※ギラティナと氷空の花束シェイミに出て来るゼロさまです〜
病室の扉を開けて、まだ肩ほどしか彼女には見えていないはずなのに、電動のベッドが駆動する音が聞こえた。
クリーム色のシーツに挟まって伏せる彼女は、首を伸ばして私を確認すると花が咲いたように笑む。
『ゼロ、おかえりなさい』
ここは故郷では無いのに、生まれ育った場所が同じ人間だから。それだけの理由で、彼女はその言葉を使った。
彼女が寝たきり、離れることも出来ない病室。その窓に、故郷を感じさせるものなどかけらも無いのに。
適切で無い言葉遣いに私が曖昧に口端を上げると、彼女は上半身を少し起こして、指先だけでちょいちょいと、小さな動物を呼ぶ具合に手招きをした。呼んでいるのはどうせだから。それだけの理由で、招かれるまま、何の心の準備もなく近寄る。
ベッドの横に立つと、もっとというように指先がさらに呼ぶ。腰を曲げて顔を近づけると、ずっとシーツの中で暖めていたにしては冷たい指先が、私の頬や耳や髪などに触れる。文字通り目前で彼女の手を、白さに膨張して見えた。
数分。それでもじっとして待つには長い時間をかけて、私の確認を終え、は心底安心したような声色で息を吐いた。
『うん、ちゃんとゼロだ……』
なぜ、私が私でなくなるのか。なぜそれを彼女が見舞いの度に危惧するのか、理解は出来ない。
私が少し冷めた目でじっ、と見つめていると、彼女はなぜか急に照れて、シーツの中に潜り込んでしまった。
彼女に聞こえない程度のため息を吐き、服の胸元をゆるめた。少なくとも2、3時間は、彼女のために使うつもりがあった。
『はんてんせかいはどうだった?』
『あの世界はやはり美しいよ』
『ギラティナはこわくないの?』
『怖くはない。どちらかと言えば、あれが妬ましい』
『妬ましい、かぁ……』
そういうと、はくすぐったそうに笑った。
『分かるなぁ、その気持ち。わたしも、空を飛べるポケモン、水の中を泳げるポケモン、みんなみんな妬ましいもの』
それからは、『お菓子あるよ、いただき物だけど』とベッドサイドの引き出しを指した。子供の頃、半ば強制的に彼女の家へ連れて行かれた時と、変わらない声色だった。
『ねぇ、はんてんせかいの写真は無いの? わたし、見てみたいなぁ』
『……、すまないがムゲン博士はまだあちらの世界の映像や写真をむやみに公開するつもりは無いんだそうだ』
『そっか』
あっけないほどあっさりと、は私の言葉を聞き入れて、微笑を絶やさないまま窓を見た。光の加減で窓ガラスが弱々しく鏡の役割を果たし、病室の男女を映し出している。
窓越しに目が合った彼女は、その時瞳に確かに夢を見ていた。
『いつか見てみたいなぁ、はんてんせかい』
はんてんせかいへの憧れを語った半年後、一度退院を許された彼女は、楽しみにしていたほんの一度の外出で見事に発熱。すぐに再入院したが、悪化し、昏睡状態へ陥った。
今日ばかりは受付で面会の手続きをしないで、私は窓から彼女の病室へ入った。
窓辺から、彼女のベッド越しの景色を見る。そうするとの視点で病室が見られた。ここから、この位置から見舞いに来た私へ「ゼロ、おかえりなさい」などと言ったのだ。
瞼が丸い瞳を覆って久しい。窓ガラスの鏡越しに私と夢を見ていた瞳、空想した脳は今何を見て何を考えているのだろう。
当たり前に彼女はなにも言わない。けれど、耳の奥で、向けられた声の響きがありありと思い出される。
とりとめもなく彼女との時間を重ねる度に思っていた。私の幼なじみが、彼女のような人間で良かった。彼女が病気で、10才になる前に病室へと、一種の隔離を受けた人物で良かった。
その人とは違う生い立ちのおかげで、は明らかに、周りの人間と違う世界に生きている。
シビアな現実に対して複雑に想いと感情を募らせていたであろうに、の小さな体には常に諦めと静けさばかりが満ちていた。そんな彼女でなければ、もっと早くに、自分は彼女を切り捨てていたと思う。
ふっ、と笑い声のような、諦めのような息が漏れてしまう。
親よりも長く、一緒にいた人物が、彼女のような人でよかった。
彼女から私に会いに来ることは無い。いつだって私から、彼女の元へ訪れたのだから、結局はそういうことなんだろう。
シーツの中に手を差し込む。膝の裏と肩を抱き、首がしっかりと私の方へもたれ掛かるように持ち上げる。手まで覆ったスーツでは分からなかった彼女の体温が、持ち上げることで、顔の前で微かに香った。
これからは私の飛行艇に乗る。眠ったままだが、たったひとりの肉体を持つ乗組員となる。そうすればやっと、「おかえりなさい」の言葉が適切になるのに、その声を聞くことは無いのだろう。
しかし問題など何も無い。
もう目覚めないとしても、唯一嫌いじゃないと思えた人間がで良かった。
歯の奥からどうしても笑いがこみ上げる。
全て、上手く進んでいる。
これから私が手に入れるのははんてんせかい。あの世界に無駄なものなど、無い方が良いのだ。