涙を流すわたし。けれど目はしっかりとラティオスを捕らえているわたし。

 彼じゃない熱に慰められて泣くわたしを、繰り返し繰り返しラティオスは見せる。幻が終わり、わたしの目がラティオスを捕らえると、またラティオスは幻へとわたしを落とす。

 明滅する夢とうつつ。彼の幻と彼の笑み。それらに刻みつけられる、ラティオスのメッセージは、おそらくこう言っている。

 もう君は僕のもの。